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江田神社
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天安河原
宗像大社沖津宮遙拝所
宗像大社中津宮
宗像大社
沖ノ島
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天岩戸神社
天安河原
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白兎海岸
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美保神社
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皇大神宮 正宮(伊勢神宮 内宮)
伊勢神宮外宮(豊受大神宮)
佐那神社
春日大社
天太玉命神社
高千穂峰
国見ヶ丘展望台
高祖山
英彦山・望雲台登山口(高住神社参道)
神代聖蹟 瓊瓊杵尊駐蹕之地
荒立神社
阿射加神社(大阿坂)
阿射加神社(小阿坂)
都萬神社
無戸室
木花神社
石貫神社
大山祇塚
可愛山陵
可愛山陵(えのさんりょう)
女狭穂塚古墳
男狭穂塚古墳
枚聞神社
青島
潮嶽神社
鵜戸神宮
狭野神社
吾平山上陵
霧島神宮元宮
宮浦宮
立磐神社
妻垣神社
柁鼻神社
宇佐神宮
神武東征と一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)
岡田宮
神武天皇社
多家神社
高嶋神社
明石海峡
大阪天満宮 鳥居
〒579-8001 大阪府東大阪市善根寺町6丁目7−67
大阪湾
水門吹上神社(湊本ゑびす)
竃山神社
神武天皇上陸之聖跡碑 遺構
熊野本宮大社
那智の滝
熊野速玉大社
十津川村
谷瀬の吊り橋
八咫烏神社
八咫烏神社
宮滝遺跡
. 神武天皇東征 忍阪の大室(おさかのおおむろ)
橿原神宮
石上神宮
鹿児島神宮
神武天皇陵
綏靖天皇葛城高丘宮跡
綏靖天皇陵
石園座多久虫玉神社
安寧天皇陵
懿徳(いとく)天皇 大和の輕の境岡の宮伝承の地
懿徳天皇陵
大和の葛城の掖上の宮跡
孝昭天皇掖上博多山上陵
大和の葛城の室の秋津島の宮跡
孝安天皇 玉手丘上陵
孝霊天皇黒田廬戸宮跡碑
吉備津神社
吉備津彦神社
孝霊天皇 片丘馬坂陵
牟佐坐神社
孝元天皇陵
率川神社
開化天皇 春日川坂上陵
崇神天皇磯城瑞籬宮趾
祈祷殿 儀式殿 参集殿
崇神天皇陵
垂仁天皇纒向珠城宮跡
狭山池
垂仁天皇 菅原伏見東陵拝礼所
垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵
景行天皇纒向日代宮跡碑
浦賀水道
熊襲の穴
出雲大社
伊勢神宮
熱田神宮
焼津市
走水神社
足柄峠
酒折宮
香取神宮
鹿島神宮
息栖神社
筑波山神社
神坂峠 頂上
伊吹山
関ヶ原鍾乳洞
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杖衝坂
能褒野神社
能褒野神社
白鳥陵古墳(日本武尊白鳥陵)
景行天皇陵
高穴穂神社
成務天皇陵
忌宮神社
香椎宮
香椎宮
香椎宮
宮地嶽神社
小戸公園
鎮懐石八幡宮
宇美八幡宮
鎮懐石八幡宮
玉島神社
琵琶湖
気比神宮 大鳥居
史跡金ヶ崎城跡
仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)
五社神古墳(神功皇后陵 狭城盾列池上陵)
法輪寺(軽寺跡)
菟道稚郎皇子墓
応神陵古墳
仁徳天皇難波高津宮跡
茨田堤
広大寺池
依網池址
中之島公園
住吉大社
御津八幡宮
大住車塚古墳
倉橋
門僕神社
姫嶋神社
等乃伎神社
御井の清水
友ケ島水道
大仙(仁徳天皇陵)古墳
稚櫻神社
石上神宮
履中天皇陵
柴籬神社
反正天皇陵
明日香村
允恭天皇 恵我長野北稜拝礼所
軽皇子と妹の軽大郎女の墓と伝わっている
石上神宮
安康天皇菅原伏見西陵拝所
雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地
脇本遺跡(雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地)
春日神社
宮滝遺跡
葛城一言主神社
隼人塚古墳(雄略天皇陵陪塚い号)
河内大塚山古墳
御厨子神社
角刺神社
清寧天皇陵古墳
顕宗天皇近飛鳥八釣宮跡
雄略天皇 丹比高鷲原陵(島泉平塚古墳)
顯宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
姫丸稲荷大明神
仁賢天皇 埴生坂本陵
恵比寿神社・十二柱神社
武烈天皇陵
継体天皇磐余玉穂宮跡
国指定史跡 岩戸山古墳
継体天皇 三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)
金橋神社
安閑天皇古市高屋丘陵
於美阿志神社
宣化天皇陵
欽明天皇磯城島金刺宮跡
欽明天皇陵
大和戒重陣屋跡
敏達天皇 河内磯長中尾陵
石寸山口神社
用明天皇河内磯長陵
崇峻天皇倉梯柴垣宮伝承地
崇峻天皇陵(倉梯岡陵)
推古天皇豊浦宮跡
古宮遺跡(伝推古天皇小墾田宮跡)
三十八柱神社、小墾田宮跡としての有望地
推古天皇陵
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
兵庫古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記上の卷 一、イザナギの命とイザナミの命 天地のはじめ 島々の生成 古事記によると、 “イザナギの命・イザナミの命御二方に、「この漂つている國を整えてしつかりと作り固めよ」とて、りつぱな矛をお授けになつて仰せつけられました。それでこの御二方の神樣は天からの階段にお立ちになつて、その矛をさしおろして下の世界をかき𢌞され、海水を音を立ててかき𢌞して引きあげられた時に、矛の先から滴る海水が、積つて島となりました。これがオノゴロ島です。その島にお降りになつて、大きな柱を立て、大きな御殿をお建てになりました。” なお、オノゴロ島伝説がある場所は、この沼島を含めて三箇所あります。
上立神岩(かみたてがみいわ)
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱がこの上立神岩だといわれている。 この地にはかつてこの男性のシンボルの他に女性のシンボルもあったとの事。少なくとも縄文時代からこのシンボルが人々から崇められていた。その話が古事記の国産みの話の原点であると言われている。 残念ながら女性のシンボルは地震などの影響で崩れ跡形もない。
オノゴロ島伝説は淡路島に三箇所ある。 候補地1: 沼島 候補地2: おのころ島神社 候補地3: 絵島 ここは候補地1の沼島にあるおのころ神社
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オノゴロ島伝説は淡路島に三箇所ある。 候補地1: 沼島 候補地2: おのころ島神社 候補地3: 絵島 ここは候補地2のあるおのころ島神社
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オノゴロ島伝説は淡路島に三箇所ある。 候補地1: 沼島 候補地2: おのころ島神社 候補地3: 絵島 ここは候補地3の絵島
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古事記によると、 “かように言い終つて結婚をなさつて御子の淡路のホノサワケの島をお生みになりました。次に伊豫の二名の島(四國)をお生みになりました。(中略)次に隱岐の三子の島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。次に筑紫の島(九州)をお生みになりました。(以下省略)” 写真は、淡路のホノサワケの島です。鳴門海峡越しに撮った淡路島です。
古事記によると、 “次に伊豫の二名の島(四國)をお生みになりました。(以下省略)” 写真は、祖谷渓谷のかずら橋。ここまでのドライブが好きです。
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次に隱岐の三子の島をお生みなさいました。この島はまたの名をアメノオシコロワケといいます。 境港から隠岐西ノ島別府港へ向かうフェリーから撮影。
次に筑紫の島(九州)をお生みになりました。 関門海峡越しに北九州を眺めた写真。
次に壹岐の島をお生みになりました。この島はまたの名を天一つ柱といいます。 写真は、一支国(いきこく)遺跡にて。
次に對馬をお生みになりました。またの名をアメノサデヨリ姫といいます。
次に佐渡の島をお生みになりました。 写真は、フェリーからの眺め。
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次に大倭豐秋津島(本州)をお生みになりました。またの名をアマツミソラトヨアキツネワケといいます。この八つの島がまず生まれたので大八島國というのです。 写真は、朝霧高原からの眺め。
それからお還りになつた時に吉備の兒島をお生みになりました。またの名をタケヒガタワケといいます。 小豆島行きのフェリーが、ここ新岡山港フェリー乗り場から出ています。 対岸が吉備の兒島。かつては島でしたが今は埋め立てられ半島になっています。 小豆島の土庄港から新岡山港へのフェリーに乗りました。
