
真田幸村(信繁)と大阪の陣。大阪城から始まる豊臣秀頼と徳川家康の足跡
大阪真田幸村(信繁)と大阪の陣。大阪城から始まる豊臣秀頼と徳川家康の足跡
まいど! 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死後、豊臣方と徳川方による大阪の陣が1614年と1615年の2度勃発した。 1614年を大阪冬の陣、1615年を大阪夏の陣と呼び、戦後400年を迎えた2014年と2015年は、大阪城でイベントが開催された。 また、2016年のNHK大河ドラマ「真田丸」により、真田幸村が再び注目を浴びることとなり、真田幸村が歩んだ場所と軌跡を取り上げる。 大阪の陣と大阪の陣に登場する人物のゆかりの地としては、大阪城や茶臼山、三光神社、志紀長吉神社だけでなく、遠くは茨木市、堺市、柏原市、交野市など広範囲に及ぶ。 激戦が繰り広げられた古戦場から真田幸村の終焉。 そして、戦によって焼け野原となった大阪の地、焼け野原からの復興で立ち直った大阪の軌跡をギュギュギュっと凝縮し、まとめました。 古跡ファンの皆さん、戦国時代のファンの皆さんもぜひ参考にしてみてください。 1614年、1615年に、天下分け目の戦いともいうべき、豊臣家と徳川家の激戦。 まずは、大阪城を出発しましょう。
1583年、石山本願寺の跡地に豊臣秀吉が築城を開始した。 1590年、豊臣秀吉の築城により、大坂城が完成した。 1599年、焼失した。 1603年、秀頼は大坂城で支配していた。 1615年、大坂夏の陣で大坂城は落城。 淀殿と秀頼は自刃した。 一説によると、秀頼は、大阪城から遠くへ続く抜け穴を地下に多数、掘削していて、そこから逃げ、生きながらえたとも。 その一つが大阪市天王寺区に鎮座する三光神社とも。
玉造稲荷神社境内にある像。 1593年、次男として誕生。 父は豊臣秀吉、母は淀殿(茶々)。 秀吉の死後、五大老の徳川家康と対立し、関ヶ原の合戦が勃発。 毛利輝元率いる西軍として参加し、奮闘した。 後に徳川幕府二代目となった秀忠の娘・千姫と結婚。 母は、淀殿の妹・お江。 1614年、方広寺鐘銘事件がきっかけとなり、大坂冬の陣が勃発。 1615年に、大坂夏の陣が勃発。 真田幸村(真田信繁)の活躍により、徳川家康陣へ攻め込んだが、安居神社境内の休息時に徳川家康に攻められ、力尽きた。 大坂城は落城、豊臣秀頼と淀殿は自刃し、豊臣家と徳川家による大坂夏の陣が終わった。
祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后である。 869年、田蓑嶋神社として鎮座した。 1868年、田蓑神社へと改称する。 1586年、この地に立ち寄った徳川家康は、多田神社(大阪府池田市)に参詣した。 1631年、田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。
佃漁民ゆかりの地
かつてこの場所は、佃島と呼ばれ、漁業が盛んな地域であった。 1600年頃、住吉大社を参拝後、徳川家康公がこの地へ立ち寄り、佃漁民への漁業権を与えた。 もともと、漁業が盛んな地であったため、海産物が豊富に獲れ、佃煮の発祥地として知られる。 また、東京の佃島の由来ともなったという説がある。
木村重成は、豊臣秀頼と幼馴染みで、軍議にも参加していた。 大坂冬の陣・今福の戦いで、木村重成は後藤又兵衛らとともに佐竹義宣らを押し返したと言う。 そして、佐竹勢が大和川対岸にいる上杉勢に援軍を求めた。 上杉景勝、堀尾忠晴・榊原康勝らによって、豊臣方を退陣に追い込んだ。 大坂夏の陣では、長宗我部盛親とともに出陣し、若江に陣を展開した。 しかし、井伊直孝の軍勢と乱戦になり重成も槍を持って奮戦したが討ち死にした。
江戸時代、古田織部氏が住んでいた。 茶人として知られる。 本名は、重然。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えていた。 1600年、関ヶ原の合戦に徳川方として参戦。 千利休との親交が深く、利休七哲の1人に数えられる。 茶の湯名人として知られ、小堀遠州、江戸城で活躍。
1614年、豊臣方と徳川方の間で大坂冬の陣が勃発。 参勤のため久保田城を出立していたが、大阪への出陣命令を受けた。 徳川方についた佐竹義宣氏は境内に本陣を構え、鴫野、京橋口の戦いにおいて、戦勝を祈願した。 上杉景勝氏、木村重成氏、後藤基次氏が率いる軍勢とあたった。 今福の戦いにおいて、渋江政光氏が戦死し、幕府における佐竹軍の評価は高まった。
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1614年、豊臣方と徳川方は、大坂冬の陣の際、最大の激戦地となったとされる。 当時、この付近は、冬の陣の主戦場となったが、地形的には旧大和川の支流が分流して深田が多く、大規模戦闘には不向きであったと言う。 双方は銃撃戦を繰り返し、初陣は木村重成と後藤又兵衛が共に臨んだが、決着がつかず、夏の陣を迎えることとなる。
