まいど! 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死後、豊臣方と徳川方による大阪の陣が1614年と1615年の2度勃発した。 1614年を大阪冬の陣、1615年を大阪夏の陣と呼び、戦後400年を迎えた2014年と2015年は、大阪城でイベントが開催された。 また、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」により、真田幸村が再び注目を浴びることとなり、真田幸村が歩んだ場所と軌跡を取り上げる。 大阪の陣と大阪の陣に登場する人物のゆかりの地としては、大阪城や茶臼山、三光神社、志紀長吉神社だけでなく、遠くは茨木市、堺市、柏原市、交野市など広範囲に及ぶ。 激戦が繰り広げられた古戦場から真田幸村の終焉。 そして、戦によって焼け野原となった大阪の地、焼け野原からの復興で立ち直った大阪の軌跡をギュギュギュっと凝縮し、まとめました。 古跡ファンの皆さん、戦国時代のファンの皆さんもぜひ参考にしてみてください。 1614年、1615年に、天下分け目の戦いともいうべき、豊臣家と徳川家の激戦。 まずは、大阪城を出発しましょう。
まいど! 今回は、経営の神様として今も注目を浴びる松下幸之助翁の足跡をたどる。 「こけたら、立ちなはれ」。 松下幸之助の名言の一つである。 和歌山で生まれて中学校を卒業し、大阪へ出てきてから、電気関係の職についた。 大阪のシンボルタワーとして知られる二代目の通天閣建設にも携わった。 その後、独立して、大阪市東成区で創業し、大阪市福島区で起業した。 二股ソケットの開発で成功し、松下のもとで働いていた井植敏男も喜んだ。 井植は、淡路島出身。 松下から独立して三洋電機を創業、自転車の発電ランプの開発を行った。 ある日、松下は、拠点を移すと決めた。 しかし、大阪市から見た方角で北東にある、守口市や門真市、寝屋川市、枚方市などを含めた地域は、鬼門と言われ、町の開発が遅れていた。 松下はこう言った。 大阪市から見たら日本の国土は、ほとんどが鬼門や! そして、門真市への移転を決めた。 常に松下は、非常識を常識へと変えた。 松下幸之助の斬新な才能で成功へと導いたのか、大阪と言う地域性や土地柄がそうさせたのか。 答えは誰もわからない。
まいどまいど! たこ焼き・お好み焼きに代表される大阪名物。 大阪はそれだけやのうて、お笑いや商人の町でもあるんやね。 毎年1月10日になると、十日戎っちゅうて、9日から11日にかけての3日間、関西各地でお祭りが開催されますねん。 笹を持ち歩き、商売繁盛を願って、恵比須様のいてはる神社へ集まりまんねやけど、恵比須様のことを関西では、「えべっさん」と呼び、古くから親しまれてきました。 「えべっさん」は今宮戎だけやのうて、堀川戎、野田戎などが有名でんねんけど、もう一つ、全国に広まったものがありまんな。 それが、恵方巻。 節分の日に神様のいる方角を向いて食べると願いが叶うとされ、元々は、商売繁盛を願った大阪・船場で働く商人からはじまりましてん。 っちゅうことで、あれやこれやと歴史がありまんねやけど、十日戎や節分以外にも、楽しみ方がいろいろおまして、七福神をめぐってみるのも、どないですやろ? 大阪市内では恵比須様の他にも、大黒天様、毘沙門天様、弁才天様、福禄寿様、寿老人様、布袋尊様の七福神が宿っています。 大阪がこれまで発展してこれたのも七福神のおかげ。 七福神のご利益にあやかりまひょ!
まいど! 冠位十二階、十七条の憲法を制定した皇族で政治家の聖徳太子。 「ホンマは架空の人物では?」との説もあるが、大阪市内では、日本最古の仏教寺院として知られる四天王寺の建立に携わり、周辺の勝鬘院や全興寺、堂島薬師堂の社伝にも聖徳太子という名が刻まれ、大阪府下では河内三太子、関西地域では太子建立七大寺と呼ばれる寺院仏閣が残るなど、広い範囲に影響力を持っていた。 また、実際に大阪市内を歩くと、戦勝を祈願するために訪れたとの説が残る神社が今も鎮座していたり、桃ヶ池大蛇を退治し、舎利尊勝寺で子供を助けたなど、興味深い数多くの素顔を見ることができる。 聖徳太子は、皇族で政治家であったため、地域住民から意見を聞く機会があった。 一般的には、豊聡耳を特技として、多くの人から多くの意見を聞き、後に的確な回答を行った為、機転がきく性格と考える。 さて、これだけ数多くの伝説を大阪の地に残し、大阪府南河内郡太子町の叡福寺で古墳を築造させて埋葬されたことから、奈良県の斑鳩で法隆寺を創建した以上に、大阪を愛し、大阪との縁を深めたと推測される。 今も謎多き聖徳太子の伝説をあなたの目で確かめてみませんか。
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