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次に小豆島をお生みになりました。またの名をオホノデ姫といいます。 1969年の秋に小豆島へ渡ったことがあります。 半世紀ぶりに小豆島の土庄港から新岡山港へのフェリーに乗りました。
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次に大島をお生みになりました。またの名をオホタマルワケといいます。 写真は、遠崎港から周防大島と大島大橋を遠望しています。
次に女島をお生みになりました。またの名を天一つ根といいます。 写真は、島に向かうフェリーから眺めた姫島です。
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次にチカの島をお生みになりました。またの名をアメノオシヲといいます。 チカの島とは、平戸島、生月島そして五島列島を含めているとの話があります。 写真は、生月島がわから生月島大橋越しに平戸島を眺める。
次に兩兒の島をお生みになりました。またの名をアメフタヤといいます。 吉備の兒島からフタヤの島まで合わせて六島です。 写真は、兩兒の島(男女群島)写真は、by Google
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(うねおつたもとじんじゃ) 畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったのを、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われています。 “イザナギの命の仰せられるには、「わたしの最愛の妻を一人の子に代えたのは殘念だ」と仰せられて、イザナミの命の枕の方や足の方に這い臥してお泣きになつた時に、涙で出現した神は香具山の麓の小高い處の木の下においでになる泣澤女の神です”
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黄泉の國 古事記によると、 “このお隱れになつたイザナミの命は出雲の國と伯耆の國との境にある比婆の山にお葬り申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真にある揖夜神社の拝殿が、イザナミが葬られた比婆の山に向かって建てられています。
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黄泉津比良坂/伊賦夜坂 古事記によると、 “最後には女神イザナミの命が御自身で追つておいでになつたので、大きな巖石をその黄泉比良坂に塞いでその石を中に置いて兩方で對い合つて離別の言葉を交した時に、イザナミの命が仰せられるには、「あなたがこんなことをなされるなら、わたしはあなたの國の人間を一日に千人も殺してしまいます」といわれました。そこでイザナギの命は「あんたがそうなされるなら、わたしは一日に千五百も産屋を立てて見せる」と仰せられました。こういう次第で一日にかならず千人死に、一日にかならず千五百人生まれるのです。かくしてそのイザナミの命を黄泉津大神と申します。”
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身禊(みそぎ) 古事記によると、 “イザナギの命は黄泉の國からお還りになつて、「わたしは隨分厭な穢い國に行つたことだつた。わたしは禊をしようと思う」と仰せられて、筑紫の日向の橘の小門のアハギ原においでになつて禊をなさいました。” 伝説の地として「筑紫の日向の橘の小門のアハギ」 1つは、宮崎の大淀川です。 2つ目は、福岡の小門 宮崎市の「阿波岐原」町がその場所であると梅原猛が指摘している。日向で最も古い弥生時代初期の稲作が発見されている。まさにイザナギ(男)からアマテラス、スサノウとツキヨミが生まれたことは、縄文から弥生への時代、文化、イデオロギーの変化であったことを示している。
身禊候補地2:小戸神宮 福岡の小門=小戸
イザナギの命は身禊の後 古事記によると、 “このイザナギの命は、淡路の多賀の社にお鎭まりになつておいでになります。” とあります。その地に、今は伊奘諾神宮が祀られています。
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二、天照らす大神とスサノヲの命 誓約(うけい) 古事記によると、 “そこで天照らす大神は、「それならあなたの心の正しいことはどうしたらわかるでしよう」と仰せになつたので、スサノヲの命は、「誓約を立てて子を生みましよう」と申されました。よつて天のヤスの河を中に置いて誓約を立てる時に、”
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“ここに天照らす大神はスサノヲの命に仰せになつて、「この後から生まれた五人の男神はわたしの身につけた珠によつてあらわれた神ですから自然わたしの子です。先に生まれた三人の姫御子はあなたの身につけたものによつてあらわれたのですから、やはりあなたの子です」と仰せられました。その先にお生まれになつた神のうちタギリヒメの命は、九州の宗像の沖つ宮においでになります。次にイチキシマヒメの命は宗像の中つ宮においでになります。次にタギツヒメの命は宗像の邊つ宮においでになります。” タギリヒメの命を参拝するための大島にある沖津宮の遥拝所。ここから沖ノ島(沖津宮)を望み参拝するために建立されています。
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イチキシマヒメの命を祀る宗像大島にある宗像大社中津宮です。 この神社の入り口の向かって左には、七夕伝説発祥の地となっています。
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タギツヒメの命がおいでになる宗像の邊つ宮である宗像神社。
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沖ノ島の沖津宮には、タギリヒメの命を祀っています。
天の岩戸 古事記によると、 “天照らす大神が田を作つておられたその田の畔を(スサノヲの命が)毀したり溝を埋めたりし、また食事をなさる御殿に屎をし散らしました。” 写真は、天照らす大神の御殿があったとの伝説がある天岩戸神社東宮の裏からの眺めです。
古事記によると、 “(スサノヲの命)その機織場の屋根に穴をあけて斑駒の皮をむいて墮し入れたので、機織女が驚いて機織りに使う板で陰をついて死んでしまいました。そこで天照らす大神もこれを嫌つて、天の岩屋戸をあけて中にお隱れになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、天岩戸神社(西本宮)の拝殿です。西本宮の拝殿は、岩戸川を挟んで天岩戸に向かって建てられています。
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天安原(あまのやすかわら)天岩戸神社(西本宮) アマテラスが身を隠して世界が真っ暗闇になった時、八百万の神々が集まって相談したとされる安の河の河原です。
天香山 “アメノコヤネの命とフトダマの命とを呼んで天のカグ山の男鹿の肩骨をそつくり拔いて來て、天のカグ山のハハカの木を取つてその鹿の肩骨を燒いて占わしめました。次に天のカグ山の茂つた賢木を根掘ぎにこいで、上の枝に大きな勾玉の澤山の玉の緒を懸け” 抜粋: 古事記: 現代語譯 古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 写真は、藤原宮跡にある大官大寺から眺めた天香山。
三、スサノヲの命 八俣の大蛇 古事記によると、 “スサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥の河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸がその河から流れて來ました。それで河上に人が住んでいるとお思いになつて尋ねて上つておいでになりますと、(中略)かくしてスサノヲの命は、宮を造るべき處を出雲の國でお求めになりました。そうしてスガの處においでになつて仰せられるには、「わたしは此處に來て心もちが清々しい」と仰せになつて、其處に宮殿をお造りになりました。” トリカミは現在の八岐大蛇公園。 肥の河(ヒノカワ)は現在の斐伊川。 写真は、その住居跡との伝説がある須我神社。
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肥の河上、トリカミ “スサノヲの命は逐い拂われて出雲の國の肥の河上、トリカミという所にお下りになりました。この時に箸がその河から流れて來ました。”
天が淵 ヤマタノオロチが住んでいたと言われる場所。“コシの八俣の大蛇が毎年來て食べてしまいます。”