墳長約120mの前方後円墳である。 この古墳は、大小橋命(オオバセノミコト)の墓であるといわれている。 現在は、古墳の中央を勝山通が貫いている。 周辺は、史跡公園 「御勝山公園」 がある。 もともと「岡山」と称していた。 大坂冬の陣において徳川秀忠が陣を敷いて勝利を得たことにより、御勝山へと改称。
JR西日本大阪環状線の玉造駅下車すぐの場所にある玉造日之出商店街。 その一角に真田幸村にちなんだ商店街「幸村ロード」が見えてくる。 飲食店や雑貨店が立ち並ぶ中、「幸村ロード」と書かれた旗が風になびく。
真田十勇士と記念撮影
商店街各所には幸村とともに活躍した英雄「真田十勇士」の看板が立てられ、戦国ファンを中心ににぎわっていた。 ちなみに、写真は、真田十勇士の一人、猿飛佐助。 真田十勇士では屈指の実力を持っていたとされるが、一説による架空の忍者ともいわれている。
玉造日之出商店街
玉造日之出商店街でも随所に真田幸村のキャラクター。 商店街を歩きながら、いろんな出会いが楽しめるのも旅の醍醐味。
こだわりの雑穀など、いろんな商品が並ぶ中、真田幸村に関するグッズが販売されていたので、その商品を眺めながら、一つのお土産を購入。
真田幸村かりんとう
真田幸村と真田十勇士が描かれた巾着と、かりんとうがセットになった「真田幸村かりんとう」。 巾着袋を開けて、中を取り出すと、たっぷりのかりんとうが出てきた。 そば粉が入っているらしく、噛めば噛むほど、そば麺の香りと味がじわじわと口の中いっぱいに広がる。
大枡 玉造店前では「真田丸なりきり撮影会場」が設けられ、真田幸村のような重厚のあるかっこいい甲冑を身にまとった男の子たちが撮影を楽しんでいた。 陣羽織や兜のほか、刀を手に持っての撮影。 真田幸村の死後約400年。 幸村も喜びの撮影会場であろう。
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大阪市天王寺区の宰相山公園にある神社。 天照大神・月読尊・素戔鳴尊を祀る。 400年頃、創建された。 1661年、鎌八幡の隣に遷座したが、1706年に現在地へ戻ったと言う。 かつては姫山神社と称し、一帯は姫の松原と呼ばれていた。 中風封じの神として知られる青麻神社(宮城県仙台市)を勧請した。 1908年、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。 3柱の神を祀ることから三柱神社や、日月山神社とも呼ばれている。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山とも呼ばれ、かつては大坂城の出城が置かれていた。 真田幸村は、大坂の陣のとき、大坂城から当地までの抜け穴を掘ったと言われている。
真田幸村像
三光神社境内には真田幸村の像がある。
祭神は、宇賀魂命、下照比賣命、大小橋命、豊国明神。 創建時期など詳細は不明となっている。 当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社。 当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代、ここ味原郷に誕生した。 その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である。 大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖にあたり、誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにあるとか。
桃山跡
織田信長は、石山本願寺への攻撃の際、兵火に遭い、消失。 比売許曽神社は境外摂社であった牛頭天王社を現在の社地に遷し奉ったが、後年当神社の旧知に再び奉祀せられた。 第二次世界大戦の戦災により焼失。 1948年、再建。 大阪市の都市計画により境内隣接地に公園が整備された。 明治時代、産湯稲荷神社が鎮座する場所は俗に桃山といわれ、大阪屈指の大桃林があったとか。
玉の井
また、大阪城から続く真田の抜け穴と言われた跡があったとか。 1919年、隣接していた「味原池」は、比賣許曾神社の祭神下照比売命が天の磐船に乗って天降られた霊地とされているが、都市開発により、埋め立てられた。
1614年、1615年に大坂冬の陣、大坂夏の陣が勃発。 1614年、大阪冬の陣では、豊臣軍と徳川軍による熾烈な争いを繰り広げ、豊臣秀頼方の戦国武将の一人、真田幸村(信繁)はこの地に、出城「真田丸」を築城し、徳川家康方を圧倒させた。 顕彰碑は、大阪城の石垣にも使用された岡山県犬島産の自然石花崗岩。 豊臣家と真田家の家紋を配し、大阪城天守閣が所有する「大坂三郷町絵図」、「大坂冬夏陣立図」のうち「冬の陣図」、東京国立博物館が所有する「大坂冬の陣図屏風」などが展示。 ここでは、大坂冬の陣で奮闘した真田幸村と「真田丸の戦い」「真田丸」について解説。
