
なにわが生んだ経営の神様・松下幸之助翁の足跡
大阪なにわが生んだ経営の神様・松下幸之助翁の足跡
まいど! 今回は、経営の神様として今も注目を浴びる松下幸之助翁の足跡をたどる。 「こけたら、立ちなはれ」。 松下幸之助の名言の一つである。 和歌山で生まれて中学校を卒業し、大阪へ出てきてから、電気関係の職についた。 大阪のシンボルタワーとして知られる二代目の通天閣建設にも携わった。 その後、独立して、大阪市東成区で創業し、大阪市福島区で起業した。 二股ソケットの開発で成功し、松下のもとで働いていた井植敏男も喜んだ。 井植は、淡路島出身。 松下から独立して三洋電機を創業、自転車の発電ランプの開発を行った。 ある日、松下は、拠点を移すと決めた。 しかし、大阪市から見た方角で北東にある、守口市や門真市、寝屋川市、枚方市などを含めた地域は、鬼門と言われ、町の開発が遅れていた。 松下はこう言った。 大阪市から見たら日本の国土は、ほとんどが鬼門や! そして、門真市への移転を決めた。 常に松下は、非常識を常識へと変えた。 松下幸之助の斬新な才能で成功へと導いたのか、大阪と言う地域性や土地柄がそうさせたのか。 答えは誰もわからない。
-
通称、パナソニックミュージアム。 1968年に開設。 建物はかつて本社社屋に使用していた。 施設内では、松下幸之助氏に関する資料が展示されている。
-
松下幸之助像
パナソニックミュージアム前に展示されている松下幸之助氏像。 16歳の頃、大阪で走っていた路面電車をきっかけに、電気の道を志すようになり、大阪電燈(現在の関西電力)へ入社。 17歳の頃、大阪市浪速区に建設中であった初代・通天閣の電灯工事に配線工として参加。 18歳の頃、関西商工学校夜間部予科に入学後、大阪電灯を依願退職した。
-
-
1894年、和歌山県和歌山市祢宜生まれ。 小地主松下政楠・とく枝の3男として出生。 実家が松の大樹の下にあり、松下の姓を名乗った。 父が米相場で失敗し破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を経営。 9歳の頃、大阪市内にある宮田火鉢店にて丁稚奉公、五代自転車へ転職した。
-
松下幸之助生誕の地
生誕地の碑裏には、落雷と火災を重ねながらも樹齢800年で松下姓ゆかりの松が残っている。
-
石碑
生誕地すぐの場所には松下幸之助の偉業を讃えた石碑が建立されている。
-
-
大阪市浪速区に建設中であった初代・通天閣の電灯工事に配線工として参加。
-
現在、深草山・宝塔寺の別院のすぐそばに設置されている。 兵庫県淡路島出身の井植むめのさんと出会い、結婚。 1917年、むめのさんを縁に、井植敏男氏らと出会い、東成区猪飼野にあった借家で、松下式ソケットを製造販売。 1918年、松下電気器具製作所を創立するまで、当地で過ごしていた。
-
松下電気器具製作所(現在のパナソニック・パナソニック電工)を創業した。 付近には、創業の家跡など4ヶ所ある。
-
松下幸之助創業の地
大阪市福島区にある大開公園周辺には、借家を改造して工場とした松下幸之助創業の家跡が点在する。
-
-
大阪市旭区千林にある千林商店街は、日本で初めてとなるスーパーマーケット発祥の地。 後に流通革命を起こした中内功氏ゆかりの主婦の店ダイエーはかつてこの付近に位置していた。 家電品の廉売を巡り、中内功氏を相手にダイエー・松下戦争が勃発。 「定価販売(小売希望価格)」を主張した松下氏に対し、中内氏は消費者がより安価で商品が購入できる「価格破壊」を主張。 この対立が和解した1994年まで30年間続いた。
- アプリで地図を見る
-
1970年に開催された「日本万国博覧会(通称、大阪万博)」。 酷暑にも関わらず、入場2時間待ちで並ぶ一般客の行列に並び、日陰が無いことに気付いた。 「松下館」と大書した紙製の帽子を配布するよう担当者に指示。 これが会場外での宣伝効果につながり、松下館は更に人気を呼んだとか。 タイムカプセルのミニチュアをカラーテレビの景品として頒布、販売強化に繋げた。
-
「5000年後に開封する」として話題になったタイムカプセル。 全国の小中学生の手紙や当時の物品を納めて、博覧会終了後に大阪城公園に埋蔵された。 開封予定は1970年の5000年後にあたる6970年。
-
松下幸之助が、地元への感謝をこめて自費で建設。 和歌山市に寄付した。
-
「これからは、お互いに世界的な地位に目ざめた日本人として、明治維新の志士のような強烈な信念に立ち、身を挺して、世界に範を示し、世界の繁栄に尽くす昭和維新、世界維新の志士の役割を果たそうではありませんか」。 これは、松下幸之助翁のお言葉で、松下幸之助翁の寄付により、霊山護国神社付近に歴史観が開館。 ここでは、幕末から明治維新にかけて活躍した坂本龍馬や新選組らを筆頭に、西郷隆盛、中岡慎太郎、木戸孝允、高杉晋作など倒幕派志士の遺品とともに、徳川慶喜、松平容保など幕府側に関する資料も数多く展示。