
太子七大寺を建立した聖徳太子。今も謎多き厩戸皇子と聖徳太子の素顔に迫る
大阪太子七大寺を建立した聖徳太子。今も謎多き厩戸皇子と聖徳太子の素顔に迫る
まいど! 冠位十二階、十七条の憲法を制定した皇族で政治家の聖徳太子。 「ホンマは架空の人物では?」との説もあるが、大阪市内では、日本最古の仏教寺院として知られる四天王寺の建立に携わり、周辺の勝鬘院や全興寺、堂島薬師堂の社伝にも聖徳太子という名が刻まれ、大阪府下では河内三太子、関西地域では太子建立七大寺と呼ばれる寺院仏閣が残るなど、広い範囲に影響力を持っていた。 また、実際に大阪市内を歩くと、戦勝を祈願するために訪れたとの説が残る神社が今も鎮座していたり、桃ヶ池大蛇を退治し、舎利尊勝寺で子供を助けたなど、興味深い数多くの素顔を見ることができる。 聖徳太子は、皇族で政治家であったため、地域住民から意見を聞く機会があった。 一般的には、豊聡耳を特技として、多くの人から多くの意見を聞き、後に的確な回答を行った為、機転がきく性格と考える。 さて、これだけ数多くの伝説を大阪の地に残し、大阪府南河内郡太子町の叡福寺で古墳を築造させて埋葬されたことから、奈良県の斑鳩で法隆寺を創建した以上に、大阪を愛し、大阪との縁を深めたと推測される。 今も謎多き聖徳太子の伝説をあなたの目で確かめてみませんか。
「金光明四天王大護国寺」とも呼ばれている。 593年、聖徳太子は摂津難波の荒陵で四天王寺の建立を開始する。 1946年、天台宗に属したが、「日本仏教の最初の寺」として、和宗総本山となった。 四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び本格的な仏教寺院としては国内最古である。 当初、四天王寺は大阪市中央区玉造の岸辺にあった。
夕陽ヶ丘から眺める夕陽が美しい
大阪がまだ海の底であった頃。 時代の流れとともに、河内湾、河内湖へと姿を変えました。 現在も大阪城から天王寺、そして住吉にかけては小高い丘になっており、まだ目の前に海が迫っていたころ、ここから眺める夕陽が美しいと評判になり、いつしか、夕陽ヶ丘という地名になりました。 この看板周辺はビルに囲まれ、大阪湾に沈みゆく夕陽を眺めることは困難ですが、当時を過ごした人の思いを感じました。
鎧かけ松
源義経は、四天王寺にて一宿した。 その際、松を見つけて、自分の鎧を掛け、ひと時の休息をしたとの伝説がある。
野沢菜原種 旅の起点
1756年、野沢菜は、健命寺(長野県下高井郡野沢温泉村)の住職が京都遊学の際に四天王寺から持ち帰った天王寺蕪の種を寺で育てたのが起源。 高冷地のためカブの部分が大きくならず葉だけが育ったとか。 天王寺蕪は、天王寺が発祥で、なにわの伝統野菜にも指定されている。
聖徳太子が四天王寺を創建した際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。 かつて創建当初から明治時代中期まで境内の南沿いに堀があったとされ、この堀を渡って参詣したのが社名の由来だといわれる。 境内には樹齢数百年に及ぶ樹木がある。
通称、「どんどろ大師」「どんどろ」と呼ばれている。 明治時代、この地にはかつて鏡如庵が存在した。 1909年、聖徳太子との縁が深い善福寺(大阪府豊能郡豊能町)がこの地に移転した。 1800年頃、大阪城代に在任中であった土井利位が参拝した。 このことから、「土井殿の大師」と呼ばれ、どんどろ大師の由来にもなったとか。 鏡如庵は、歌舞伎の「どんどろ大師 門前の場」の舞台として設定されている。
勝鬘院・愛染堂。 聖徳太子によって建立されたとされ、四天王寺に次ぐ、歴史を持っている。 地元では、愛染さんとして親しまれている。 ここでは、聖徳太子になりきって記念撮影をすることができる。
合邦辻は、古伝によると合法辻とも言われている。 聖徳太子によって、えんま堂が開基された。 当時、大伽藍は消失して辻堂となった。 明治時代、融通念仏宗西方寺の境内に移転した。
高野山真言宗の寺院。 500年頃、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立、薬師如来の像を安置。 門の前に置かれている看板には、鬼が描かれ「ウソつくと舌をぬくぞ」と書いてある。 ほとけのくにや仏足石、地獄堂、小さな駄菓子屋さん博物館などがあり、地獄堂には、閻魔(えんま)大王様などの像が並ぶ。 地上から丸く突き出している石。 この石の中央部には、大きな穴が空いている。 この穴に、頭を入れると、「地獄の釜の音」が聞こえると言う。