1614年、1615年に大坂冬の陣、大坂夏の陣が勃発。 1614年、大阪冬の陣では、豊臣軍と徳川軍による熾烈な争いを繰り広げ、豊臣秀頼方の戦国武将の一人、真田幸村(信繁)はこの地に、出城「真田丸」を築城し、徳川家康方を圧倒させた。 1615年、大阪市天王寺区の安居神社で休息時、徳川軍に攻撃され、討ち死にした。 1622年、真田幸村(信繁)とその子大助の供養の為、真田家の祖先滋野氏が創建、白牟和尚が、堂舎を創建。 寺の定紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山。 当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村の墓をつくることは許されなかったとか。
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茶臼山古墳は、天王寺公園に囲まれ、遊歩道が整備、河底池がある。 5世紀頃、この地の豪族のために作られた墓といわれる前方後円墳である。 1614年、大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となった。 1615年、大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となった。 明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となる。 1925年、住友家から邸宅敷地(大阪市立美術館)、慶沢園とともに大阪市に寄付された。
1690年、「圓珠庵」として創建された。 国文学者として知られる契沖は「鎌八幡」に居を構えた。 周辺には、真田幸村が大阪冬の陣の時、この地一帯に陣地(真田出丸)を構えた。 そのとき、この樹霊に鎌を打ちつけ戦勝祈願をされたといわれて以来、「鎌八幡」と呼ばれている。
1588年、曹洞宗最乗山鳳林寺として創建。 1615年、大坂夏の陣が勃発し、真田幸村に追われた徳川家康は一時、この付近で休息したという。 江戸時代、俳諧師として活躍した上島 鬼貫が眠る。 上島氏は、摂津国川辺郡伊丹郷(現在の兵庫県伊丹市)でも有数の酒造業者・上島宗次(屋号・油谷)の三男として生まれた。 幼名は竹松。 13歳、松江重頼(維舟)に入門、西山宗因の談林派に入門。 25歳、医学を志し大坂に出、松尾芭蕉らとの親交を深めた。 1718年、「獨言(ひとりごと)」の刊行をきっかけに、「東の芭蕉・西の鬼貫」と称された。
別名、安居天満宮と呼ばれている安居神社。 942年から、菅原道真が祭られるようになったとされる。 少彦名神を祭る。 大坂夏の陣で真田幸村が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑がある。 古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめの井)の址などがある。
真田幸村戦没地
真田幸村は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将。 本名は、信繁。 豊臣秀吉の死後に勃発した真田幸村軍と徳川家康軍による合戦の一つである大坂夏の陣で、徳川家康率いる徳川軍は、真田軍の凄まじさに、自害を覚悟したほどであったとか。 その後、真田幸村は、安居神社にいるところを徳川軍に襲われたため、敗退した。 翌年、大坂で真田が豊臣秀頼・淀殿を助け、紀州へと逃げ落ちたという説が流れた。
大坂夏の陣の頃、真田幸村は、徳川方の伊達正宗軍と一戦を交えた。 その後、古市街道を経て大坂城へ帰城する途中、この地にて休憩したと言う。 戦勝祈願のため、志紀長吉神社へ訪れ、軍刀を一振りと六文銭の軍旗を奉納した。 現在、石碑だけが当時を物語っている。
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大坂夏の陣の際、徳川家康がここを通過すると予測した真田幸村は、ここに地雷を仕掛けたのだとか。 案の定、地雷が爆発したが、徳川家康は所用で席をはずしていたので、助かったのだとか。
祭神は、長江襲津彦命。 794年、創建されたとされる。 大阪の陣での戦勝祈願に真田幸村が訪れたと伝わる。
1615年、大坂夏の陣が勃発。 豊臣方の真田幸村(真田信繁)氏による奇襲を受けて輿に乗って逃げ出した徳川家康氏。 豊臣方の後藤又兵衛(後藤基次)氏は怪しいと睨んで槍で突き、家康は南宗寺で絶命した。 周囲に、家康の死は伏せられ、家康の影武者が活躍。 その間、家康の遺体は密かに日光東照宮へ運ばれ葬られたという。 その後、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光が相次いで寺を参詣した。 境内には家康の墓があり、瓦には徳川家の「葵」の紋が描かれている。