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四、大國主の命 兎と鰐 古事記によると、 “この大國主の命の兄弟は、澤山おいでになりました。しかし國は皆大國主の命にお讓り申しました。お讓り申し上げたわけは、その大勢の神が皆因幡のヤガミ姫と結婚しようという心があつて、一緒に因幡に行きました。時に大國主の命に袋を負わせ從者として連れて行きました。そしてケタの埼に行きました時に裸になつた兎が伏しておりました。” 抜粋:: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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赤貝姫と蛤貝姫 古事記によると、 “兎の言つた通り、ヤガミ姫は大勢の神に答えて「わたくしはあなたたちの言う事は聞きません。大國主の命と結婚しようと思います」と言いました。そこで大勢の神が怒つて、大國主の命を殺そうと相談して伯耆の國のテマの山本に行つて言いますには、「この山には赤い猪がいる。わたしたちが追い下すからお前が待ちうけて捕えろ。もしそうしないと、きつとお前を殺してしまう」と言つて、猪に似ている大きな石を火で燒いて轉がし落しました。そこで追い下して取ろうとする時に、その石に燒きつかれて死んでしまいました。” 抜粋:: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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根の堅州國(ねのかたすくに) 古事記によると、 “「お前がここにいるとしまいには大勢の神に殺されるだろう」と仰せられて、紀伊の國のオホヤ彦の神のもとに逃がしてやりました。そこで大勢の神が求めて追つて來て、矢をつがえて乞う時に、木の俣からぬけて逃げて行きました。 そこで母の神が「これは、スサノヲの命のおいでになる黄泉の國に行つたなら、きつとよい謀をして下さるでしよう」と仰せられました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “お妃のスセリ姫を背負つて、(中略)そこで黄泉比良坂まで追つておいでになつて、遠くに見て大國主の命を呼んで仰せになつたには、「そのお前の持つている大刀や弓矢を以つて、大勢の神をば坂の上に追い伏せ河の瀬に追い撥つて、自分で大國主の命となつてそのわたしの女のスセリ姫を正妻として、ウカの山の山本に大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住めよ、この奴め」と仰せられました。そこでその大刀弓を持つてかの大勢の神を追い撥う時に、坂の上毎に追い伏せ河の瀬毎に追い撥つて國を作り始めなさいました。” 抜粋:: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
須佐能が伝えた場所であるウカの山の山本(城名樋山城跡) そこに大磐石の上に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住んだとしている。
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木の俣の神を祀る御井神社 “ヤガミ姫は前の約束通りに婚姻なさいました。そのヤガミ姫を連れておいでになりましたけれども、お妃のスセリ姫を恐れて生んだ子を木の俣にさし挾んでお歸りになりました。ですからその子の名を木の俣の神と申します。またの名は御井の神とも申します。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 因幡のヤガミヒメがオオクニヌシに会うためにこの地に来た時に急に産気付きここで出産したとの事。その御子を木俣にかけてそのまま因幡に帰ってしまった。この神社にはこの子キマタノカミが産湯を使ったという3つの井戸がある。
系譜 古事記によると、 “この大國主の神が、宗像の沖つ宮においでになるタギリ姫の命と結婚して生んだ子はアヂスキタカヒコネの神、次に” 抜粋:: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
スクナビコナの神 古事記によると、 “大國主の命が出雲の御大の御埼においでになつた時に、波の上を蔓芋のさやを割つて船にして蛾の皮をそつくり剥いで著物にして寄つて來る神樣があります。” 抜粋::古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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御諸(みもろ)山の神 大和の三輪山にある大神神社(おおみわじんじゃ)の鎭坐の縁起をここで語っています。 古事記によると、 “そこで大國主の命が心憂く思つて仰せられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの國を作り得ましよう。どの神樣と一緒にわたしはこの國を作りましようか」と仰せられました。この時に海上を照らして寄つて來る神樣があります。その神の仰せられることには、「わたしに對してよくお祭をしたら、わたしが一緒になつて國を作りましよう。(中略)これは御諸の山においでになる神樣です。” 抜粋:古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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五、天照らす大神と大國主の命 天若日子 古事記によると、 “天照らす大神のお言葉で、「葦原の水穗の國は我が御子のマサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命(大國主の命)のお治め遊ばすべき國である」と仰せられて、天からお降しになりました。(中略)ここにアヂシキタカヒコネの神が非常に怒つて言われるには、「わたしは(天若日子の)親友だから弔問に來たのだ。何だつてわたしを穢い死人(天若日子)に比べるのか」と言つて、お佩きになつている長い劒を拔いてその葬式の家を切り伏せ、足で蹴飛ばしてしまいました。それは美濃の國のアヰミ河の河上の喪山という山になりました。”
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國讓り 古事記によると、 “「謹しんでお仕え申しましよう。しかしわたくしの子のタケミカヅチの神を遣しましよう」と申して奉りました。そこでアメノトリフネの神をタケミカヅチの神に副えて遣されました。 そこでこのお二方の神が出雲の國のイザサの小濱に降りついて、長い劒を拔いて波の上に逆樣に刺し立てて、その劒のきつさきに安座をかいて大國主の命にお尋ねになるには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 稲佐の浜で、オオクニヌシノミコトがタケミカヅチノカミと国譲りを交渉した、として描かれている。
古事記によると、 “タケミナカタの神の手を取ろうと言つてこれを取ると、若いアシを掴むように掴みひしいで、投げうたれたので逃げて行きました。それを追つて信濃の國の諏訪の湖に追い攻めて、殺そうとなさつた時に、タケミナカタの神の申されますには、「恐れ多いことです。わたくしをお殺しなさいますな。この地以外には他の土地には參りますまい。またわたくしの父大國主の命の言葉に背きますまい。この葦原の中心の國は天の神の御子の仰せにまかせて獻上致しましよう」と申しました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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古事記によると、 “「わたくしの子ども二人の申した通りにわたくしも違いません。この葦原の中心の國は仰せの通り獻上致しましよう。ただわたくしの住所を天の御子の帝位にお登りになる壯大な御殿の通りに、大磐石に柱を太く立て大空に棟木を高くあげてお作り下さるならば、わたくしは所々の隅に隱れておりましよう。またわたくしの子どもの多くの神はコトシロヌシの神を導きとしてお仕え申しましたなら、背く神はございますまい」と、かように申して出雲の國のタギシの小濱にりつぱな宮殿を造つて、” 明治になり杵築大社(きづきたいしゃ)から出雲大社に名前が替えられている。
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コトシロヌシの神は、美保神社に祀られている。古事記によると、“(オオクニヌシ)わたくしは何とも申しません。わたくしの子のコトシロヌシの神が御返事申し上ぐべきですが、鳥や魚の獵をしにミホの埼に行つておつてまだ還つて參りません」と申しました。依つてアメノトリフネの神を遣してコトシロヌシの神を呼んで來てお尋ねになつた時に、その父の神樣に「この國は謹しんで天の神の御子に獻上なさいませ」と言つて、その船を踏み傾けて、逆樣に手をうつて青々とした神籬を作り成してその中に隱れてお鎭まりになりました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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タケミカヅチの命は鹿島神宮に祀られている。 写真は、鹿島神宮。 大化改新の中心人物である中臣鎌足(藤原鎌足)の出生地としての言い伝えがある鎌足神社が、鹿島神宮の近くにある。 藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社は、ここ鹿島神宮を勧請したものであり、現在の奈良公園の鹿は、ここの鹿を1年かけて移動している。