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森之宮神社とも呼ばれ、地名・森之宮の由来ともなっている。 主祭神は、聖徳太子、用明天皇・穴穂部間人皇后。 聖徳太子は物部守屋との戦いの戦勝を祈願した。 589年、戦勝後、両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺を建立。 吉士盤金は、新羅へ渡った。 そこで、二羽の鵲を持ち帰り、難波の杜で飼ったことから「鵲の森」と呼ばれた。
祭神は、宇迦之御魂大神、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命。 紀元前12年、創建。 蘇我氏と物部氏の戦いで、聖徳太子がこの地を訪れ、蘇我氏方の戦勝を祈願したと言う。 戦勝後、当地に観音堂を建立。 1603年、豊臣秀頼公により、社殿を再建。
ミラーガラス127枚を使用した直径7mの球状。 593年、聖徳太子によって創建。 1675年、聖徳太子が四天王寺を今週する際、建築用材の運搬船が暴風雨で難破した。 そのとき、洲の中に流れ着き、お堂を建てたとの説がある。 これが後の、薬師堂の起源。 名称「堂島」の由来は、海上を航行する船から、このお堂がよく見えたことから。 お堂内には、薬師堂如来像、地蔵菩薩像、弘法太師像など仏像4体と、ねはん図など軸二本がある。 1893年、大阪太師詣りの行事では薬師堂が第一番の霊場だった。 堂島薬師堂は月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っている。
季節になると桜が満開となり、花見客でにぎわっている。 また、1日限定で「太子橋さくらまつり」が開催される。 かつてこの付近は、豊里町・橋寺町と呼ばれていた。 聖徳太子(豊里太子)が寺院を建立するため、この地に立ち寄り、休息したと伝わる。 一説によると、この付近には橋寺が建立されていたという説があり、聖徳太子ゆかりの地として注目を浴びる。
祭神は、安閑天皇・聖徳太子である。 安閑帝は当地に行幸、牛を放牧して開発をはかった。 当初、聖徳太子は四天王寺をこの地に建立を計画した。 鎌倉時代初期、当社には太子画像を蔵し、また地名も天王寺庄がある。 かつて社殿は、淀川に面していた。 当時、森林に囲まれて「大宮の森」といわれていた。 1900年、淀川改修により、現在地に移転した。
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聖徳太子によって創建された。 1679年、近世国学の祖と言われる契沖が住職となった。 修学の道場として、大阪府顕彰史跡に指定。 万葉代匠記を執筆したと言う。 1949年、妙法寺境内は、契沖史跡として大阪府顕彰史跡に指定。 当時の遺構は残っていないため、詳細は不明である。
この公園は、ハナモモやサクラの名所。 池は古くから「ももがいけ」と呼ばれてきたが、かつては「脛ヶ池」「股ヶ池」とも表記された。 桃ヶ池に棲んでいた大蛇を聖徳太子が退治した、という内容の伝説が残る。 その際、股ヶ池浮島に穴を掘り大蛇の死体を埋葬したが、その後も怪異が続くというので霊を沈めるため「おろち塚」が作られ、昭和初期まで残っていた。 また桃ヶ池公園に隣接して設置されている「股ヶ池明神」は、角田某という人物が、夢に出た蛇霊を奉るために、丸高竜王、丸長竜王として祭ったことが起源。 この桃ヶ池公園は、都市計画に基づく区画整理で完成した公園として、日本初のものである。
聖徳太子により創建。 この地は、生野長者の旧地と言われていたが、長者には、言葉の不自由な子が生まれた。 聖徳太子は、その原因を前世で仏舎利3顆を与えたためと云い、それを吐くことを命じた。 長者の子供は3つの仏舎利を吐き出し、言葉は普通に話せるようになったという。 太子は法隆寺、四天王寺、残った1つを自筆の御影と共にの長者に付与された。 長者は、屋敷内に堂を建て、仏舎利を奉ったのが、舎利尊勝寺の始まりと言われる。 1547年、両細川軍がこの付近で対決した「舎利寺合戦」で荒廃。 1672年、徳川家綱が黄檗山万福寺の2代木庵に当地を与え、復興させた。
公園内には、万代池がある。 一説によれば、上町台地の浸食した谷をせき止めて作られたといわれている。 また、「聖徳太子が曼陀羅経をあげて、池に棲む魔物を鎮めた」という説もある。 池周辺には、サクラの木が植えられ、春になると見ごろを迎える。
別名、蹉跎天満宮、蹉跎山天満宮。 祭神は、菅原道真公。 神体は菅原道真公自ら作らせた菅原道真公の像。 901年、菅原道真公が大宰府へ左遷される途中、大阪府寝屋川市に立ち寄り、山頂付近から都の方角を望み、名残惜しむように菅相塚を出発。 菅原道真公の後を娘の苅屋姫が追ったが、間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。 後に、この場所を蹉跎山と呼んだ。 菅原道真公は大宰府でその話を聴き、自身の木像を作って娘に送った。 951年、木像をご神体とする社殿を蹉跎山に建立し、加茂健豆美命神社を合祀。 聖徳太子が開基したと伝わる龍光寺が建立。 明治時代、神仏分離で廃寺。 参道は蹉跎参道である。
