長洲荘跡碑
兵庫県尼崎市杭瀬北新町4丁目7 34.720386
別名、長洲御厨。
756年、東大寺領猪名荘の一部。
950年代、荘園として独立。
海沿いに位置することから漁村が多く、東大寺が地子を課し、検非違使庁も港湾維持を名目に庁役を課した。
この二重課税に対して、荘民は小一条院の散所として身を寄せ、皇子の敦貞親王、関白藤原教通、娘・藤原歓子と従属先を変え、歓子はこれを自らが建立した常寿院に寄進。
賀茂社の社司・県主惟季は毎日の祭祀に用いる魚を求めてこの地に目を付け、一方荘民側も仏教の「不殺生戒」との関係から寺院領となるのを好まなかった。
1084年、に賀茂社領栗栖郷の一部と相博され、四至牓示を行った。