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六、ニニギの命 天降 古事記によると、 “天照らす大神をお迎えした大きな勾玉、鏡また草薙の劒、及びオモヒガネの神・タヂカラヲの神・アメノイハトワケの神をお副えになつて仰せになるには、「この鏡こそはもつぱらわたしの魂として、わたしの前を祭るようにお祭り申し上げよ。次にオモヒガネの神はわたしの御子の治められる種々のことを取り扱つてお仕え申せ」と仰せられました。この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “なお伊勢神宮の外宮にはトヨウケの神を祭つてあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “タヂカラヲの神はサナの地においでになります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、タヂカラヲの神はサナの地に鎮座したとの伝説がある佐那神社。
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“アメノコヤネの命・フトダマの命・アメノウズメの命・イシコリドメの命・タマノオヤの命、合わせて五部族の神を副えて天から降らせ申しました。(中略)アメノコヤネの命は中臣の連等の祖先、フトダマの命は忌部の首等の祖先” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 アメノコヤネの命は中臣の連(藤原氏)の祖先春日大明神として春日神社に祀られている。
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フトダマの命は忌部の首等の祖先は、天太玉命神社に祀られている。
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猿女の君 古事記によると、 “そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになつて、遂に筑紫の東方なる高千穗の尊い峰にお降り申さしめました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 4箇所に天孫降臨伝説があります。 伝説その1:高千穂峰 (鹿児島) 伝説その2:高千穂峡 (宮崎) 伝説その3:高祖山(福岡) 伝説その4:英彦山(福岡) 写真は、伝説その1:高千穂峰 (鹿児島)高千穂峰の頂上にある逆鉾です。
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猿女の君 古事記によると、 “そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになつて、遂に筑紫の東方なる高千穗の尊い峰にお降り申さしめました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 4箇所に天孫降臨伝説があります。 伝説その1:高千穂峰 (鹿児島) 伝説その2:高千穂峡 (宮崎) 伝説その3:高祖山(福岡) 伝説その4:英彦山(福岡) 写真は、伝説その2:高千穂峡にある国見ヶ丘
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猿女の君 古事記によると、 “そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになつて、遂に筑紫の東方なる高千穗の尊い峰にお降り申さしめました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 4箇所に天孫降臨伝説があります。 伝説その1:高千穂峰 (鹿児島) 伝説その2:高千穂峡 (宮崎) 伝説その3:高祖山(福岡) 伝説その4:英彦山(福岡) 写真は、伝説その3:高祖山(福岡)
猿女の君 古事記によると、 “そこでアマツヒコホノニニギの命に仰せになつて、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて勢いよく道を押し分け、天からの階段によつて、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになつて、遂に筑紫の東方なる高千穗の尊い峰にお降り申さしめました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 4箇所に天孫降臨伝説があります。 伝説その1:高千穂峰 (鹿児島) 伝説その2:高千穂峡 (宮崎) 伝説その3:高祖山(福岡) 伝説その4:英彦山(福岡) 写真は、伝説その4:英彦山(福岡)
“(ニニギの命が)ここに仰せになるには「この處は海外に向つて、カササの御埼に行き通つて、朝日の照り輝く國、夕日の輝く國である。此處こそはたいへん吉い處である」と仰せられて、地の下の石根に宮柱を壯大に立て、天上に千木を高く上げて宮殿を御造營遊ばされました。” そして、そのカササの御崎で“ヒコホノニニギの命は、美しい孃子にお遇いになつて、「どなたの女子ですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女の木の花の咲くや姫です」と申しました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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“ここにアメノウズメの命に仰せられるには、「この御前に立つてお仕え申し上げたサルタ彦の大神を、顯し申し上げたあなたがお送り申せ。またその神のお名前はあなたが受けてお仕え申せ」と仰せられました。この故に猿女の君等はそのサルタ彦の男神の名を繼いで女を猿女の君というのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、アメノウズメの命とサルタ彦とが結婚しお住まいになったと言われる場所に建つ荒立宮。
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古事記によると、 “そのサルタ彦の神はアザカにおいでになつた時に、漁をしてヒラブ貝に手を咋い合わされて海水に溺れました。その海底に沈んでおられる時の名を底につく御魂と申し、海水につぶつ” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 サルタ彦の神が、海水で溺れて死んだ場所であるアザカが、伊勢の近くの阿坂であるという話があります。今は、内陸ですが、古代において伊勢神宮あたりも含めて河岸段丘の上に築かれているように当時は、阿坂あたりは海であったようです。 写真は、サルタ彦を祀る阿射加神社(大阿坂)。
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サルタ彦を祀る阿射加神社(小阿坂)。
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木の花の咲くや姫 古事記によると、 “そして、そのカササの御崎で“ヒコホノニニギの命は、美しい孃子にお遇いになつて、「どなたの女子ですか」とお尋ねになりました。そこで「わたくしはオホヤマツミの神の女の木の花の咲くや姫です」と申しました。(中略)木の花の咲くや姫が參り出て申すには、「わたくしは姙娠しまして、今子を産む時になりました。これは天の神の御子ですから、勝手にお生み申し上ぐべきではございません。” 写真は、ニニギの命の妻となったコノハナサクヤヒメを主神として祀っている日向國二之宮 都萬(つま)神社 土着の王であるオオヤマツミの娘であるコノハナサクヤヒメの宮跡に建てられた神社。
木の花の咲くや姫(木花佐久夜毘売)が、お腹の子がニニギノミコト(瓊瓊杵命)の子であることを示すために火の中で3皇子(ホデリノミコト(後の海幸彦)、ホスセリノミコト、そしてホオリノミコト(後の山幸彦))を出産した「無戸室(うつむろ)の跡」の伝説がある宮崎県西都市と木花神社にある。 写真は、宮崎県西都市にある無戸室
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木の花の咲くや姫(木花佐久夜毘売)が、お腹の子がニニギノミコト(瓊瓊杵命)の子であることを示すために火の中で3皇子(ホデリノミコト(後の海幸彦)、ホスセリノミコト、そしてホオリノミコト(後の山幸彦))を出産した「無戸室(うつむろ)の跡」の伝説がある宮崎県西都市と木花神社(宮崎市熊野)にある。 写真は、木花神社にある無戸室。
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土着の王でありコノハナサクヤヒメの父であるオオヤマツミを祀る石貫神社
土着の王でありコノハナサクヤヒメの父であるオオヤマツミの墓
ニニギの命のお墓がどちらにあるかの記載は古事記にはない。なお、宮内庁が管理している可愛山陵は2つある。ここともう一つは、宮崎県延岡市北川町長井俵野 可愛山陵(えのさんりょう)。また、宮崎県西都市にある男狭穂塚古墳がニニギの命の墓とも言われている。 写真は鹿児島県薩摩川内市宮内町 可愛山陵
ニニギの命のお墓がどちらにあるかの記載は古事記にはない。なお、宮内庁が管理している可愛山陵は2つある。この地ともう一つは、鹿児島県薩摩川内市宮内町。また、宮崎県西都市にある男狭穂塚古墳がニニギの命の墓とも言われている。 写真は宮崎県延岡市北川町長井俵野 可愛山陵(えのさんりょう)
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ニニギの命の妻であるコノハナサクヤヒメの墓との伝承のある女狭穂塚古墳.