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1765年、建立されたとされる。 厨子や聖徳太子少年像が安置されている。
高野山真言宗の仏教寺院。 大阪府南河内郡太子町の叡福寺は「上之太子」、大阪府八尾市の大聖勝軍寺は「下之太子」、野中寺は「中之太子」と呼ばれ、三太子の一つに数えられている。 587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで戦勝したことから、四天王寺とともに建立。
恩智神社の神宮寺として知られている。 神武天皇東征の際、孔舎衙の戦いで、神武天皇が大樹に身をひそめて難を免れた。 このとき、母の如き恩ある木として「母木」と命名。 付近の地名を母木里とした。 後に、聖徳太子がこの地を訪れたときには、既に枯れていた。 樟徳太子は、河内の仏師鞍蔵に命じて母木の古株をもって十一面観音の像を作らせ、恩智神社に安置した。 明治時代、十一面観音の像は、感應院に移された。
別称、中之太子。 蘇我馬子によって開基。 一説によると、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられた。 聖徳太子建立48寺院の一つ。 また、大阪府南河内郡太子町の叡福寺は「上之太子」、大阪府八尾市の大聖勝軍寺は下之太子、野中寺は中之太子と呼ばれ、三太子の一つ。 行基は幼少の頃、野中寺にて勉学に励んだとの説がある。 野中寺旧伽藍跡は、国の史跡に指定。 銅造弥勒菩薩半跏思惟像、木造地蔵菩薩立像は、国の重要文化財に指定。 江戸時代、律宗の勧学院として、和泉神鳳寺(大鳥大社境内にかつて存在した)、槇尾西明寺とともに律院三大僧坊として栄えた。 歌舞伎・浄瑠璃の演目「お染久松」の主人公、お染・久松が眠る。
別名、山田高塚古墳と呼ばれる。 500年代、推古天皇は、日本で初めてとなる女帝であると同時に、東アジアで初めてとなる女性君主として活躍した。 渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、2男5女を授かった。 甥には、聖徳太子がいた。 聖徳太子は、冠位十二階、十七条憲法を制定。 小野妹子を隋に派遣した。 没後、息子・竹田皇子が眠る植山古墳(奈良県橿原市五条野)に合葬された。 後年、当地に改葬、現在に至る。 古墳時代末期に築造された古墳は現在、宮内庁が管理する。
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河内長野市内各所の温泉の総称。 長野温泉の源泉は石川と天見川が合流する地点・行者岩付近。 明治時代、関西電力の前身にあたる千早電力の森久兵衛がこの川で遊ぶ子供達の安全を祈願して弁財天の祠を建立。 泉質は、含炭酸土塁食塩泉。 古くから高野山参詣道である高野街道の宿場町として栄えてきた。 温泉施設として極楽寺温泉が本格的に開業。 昭和時代、付近の温泉街を総称して、長野温泉と呼んだ。 長野新地とされていた地域で、噴出井戸と呼ばれる。 聖徳太子も病気平癒のため当地を訪れ、老翁の勧めで、霊水を飲み、病が治ったという説がある他、藤沢南岳や渡辺霞亭ら文人が訪れたという記録が残っている。
境内には、聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(聖徳太子御廟)。 叡福寺北古墳は、聖徳太子、母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が眠る。 太子の没後、伯母・推古天皇が土地、建物を寄進したのが叡福寺の始まり。 平安時代、嵯峨天皇、空海、親鸞、日蓮なども訪れた。 聖徳太子(本名は厩戸)は政治家として、推古天皇、蘇我馬子と共に活躍。 日本最古の仏教寺院・四天王寺を建立後、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)を創建。 これを七大寺と呼ぶ。 上之太子・叡福寺、中之太子・野中寺、下之太子・大聖勝軍寺は「河内三太子」。
聖徳太子ゆかりの地・太子町として知られ、奈良県・斑鳩との縁が深い。 山登りや散歩にお出かけする男の子「たいしくん」。 大阪府庁咲洲庁舎、大阪・御堂筋、玉造、東大阪市、熊本県のほか、太子町のイベントに登場!