1568年、四国の阿波、讃岐より兵を起こして、畿内を支配していた三好氏家臣・三好之康(実休)の帰依を受け、日珖の父で堺の豪商・油屋伊達常言、兄の常祐が協力して大蘇鉄を含む東西三丁南北五丁の土地を、開山である日珖に寄進、常塔伽藍を建立寄進、妙國寺と称した。 1615年、大坂夏の陣、大阪落城に際し豊臣の将大野道犬は、徳川家康妙國寺にありと聞き、乱入諸堂に火を放ち全山灰陣燼と化す。 1628年、再建。 1945年、第二次世界大戦堺大空襲により焼失。 1969年、本堂を再建し現在に至る。
堺は会合衆らの自治により統治されてきたが、織田信長は、商業・貿易の要地である堺を統治するため、松井友閑、石田三成を堺政所に任じた。 徳川家康が成瀬正成、米津親勝、細井政成を堺政所に任じた。 大阪の陣が勃発し、焼失した堺の復興には、堺奉行を兼務していた長崎奉行の長谷川藤広が、地割奉行風間六右衛門に命じて復興・区画整理(元和の町割り)を行った。 一時期、喜多見勝忠が摂河泉の奉行を兼ねていたが、経済が堺から大坂へ移転するにつれ、廃止。 大坂町奉行の管轄、堺に再度設置。 矢部定謙、跡部良弼、久世広正らが担っていた。 慶応の改革によって堺奉行は廃止。 大坂町奉行が堺を管轄。
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大坂夏の陣により、堺の町も激戦地となった。 徳川家康氏は、戦国時代の終結と天下平定を宣言、長谷川藤広氏を堺奉行に任命し堺の町割り(都市計画)を命じた。 風間六右衛門氏は、豊臣秀吉氏が埋めた周濠の土井川を掘り起し、散在していた寺院を集めた。 紀州街道沿いには商工業者を集め、長崎に匹敵する国際貿易港を目指した。 風間六右衛門氏は、法華宗(日蓮宗)の信者であった為、町割りに際して、法華宗の寺院の敷地が大きすぎると批判を浴びた。 町割りは、風間六右衛門氏の案が採用され、区画整理が行われた。 区画整理には、「丁目」はなく「丁」が採用。
徳川家康は、大坂夏の陣の時、兵を引き連れて、京都の二条城を出発し、東高野街道を通りながら、星田の地に到着。 このとき、三河の出身で家康と縁の深い、村長の平井清貞宅に宿陣。 「御殿屋敷」として現在もその名を残す。 平井家では、早くから連絡を受け、広大な屋敷の北にある奥書院を修繕していた。 後に星田村の領主になる市橋長勝氏は、兵を率いて、村を守っていたため、豊臣方に焼き払われずに済んだと言う。 翌日、家康は四條畷の徳川秀忠軍とともに豊臣方を攻め、大坂城は落城。 このとき、家康の旗印は、新宮山八幡宮の庭の松に高く掲げられ、「旗掛け松」と呼んだ。
木村重茲の子、母の宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となった。 豊臣家の重臣となり、豊臣姓を与えられる。 豊臣家と徳川家康との関係が険悪になると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張、片桐且元を大坂城からの追放に成功した。 大坂冬の陣では、後藤基次とともに今福砦攻防戦を展開。 大坂夏の陣では、豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣。 八尾方面には長宗我部盛親、若江方面には重成が展開、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した(八尾・若江の戦い)。 藤堂軍の右翼を破った重成は、散開していた兵を集め、敵の来襲を待ち構えた。 敵陣へと突撃を開始するも、井伊軍との激戦の末に戦死した。
江戸時代、道明寺一帯は後藤基次(後藤又兵衛)率いる豊臣方と徳川方による大坂夏の陣の激戦地となった。 後藤氏は玉手山に陣を敷いたが、討死。 後藤又兵衛しだれ桜が植樹されている。 後藤氏は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、黒田如水、豊臣秀頼に仕え、黒田二十四騎、黒田八虎、大坂城五人衆の一人に数えられた。
後藤又兵衛の人物像
如水の没後、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔。 大坂の陣が勃発し、大坂城に入城。 旗頭として天満の浦での閲兵式を指揮。 徳川家康からも恐れられるほどの実力を持ち、摩利支天の再来と称される。 冬の陣では鴫野・今福方面を守備。 大坂夏の陣、道明寺の戦いにおいて、薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。