ニニギの命のお墓がどちらにあるかの記載は古事記にはない。宮崎県西都市にある男狭穂塚古墳がニニギの命の墓とも言われている。
七、ヒコホホデミの命 海幸と山幸 古事記によると、 “そこでシホツチの神が「わたくしが今あなたのために謀を𢌞らしましよう」と言つて、隙間の無い籠の小船を造つて、その船にお乘せ申し上げて教えて言うには、「わたしがその船を押し流しますから、すこしいらつしやい。道がありますから、その道の通りにおいでになると、魚の鱗のように造つてある宮があります。それが海神の宮です。その御門の處においでになると、傍の井の上にりつぱな桂の木がありましよう。その木の上においでになると、海神の女が見て何とか致しましよう」と、お教え申し上げました。” ヒコホホデミの命が訪れた海の神の宮があった枚聞(ひらきき)神社
古事記によると、 “「これは貴い御子(ホヲリの命)と言つて、内にお連れ申し上げて、海驢の皮八枚を敷き、その上に絹の敷物を八枚敷いて、御案内申し上げ、澤山の獻上物を具えて御馳走して、やがてその女トヨタマ姫を差し上げました。そこで三年になるまで、その國に留まりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ホヲリの命(山幸彦)が海神宮(わたつみのみや)から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだ、との伝説がある青島神社。
“かくして悉く海神の教えた通りにして(ヒコホホデミの命は、ホデリの命に)鉤を返されました。そこでこれよりいよいよ(ホデリの命は)貧しくなつて更に荒い心を起して攻めて來ます。攻めようとする時は潮の盈ちる珠を出して溺らせ、あやまつてくる時は潮の乾る珠を出して救い、苦しめました時に、おじぎをして言うには、「わたくし(ホリデの命)は今から後、あなた樣(ヒコホホデミの命)の晝夜の護衞兵となつてお仕え申し上げましよう」と申しました。そこで今に至るまで隼人はその溺れた時のしわざを演じてお仕え申し上げるのです。” 弟である山幸彦に負けこの地に追いやられたと伝えられている。海幸彦を祀る潮獄神社。
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トヨタマ姫 古事記によると、 “そこでその海邊の波際に鵜の羽を屋根にして産室を造りましたが、その産室がまだ葺き終らないのに、御子が生まれそうになりましたから、産室におはいりになりました。その時夫の君に申されて言うには「すべて他國の者は子を産む時になれば、その本國の形になつて産むのです。それでわたくしももとの身になつて産もうと思いますが、わたくしを御覽遊ばしますな」と申されました。ところがその言葉を不思議に思われて、、、” 写真は、トヨタマビメが山幸彦の御子であるウガヤフキアエズ(神武天皇の父)を産むための産屋が建てられた場所とされている鵜戸神宮。 (2015年11月)
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カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)を祀る狭野神社
アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命(神武天皇の父)のお墓について古事記は記載していません。なお、宮内庁は吾平山上陵(あいらさんりょう)をアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命のお墓として管理している。 写真はアマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命(神武天皇の父)の墓
古事記中の卷 一、神武天皇 東征 古事記によると、 “カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 1. 筑後の高千穂の宮 筑後の高千穂の宮跡には、現在鳥居が建っている。 霧島神宮は当初高千穂峰と御鉢の間にあったが約1400年前の噴火で焼失している。
2. 日向の国 梅原猛は、ここ宮浦宮が神武天皇東征の前に宮として過ごした場所だとしている。神武東征は、この前に広がる海から出発したとしている。 “日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は鹿児島県国分市福山町にある宮浦宮。
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2. 日向の国 現在、美々津港には立盤神社(たていわ神社)がある。 古事記には、美々津の固有名詞はありませんが、ここ美々津港(写真)から出帆したの話もある。しかし、神武天皇の過ごした場所などから考えると遠すぎる。神武天皇の最初のお妃の実家があるハヤトの地からハヤトの人々の協力を得て東征に向けて出発した、と考える方が筋が通っていると考えられる。霧島山の噴火か何かが東征への切っ掛けを作ったのかもしれない、と想像するのもまた面白い。立盤神社は東征の途中にお立ち寄りになった宮趾と考えた方が妥当のようだ。 古事記によると、 “日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。”
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3. 豐後のウサ(宇沙)の足一つ騰りの宮(あしひとつあがりのみや) 現在、三箇所の候補地があります。 写真は、候補地の1つである妻垣神社前に立つ案内板です。 古事記によると、 “日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰りの宮を作つて、御馳走を致しました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
柁鼻(かじばな)神社 当時、港があった場所には、柁鼻神社が祀られています。 カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)と兄君のイツセの命等は、ウサツ彦・ウサツ姫が作った足一つ騰りの宮へ、この地で下船してから向かったとの話が伝わっています。 孝謙天皇の命により宇佐八幡のご神託を受けるために来られた際に、やはりここに舟を繋いだようです。その際に使われた石が、「舟繋ぎ石」として、本神社に祀られているとのこと。
足一つ騰りの宮 伝説の地候補2:宇佐神宮の神宮内
足一つ騰りの宮 伝説の地候補3: 和尚山(かしょうざん)の麓 足一つ騰りの宮の碑がありました。
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4. 筑前の岡田の宮 現在、二箇所の候補地があります。 カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)と兄君が、途中1年ほど過ごした岡田の宮。 古事記によると、 “其處(ウサ)からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後の高島の宮に八年おいでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、候補地の1つである岡田神社。北九州市黒崎駅の南側にある岡の上。
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岡田の宮候補地その2神武天皇社 残念なことに、本来は、この地の隣にある航空自衛隊芦屋基地内にあり、基地の整理とともにここに移された様です。
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5. 安藝のタケリ(多紀理)の宮 現在、多家神社があります。 東征の途中7年ほど過ごした安藝のタケリの宮。 古事記によると、 “また其處(岡田の宮)からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後の高島の宮に八年おいでになりました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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6. 備後の高島の宮 現在、私有地となっている高島に高嶋神社があります。 東征の途中8年ほど過ごした備後の高島の宮。 写真は、小豆島土庄港から新岡山港へのフェリーから眺めたものです。 古事記によると、 “またその國(安藝のタケリ(多紀理)の宮)からお遷りになつて、備後の高島の宮に八年おいでになりました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
7. 速吸(はやすい)の門 現在の明石海峡。 北九州の新門司港から泉大津港への途中、何度か明石海峡をフェリーで潜りましたが、この時ほど美しく旭に輝いた明石海峡はありませんでした。 古事記によると、 “その國から上つておいでになる時に、龜の甲に乘つて釣をしながら勢いよく身體を振つて來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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8. 難波の湾 現在、大阪天満宮があります。 古事記によると、 “その國から上つておいでになる時に、難波(浪速)の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大阪天満宮にある記念碑。
9. 河内の白肩の津 現在、春日神社があります。 東征で、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦の軍と戦ったと言われている白肩の津。 古事記によると、 “難波の灣を經て河内の白肩の津に船をお泊めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下の蓼津と言つております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネの矢の傷をお負いになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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10. チヌ(血沼)海 血沼あるいは茅渟と書き、現在の泉佐野市あたりです。 古事記によると、 “そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から𢌞つて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から𢌞つておいでになる時に、和泉の國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
11. ヲの水門 現在、水門吹上神社があります。 古事記によると、 “其處から𢌞つておいでになつて、紀伊の國のヲの水門においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの(男之)水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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12. 竈山(かま山) 現在、竈山神社が建ち、カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)の兄君であるイツセの命を祀っています。 古事記によると、 “其處から𢌞つておいでになつて、紀伊の國のヲの水門においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの(男之)水門と言います。御陵は紀伊の國の竈山にあります” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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13. 熊野村 古事記には、熊野とだけあり、どの辺に上陸したかは明記されていません。 古事記によると、 “カムヤマトイハレ彦の命は、その土地から𢌞つておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
14. 熊野村から吉野川下流(五條市)へ 熊野村から吉野河の下流に到るまで古事記はどのような道を辿ったかは全く触れていません。 しかし、当時は、険しい道を川ぞいに吉野の下流、つまり五條市まで川舟を利用しながら歩いたと想定してドライブを楽しみました。 つまり、勝浦港->那智に立ち寄り、その後、新宮川へ出て川を上り、現在の熊野速玉大社を経て、今ある熊野本宮大社を抜け、現在の十津川村を通り険しいを川伝いに登ったと想像しています。 川に沿って険しいを山々を抜けて、現在の谷瀬の吊り橋あたりを小舟で下っていった。そして、吉野川の下流である現在の五條市に着く。
那智の滝
熊野速玉大社
十津川村 後の明治維新まで十津川村の人々が御所をお守り続けた理由が、この行軍から始まっていると想像するのもまた面白い。
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谷瀬の吊り橋
15. 宇陀へ 五條市から、現在の伊勢街道を抜けて宇陀へ。ここで大和を支配するまでの戦いが繰り広がれます。八咫烏神社や血原、そして伊那佐山があります。 古事記から熊野から宇陀までの道順を古事記から推定すると、 吉野川の下流 = 五條市 阿陀 = 五條市 吉野の國栖 = 吉野市、宮滝遺跡 ウダ = 宇陀市 古事記によると、 “天の神の御子よ、ーーーその八咫烏が導きするでしようからーーー吉野河の下流(五條市)に到りーーー阿陀(五條市)の鵜飼の祖先ーーー吉野の國栖(吉野市、宮滝遺跡)ーーーそれから山坂を蹈み穿つて越えてウダ(宇陀)にーーー宇陀のウガチと言いますーーー
宇陀の八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)からの眺め。 カムヤマトイハレ彦の命一行が、熊野から山坂を蹈み穿つて越えてウダに到達した風景を思わせる眺めです。八咫烏神社の東に伸びる参道を見下ろした写真です。 また、カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)が、宇陀での戦いで詠んだ歌にある伊那佐山に向かって山道が伸びている。この山に盾を並べて射る、と歌っていると、古事記にあります。 古事記によると、 “それから山坂を蹈み穿つて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀のウガチと言います。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
15. 宇陀へ 古事記から熊野から宇陀までの道順を古事記から推定した経路で、 吉野の國栖 = 吉野市の宮滝遺跡で神武天皇が仮宮を建てた、との話があります。
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16. 忍坂の大室(おさかのおおむろ) カムヤマトイハレ彦の命が、宇陀で勝利を得た後、忍坂の大室へ移動し、そこに住む穴居に住む80人の武士を騙し討ちしています。 古事記抜粋によると、 “次に、忍坂の大室においでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張つております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。” その後、ナガスネ彦を殺害することにより大和を手中に治めた、との事。
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17. 橿原宮 古事記によると、“畝傍の橿原の宮において天下をお治めになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 現在、橿原神宮があります。
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18. フツノミタマ(布都御魂)を奉納した石上神宮 熊野山中で危機に陥った時、カムヤマトイハレ彦の命へ持参された剣がフツノミタマ。それが石上神宮に奉納されている。 古事記抜粋: “タカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤めになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、・・・省略・・・この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」”
神の御子 古事記によると、 “(神武天皇が)はじめ日向の國においでになつた時に、阿多の小椅の君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました” 神武天皇の最初の妃がアタのアヒラ姫である。アタとは阿多(吾田)であり、ハヤトの地になる。このハヤトの地は狭野に住む神武天皇にとって重要な位置付けであったと考えられる、と梅原猛と述べている。つまり、神武天皇東征にハヤトの人々がおおいに関わっているとしている。 そのアタのハヤトの地に神武天皇がヒコホホデミの命を祀るために建てたとの伝承が鹿児島神宮にある。
タギシミミの命の變 古事記によると、 “カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあります。”
二、綏靖(すいせい)天皇以後八代 綏靖天皇 “カムヌナカハミミの命(綏靖天皇)、大和の國の葛城の高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。”
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“綏靖天皇陵は御年四十五歳、御陵は衝田の岡にあります。”
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安寧(あんねい)天皇 “シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽の浮穴の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の片鹽の浮穴の宮跡にある石園座多久虫玉神社
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“安寧(あんねい)天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。”
懿徳(いとく)天皇 “オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕の境岡の宮においでになつて天下をお治めなさいました。”
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“懿徳(いとく)天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。”
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孝昭(こうしょう)天皇 “ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の葛城の掖上の宮跡にある奈良県立 御所実業高等学校
“孝昭(こうしょう)天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多山の上にあります。”
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孝安(こうあん)天皇 “オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 室八幡神社内に大和の葛城の室の秋津島の宮跡がある。
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孝安天皇陵
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孝靈(こうれい)天皇 “オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸の宮においでになつて天下をお治めなさいました。”
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古事記によると、 “オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨の氷の河の埼に忌瓮(いわいべ)を据えて神を祭り、播磨からはいつて吉備の國を平定されました。”
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吉備津彦神社
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“孝靈(こうれい)天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂の上にあります。”
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孝元(こうげん)天皇 “オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、輕の堺原の宮跡にある牟佐坐神社
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“孝元(こうげん)天皇は御年五十七歳、御陵は劒の池の中の岡の上にあります。”
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開化天皇 “ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の春日のイザ河の宮跡にある率川神社(いさがわ神社)。
“この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。”
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三、崇神(すじん)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の師木の水垣の宮跡です。今は、志貴御縣坐神社があります 。
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美和の大物主 古事記によると、 “(崇神天皇が)「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。” 古事記に、その3つの輪由来が書かれています。 “「お前は自然に姙娠した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然に姙みました」と言いました。(省略)朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。(省略)三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。”
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將軍の派遣 “崇神(すじん)天皇は御年百六十八歳、戊寅の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾の岡の上にあります。”
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四、垂仁(すいにん)天皇 后妃と皇子女 “イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木の玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました”
“(垂仁天皇の子)イニシキノイリ彦の命は、血沼の池・狹山の池を作り、また日下の高津の池をお作りになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大阪府狭山池
“垂仁(すいにん)天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります”
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“その皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました。”
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五、景行(けいこう)天皇・成務天皇 景行天皇の后妃と皇子女 “オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向の日代の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)に建つ碑。
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“(景行天皇の息子)オシクロのオト彦の王で、(中略)、また東國の安房の水門をお定めになり、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、東國の安房の水門である三浦半島と房総半島の間、浦賀水道を鋸山山頂から撮りました。 つまり、この頃東京湾の外側が勢力範囲に入ったということです。
(景行天皇の息子)ヤマトタケルの命の西征 古事記によると、 “そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。(中略)そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室を作つて居ました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 この辺の人々は大和に征服されるまでは熊襲と呼ばれていたが征服さえれた後、ハヤトと呼ばれるようになった。現在、熊襲穴として保存されている。
イヅモタケル 古事記によると、 “そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 出雲の國のどこであるかは何も語っていません。写真は、出雲大社です。
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ヤマトタケルの命の東征 古事記によると、 “(景行天皇がヤマトタケルの命に)「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命が東征にあたり参拝した伊勢神宮。
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命)かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命の草薙の剣を祀る熱田神宮。
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古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐つて言いますには、(中略)そこでまず御刀をもつて草を苅り撥い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といつております。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、日本平から駿河湾、三保の松原、富士山を眺めた景色です。
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からおいでになつて、走水の海をお渡りになつた時にその渡の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、(ヤマトタケルの命が)走水の海をお渡り房総半島に船で渡った場所に建つ走水神社 。
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古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)足柄の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、かつての旧東海道に使われていた足柄街道にある足柄峠
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古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、酒折の宮に起源をもつとされる神社
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常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、香取神宮。 鹿島神宮と香取神宮は、大和朝廷が蝦夷へ向かうための補給地として使われていた、との話があります。その為に武の神として祀られていました。
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常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、鹿島神宮。 大化改新の中心人物である中臣鎌足(藤原鎌足)の出生地としての言い伝えがある鎌足神社が、鹿島神宮の近くにあります。 藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社は、ここ鹿島神宮を勧請したものであり、現在の奈良公園の鹿は、ここの鹿を1年かけて移動させたものとの話が伝わっています。
常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、息栖神社(いきす)。 神々の時代、息栖神社(いきす)の現在の位置は海中になってしまいます。今の場所は、何らかの理由で移設された、と言われているようです。 息栖神社が、古代地図にある小さな島にあったと思うのもまた面白い。
常陸の筑波には、現在、筑波山神社があります。
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、伊吹山。
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古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)かくて還つておいでになつて、玉倉部の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からお立ちになつて當藝の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝(たぎ)といいます。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 當藝(たぎ)は、岐阜県養老郡のあたりと言われている。 私は、養老サービスエリアに寄ることがあります。昼による頃があるので、何度か味噌カツ定食をいただくことがあります。
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、杖衝坂に建つ碑
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古事記によると、 “其處からおいでになつて、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりました、(中略)と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、能煩野神社
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ヤマトタケルの命のお墓 “三重の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになつて、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、 大和は國の中の國だ。 重なり合つている青い垣、 山に圍まれている大和は美しいなあ。 (中略) と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。” “ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い𢌞つてお泣きになつてお歌いになりました。”
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古事記によると “しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、 (中略) そこでその國から飛び翔つておいでになつて、河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、白鳥の陵。
“オホタラシ彦の天皇(景行天皇)の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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成務(せいむ)天皇 “ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、近江の國の志賀の高穴穗の宮跡にある碑。
“成務(せいむ)天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀の多他那美にあります。”
六、仲哀(ちゅうあい)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門の豐浦の宮また筑紫の香椎の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 長府観光Webにようると、”西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在したと書かれています。 写真は、仲哀天皇の穴門の豐浦の宮跡には忌宮神社(いみのみやじんじゃ)が祀られています。
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タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)が天下を治めた筑紫の香椎の宮は、現在ある香椎宮から北東に200メートルほどの高台にある。 写真は、その記念碑。
神功(じんぐう)皇后 “皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、(中略) 神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子(應神天皇)の治むべき國である」とお教えになりました。” 写真は、亡くなった第14代仲哀天皇(ちゅうあい)が九州遠征時に急死した際、神功皇后(じんぐうこうごう)が仲哀天皇のご遺体を仮埋葬した塚「御殯斂地(ごひんれんち)」。現在この地は宮内庁の管轄となっています。
タケシウチの宿禰が祭の庭にいて神の仰せを伺い、皇后に神懸りして神樣がお教えなさいました場所との言い伝えがある筑紫の香椎の宮の地。
古事記によると、 “今まことにあの國を求めようと思われるなら、天地の神たち、また山の神、海河の神たちに悉く幣帛を奉り、わたしの御魂を御船の上にお祭り申し上げ、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、仲哀天皇の妻であるオキナガタラシ姫の命(神功皇后)が三韓征伐に向けて滞在し開運を祈願したとの言い伝えがある宮地嶽神社の山。 残念な事に高木に遮られて玄界灘が観えませんでした。
古事記によると、 “そこで悉く神の教えた通りにして軍隊を整え、多くの船を竝べて海をお渡りになりました時に、海中の魚どもは大小となくすべて出て、御船を背負つて渡りました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 オキナガタラシ姫の命(神功皇后)が三韓征伐に向けて出港し凱旋したとの伝説がある港として、 2つの場所が伝説の地として伝わっています。 伝説その1: 小戸公園に面した海 伝説その2: 鎮懐石八幡宮(ちんかいせき八幡宮)に面した海 写真は、小戸公園に面した海です。
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伝説その2: 鎮懐石八幡宮(ちんかいせき八幡宮)に面した海
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鎭懷石と釣魚 古事記によると、 “そこでお腹をお鎭めなされるために石をお取りになつて裳の腰におつけになり、筑紫の國にお渡りになつてからその御子はお生まれになりました。そこでその御子をお生み遊ばされました處をウミと名づけました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、応神天皇がお生まれになった場所であるウミに建っているとの伝説がある宇美八幡宮。
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古事記によると、 “また(神功皇后が)その裳につけておいでになつた石は筑紫の國のイトの村にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、筑紫の國のイトの村にあり、オキナガタラシ姫の命(神功皇后)が出産を鎮めるために用いた鎮懐石(ちんかいせき)が奉祀されているとの伝説がある鎮懐石八幡宮。
古事記によると、 “また筑紫の松浦縣の玉島の里においでになつて、その河の邊で食物をおあがりになつた時に、四月の上旬の頃でしたから、その河中の磯においでになり、裳の絲を拔き取つて飯粒を餌にしてその河のアユをお釣りになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、松浦縣の玉島の里との伝説がある玉島神社が河に面して建っています。
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カゴサカの王とオシクマの王 古事記によると、 “(オシクマの王は)かくて逢坂に逃げ退いて、向かい立つてまた戰いましたが、遂に追い迫り敗つて近江のササナミに出て悉くその軍を斬りました。そこでそのオシクマの王がイサヒの宿禰と共に追い迫められて、湖上に浮んで歌いました歌、(略)と歌つて海にはいつて死にました。 ” 逢坂は、滋賀県大津市の逢坂。オシクマの王が山城(京都府)で神功皇后の兵に負けたと、後の東海道沿いに東に逃げ、ここ逢坂に退き戦ったようです。その逢坂から近江のササナミ(楽浪)に出て琵琶湖に身を投げています。 写真は、その近江のササナミ(楽浪)と琵琶湖。
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氣比の大神 古事記によると、 “かくてタケシウチの宿禰がその太子(後の応神天皇)をおつれ申し上げて禊をしようとして近江また若狹の國を經た時に、越前の敦賀に假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、イザサワケの大神である比大神/気比神を祀る氣比神宮。
古事記によると、 “それでこの神の御名を稱えて御食つ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦と言いましたが、今では敦賀と言います。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、金ヶ崎城跡から眺める敦賀湾。
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古事記によると、 “タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)の御年は五十二歳、壬戌の年の六月十一日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長江にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、仲哀天皇綾。
古事記によると、 “皇后樣は御年百歳でお隱れになりました。狹城の楯列の御陵にお葬り申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、神功皇后綾。
七、應神天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “ホムダワケの命(應神天皇)、大和の輕島の明の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の輕島の明の宮跡との伝説がある春日神社境内にある石碑 このあたりは飛鳥~白鳳時代の軽寺跡とされてるそうです。 http://ryobo.fromnara.com/palace/p015-2.html
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古事記によると、 “かくてオホサザキの命とウヂ(宇治)の若郎子とお二方、おのおの天下をお讓りになる時に(中略)“しかるにウヂの若郎子は早くお隱れになりましたから、オホサザキの命が天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ウヂ(宇治)の若郎子の御墓。(莵道稚郎皇子御墓)。
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系譜 古事記によると、 “ホムダの天皇(応神天皇)は御年百三十歳、甲午の九月九日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の裳伏の岡にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、応神天皇陵。
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古事記下の巻 一、仁徳天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホサザキの命(仁徳天皇)、難波の高津の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 難波の高津の宮の所在地には幾つか説があります。 写真は、その内の1つで大阪城の南側にある難波宮大極殿跡
聖の御世 古事記によると、 “この御世に大陸から來た秦人を使つて、茨田の堤(うまらだ)、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅の江を掘り、墨江の舟つきをお定めになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、淀川沿いに築かせたとされる茨田(うまらだ)の堤。 堤根神社(つつみねじんじゃ)が、茨田堤の鎮守として創建された、と言われている。 下記写真は、その堤根神社の裏にある茨田の堤。
丸邇(わに)の池 丸邇(わに)の池は、その後消えてしまい、後に聖徳太子が関わった事業として今の広大寺池が構築されたようです。 帯解駅の西にあります。
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依網(よさみ)の池跡には依網公園があります。
難波の堀江(なにわのほりえ) 水路(または運河)として構築。 Wikipediaによると、 堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されています。
墨江の舟つき跡 船玉神社がある。 写真は、住吉大社内にある船玉神社。
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皇后石の姫の命 古事記によると、 “そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。(中略)かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家におはいりになりました。(中略) 天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、御津の埼跡にある御津八幡神社。
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筒木の韓人のヌリノミの家があったとされる大住車塚古墳周辺。 写真は、大住車塚古墳。
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ハヤブサワケの王とメトリの王 古事記によると、 “(仁德)天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。(中略)それから逃げて、宇陀のソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 クラハシ山には、現在、倉橋神社が祀られている。 写真は、倉橋山
宇陀のソニは、奈良県宇陀郡曽爾村。 写真は、奈良県宇陀郡曽爾村にある門僕神社(かどふさ)
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雁の卵 古事記によると、 “また或る時、(仁德)天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島においでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、姫嶋神社
枯野という船 “この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早く行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。(中略)この船が壞れましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、 船のカラノで鹽を燒いて、 その餘りを琴に作つて、 彈きなせば、鳴るユラの海峽の 海中の岩に觸れて立つている 海の木のようにさやさやと鳴り響く。 と歌いました。”
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写真は、淡路島の清水である御井の清水。
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ユラの海峽と言われている由良の海, 友ケ島水道。
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“仁德天皇は御年八十三歳、丁卯の年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受の耳原にあります。”
二、履中天皇・反正天皇 履中天皇とスミノエノナカツ王 古事記によると、 “御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和のイハレの若櫻の宮跡にある磐余の邑(いわれのむら)にある現在の稚櫻神社。
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古事記によると、 “スミノエノナカツ王が惡い心を起して、(難波宮の)大殿に火をつけました。この時に大和の漢の直の祖先のアチの直が、履中天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、(中略)ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。(中略)かくて二上山の大坂の山口 (中略) 當麻路から𢌞つて、(中略)石の上の神宮においで遊ばされました。”
古事記によると、 “履中天皇は御年六十四歳、壬申の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、履中天皇陵。
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反正天皇 (はんぜいてんのう) 古事記によると、 “弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比の柴垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、多治比の柴垣の宮跡にある柴籬神社。
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古事記によると、 “反正天皇は御年六十歳、丁丑の年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
三、允恭(いんぎょう)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 "弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の遠つ飛鳥の宮があった明日香村を甘樫丘から眺めた風景。 允恭天皇が初めて飛鳥に宮をおいた天皇と言われている。
古事記によると、 “天皇御年七十八歳、甲午の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長枝にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 (2019年4月)
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軽皇子は、允恭天皇の皇子であり、当初次の天皇に確定していたが同母妹軽大郎女との不倫が発覚し、伊予に流された、と古事記にはある。 当時でも同じ母を持つ兄妹の不倫は許されなかった。そして、この地にいる軽皇子を追って妹も訪れてきた。 2人はこの地に眠っている。 200年後、天智天皇と天武天皇の母である斉明天皇が朝鮮攻めのために博多津への船旅の途中、軽皇子の鎮魂と戦勝の祈りのために立ち寄っている、との話もある。
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四、安康(あんこう)天皇 マヨワの王の變 古事記によると、 “御子のアナホの御子(安康天皇)、石の上の穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、石の上の穴穗の宮があったとされる石上神宮。
古事記によると、 “マヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢みになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、安康天皇陵。
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五、雄略(ゆうりゃく)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 大和の長谷の朝倉の宮の伝説の地として2箇所の候補があります。 1つは、白山神社建立されている場所、 もう一つは、脇本遺跡のあるあたりです。 どちらも国道165号線沿いにあります。 写真は、白山神社
写真は、2つ目の候補地である脇本界隈にある春日神社。こちらが本命のようです。
ワカクサカベの王 古事記によると、 “初め皇后樣が河内の日下においでになつた時に、天皇が日下の直越(ただごえ)の道を通つて河内においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 生駒山を越える古道である直越(ただごえ)は、まさに神武天皇が白肩の津より生駒山を登った道です。 その河内側の古戦場でもある直越の道の河内側の入り口に春日神社があります。
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吉野の宮 古事記によると、 “天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。” なお、ここは神武天皇東征で仮宮が建てられた場所であるとも言われている。 また、吉野の宮の周辺での出来事を歌で詠んでいます。 古事記によると、 “吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻が御腕を咋いましたのを、蜻蛉が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、(中略)この大和の國を蜻蛉島というのだ”
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葛城山 古事記によると、 “「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、その葛城の一言主の大神を祀る葛城一言主神社。 葛城の一言主の大神が住んでいた場所に建てらたのではないかと言われている。
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雄略天皇
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雄略天皇陵が前方後円墳でない事が判明してから、ここ大塚山古墳が雄略天皇陵であるとの話がある。 古事記によると、“天皇は御年百二十四歳、己巳の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比の高鸇にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇 清寧天皇(せいねいてんのう) 古事記によると、 “御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮跡には現在、御厨子神社がある。
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古事記によると、 “この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。(中略)そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮跡に祀られる角刺神社
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清寧天皇陵
顯宗天皇 (けんぞうてんのう) 古事記によると、 “イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。”
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古事記によると、 “天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇(雄略天皇)を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記によると、 “顯宗天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、顯宗天皇綾。
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仁賢天皇 古事記によると、 “ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石の上の廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の石の上の廣高の宮跡伝承の地。現在、平尾山稲荷神社があります。
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仁賢天皇陵
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七、武烈(ぶれつ)天皇以後九代 武烈天皇 古事記によると、 “ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷の列木の宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 大和の長谷の列木の宮の跡には、十二柱神社が祀られている。
古事記によると、 “御陵は片岡の石坏の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇(応神天皇)の五世の孫、ヲホド(繼體天皇)の命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。”
繼體(けいたい)天皇 古事記によると、 “ホムダの王(応神天皇)の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余(いわれ)の玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、奈良県桜井市池之内 継体天皇磐余玉穂宮跡。
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古事記によると、 “この御世に筑紫の君石井(いわい、磐井)が皇命に從わないで、無禮な事が多くありました。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させました” 抜粋:: 稗田の阿禮、太の安萬侶 “古事記: 現代語譯 古事記”。 iBooks https://itun.es/jp/dtKYH.l 所謂、磐井の乱として伝わる朝鮮半島南部の利権を巡る戦い。ヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている(Wikipedia)。 写真は、被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている岩戸山古墳。
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古事記によると、 “繼體天皇は御年四十三歳、丁未の年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍の陵です。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、宮内庁が管理している継体天皇陵。
安閑(あんかん)天皇 古事記によると、 “御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾(まがり)の金箸(かなはし)の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 現在、金橋神社がある。
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古事記によると、 “(安閑天皇)乙卯の年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、安閑天皇綾。
宣化天皇 古事記によると、 “弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈(ひのくま)の廬入野(いおりの)の宮においでになつて、天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、檜隈(ひのくま)の廬入野(いおりの)の宮跡に祀られている美阿志神社。
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宣化天皇陵
欽明天皇 古事記によると、 “弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島の大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の師木島の大宮跡.
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欽明天皇陵
敏達(びだつ)天皇 古事記によると、 “御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田(おさだ)の宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。”
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古事記によると、 “敏達(びだつ)天皇は甲辰の年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内の科長にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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用明(ようめい)天皇 古事記によると、“弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、池の邊の宮があったとされる場所にある石寸山口神社。
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古事記によると、 “用明(ようめい)天皇は丁未の年の四月十五日にお隱れなさいました。御陵は初めは磐余の掖上にありましたが後に科長の中の陵にお遷し申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、 用明天皇陵 聖徳太子の父として有名であるが短命であった。
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崇峻(すしゅん)天皇 古事記によると、 “弟のハツセベノワカサザキの天皇(崇峻天皇)、大和の倉椅の柴垣の宮においでになつて、四年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の倉椅の柴垣の宮跡に建つ金福寺。
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古事記によると、 “(崇峻天皇)壬子の年の十一月十三日にお隱れなさいました。御陵は倉椅の岡の上にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 なお、Wikipediaによれば、臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。 死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
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“妹のトヨミケカシギヤ姫の命(推古天皇)、大和の小治田の宮においでになつて、三十七年天下をお治めなさいました。” 推古天皇は、豊浦の宮で即位し、小治田の宮へ移ったとされている。 この地は元々蘇我馬子が寺を建てた場所。 蘇我馬子は敏達天皇の皇后であった額田部皇女を帝位につけ、用明天皇の皇子である聖徳太子を皇子としている。 豊浦寺跡の一角には、仏像を破棄したと言われている難波池がある。 舶来の仏教と古来の神々を信仰する物部氏との戦いで勝利した蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建て、崇峻帝を東漢駒に殺させた後、ここで推古天皇を即位させている。11年間都とし603年に小墾田へ遷都する。
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写真は、小治田の宮跡(小墾田宮(おはりだのみや))と伝わる場所。 豊浦の宮跡から北へ数百メートルの場所にある。 しかし、この地下には何の跡もないとの事。むしろこの地は、推古天皇豊浦宮跡の一部であった考えた方が妥当なのではないか。現在、指定されている推古天皇豊浦宮跡だけでは小さすぎる。 後に、推古天皇豊浦宮は小墾田宮に遷都した後飛鳥寺に対して尼寺として使用されていた。 三十八柱神社⛩みそやはしら神社が小墾田宮跡地として有望との事。
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三十八柱神社⛩みそやはしら神社が小墾田宮跡地として有望との事。 斑鳩にいる聖徳太子が通うにはまだ遠いが、豊浦よりは近い。蘇我氏に支配された飛鳥の地に比べるといい場所でもある。しかし、法隆寺夢殿から片道16キロもある。聖徳太子は馬で従者は小走りかな。 推古11年(601年)にこの地へ遷都している。同じ年に十二階の冠位が制定され翌年には憲法十七条が制定されている。 まさに革命が起きた地である。 この地は26年間推古天皇の宮として使われている。 その後、数代の天皇の宮としても使われ、天智天皇も近江大津宮に遷都するまでこの地を宮として使っていた。
古事記によると、“戊子の年の三月十五日癸丑の日にお隱れなさいました。御陵は初めは大野の岡の上にありましたが、後に科長の大陵にお遷し申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
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