休日の選択肢を広げる総合おでかけ情報サイト
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
高穴穂神社
成務(せいむ)天皇 “ワカタラシ彦の天皇(成務天皇)、近江の國の志賀の高穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、近江の國の志賀の高穴穗の宮跡にある碑。
成務天皇陵
“成務(せいむ)天皇は御年九十五歳、乙卯の年の三月十五日にお隱れになりました。御陵は沙紀の多他那美にあります。”
忌宮神社
六、仲哀(ちゅうあい)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)、穴門の豐浦の宮また筑紫の香椎の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 長府観光Webにようると、”西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在したと書かれています。 写真は、仲哀天皇の穴門の豐浦の宮跡には忌宮神社(いみのみやじんじゃ)が祀られています。
香椎宮
タラシナカツ彦の天皇(仲哀天皇)が天下を治めた筑紫の香椎の宮は、現在ある香椎宮から北東に200メートルほどの高台にある。 写真は、その記念碑。
香椎宮
神功(じんぐう)皇后 “皇后のオキナガタラシ姫の命(神功皇后)は神懸りをなさつた方でありました。天皇が筑紫の香椎の宮においでになつて熊曾の國を撃とうとなさいます時に、(中略) 神のお教えになることは悉く前の通りで、「すべてこの國は皇后樣のお腹においでになる御子(應神天皇)の治むべき國である」とお教えになりました。” 写真は、亡くなった第14代仲哀天皇(ちゅうあい)が九州遠征時に急死した際、神功皇后(じんぐうこうごう)が仲哀天皇のご遺体を仮埋葬した塚「御殯斂地(ごひんれんち)」。現在この地は宮内庁の管轄となっています。
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
鹿島神宮
常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、鹿島神宮。 大化改新の中心人物である中臣鎌足(藤原鎌足)の出生地としての言い伝えがある鎌足神社が、鹿島神宮の近くにあります。 藤原氏の氏社として創建された奈良の春日大社は、ここ鹿島神宮を勧請したものであり、現在の奈良公園の鹿は、ここの鹿を1年かけて移動させたものとの話が伝わっています。
息栖神社
常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、息栖神社(いきす)。 神々の時代、息栖神社(いきす)の現在の位置は海中になってしまいます。今の場所は、何らかの理由で移設された、と言われているようです。 息栖神社が、古代地図にある小さな島にあったと思うのもまた面白い。
筑波山神社
常陸の筑波には、現在、筑波山神社があります。
神坂峠 頂上
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)信濃の坂の神を平らげ、尾張の國に還つておいでになつて、先に約束しておかれたミヤズ姫のもとにおはいりになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
伊吹山
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)そこで御結婚遊ばされて、その佩びておいでになつた草薙の劒をミヤズ姫のもとに置いて、イブキの山の神を撃ちにおいでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、伊吹山。
関ヶ原鍾乳洞
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)かくて還つておいでになつて、玉倉部の清水に到つてお休みになつた時に、御心がややすこしお寤めになりました。そこでその清水を居寤の清水と言うのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
養老公園
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からお立ちになつて當藝の野の上においでになつた時に仰せられますには、「わたしの心はいつも空を飛んで行くと思つていたが、今は歩くことができなくなつて、足がぎくぎくする」と仰せられました。依つて其處を當藝(たぎ)といいます。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 當藝(たぎ)は、岐阜県養老郡のあたりと言われている。 私は、養老サービスエリアに寄ることがあります。昼による頃があるので、何度か味噌カツ定食をいただくことがあります。
杖衝坂
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からなお少しおいでになりますのに、非常にお疲れなさいましたので、杖をおつきになつてゆるゆるとお歩きになりました。そこでその地を杖衝坂といいます。尾津の埼の一本松のもとにおいでになりましたところ、先に食事をなさつた時に其處にお忘れになつた大刀が無くならないでありました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、杖衝坂に建つ碑
能褒野神社
古事記によると、 “其處からおいでになつて、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりました、(中略)と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、能煩野神社
能褒野神社
ヤマトタケルの命のお墓 “三重の村においでになつた時に、また「わたしの足は、三重に曲つた餅のようになつて非常に疲れた」と仰せられました。そこでその地を三重といいます。 其處からおいでになつて、能煩野に行かれました時に、故郷をお思いになつてお歌いになりましたお歌、 大和は國の中の國だ。 重なり合つている青い垣、 山に圍まれている大和は美しいなあ。 (中略) と歌い終つて、お隱れになりました。そこで急使を上せて朝廷に申し上げました。” “ここに大和においでになるお妃たちまた御子たちが皆下つておいでになつて、御墓を作つてそのほとりの田に這い𢌞つてお泣きになつてお歌いになりました。”
白鳥陵古墳(日本武尊白鳥陵)
古事記によると “しかるに其處から大きな白鳥になつて天に飛んで、濱に向いて飛んでおいでになりましたから、そのお妃たちや御子たちは、其處の篠竹の苅株に御足が切り破れるけれども、痛いのも忘れて泣く泣く追つておいでになりました。その時の御歌は、 (中略) そこでその國から飛び翔つておいでになつて、河内の志幾にお留まりなさいました。そこで其處に御墓を作つて、お鎭まり遊ばされました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、白鳥の陵。
景行天皇陵
“オホタラシ彦の天皇(景行天皇)の御年百三十七歳、御陵は山の邊の道の上にあります” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
景行天皇纒向日代宮跡碑
五、景行(けいこう)天皇・成務天皇 景行天皇の后妃と皇子女 “オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向の日代の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)に建つ碑。
浦賀水道
“(景行天皇の息子)オシクロのオト彦の王で、(中略)、また東國の安房の水門をお定めになり、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、東國の安房の水門である三浦半島と房総半島の間、浦賀水道を鋸山山頂から撮りました。 つまり、この頃東京湾の外側が勢力範囲に入ったということです。
熊襲の穴
(景行天皇の息子)ヤマトタケルの命の西征 古事記によると、 “そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。(中略)そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室を作つて居ました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 この辺の人々は大和に征服されるまでは熊襲と呼ばれていたが征服さえれた後、ハヤトと呼ばれるようになった。現在、熊襲穴として保存されている。
出雲大社
イヅモタケル 古事記によると、 “そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 出雲の國のどこであるかは何も語っていません。写真は、出雲大社です。
伊勢神宮
ヤマトタケルの命の東征 古事記によると、 “(景行天皇がヤマトタケルの命に)「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命が東征にあたり参拝した伊勢神宮。
熱田神宮
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命)かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命の草薙の剣を祀る熱田神宮。
焼津市
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐つて言いますには、(中略)そこでまず御刀をもつて草を苅り撥い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といつております。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、日本平から駿河湾、三保の松原、富士山を眺めた景色です。
走水神社
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からおいでになつて、走水の海をお渡りになつた時にその渡の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、(ヤマトタケルの命が)走水の海をお渡り房総半島に船で渡った場所に建つ走水神社 。
足柄峠
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)足柄の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、かつての旧東海道に使われていた足柄街道にある足柄峠
酒折宮
古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、酒折の宮に起源をもつとされる神社
香取神宮
常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、香取神宮。 鹿島神宮と香取神宮は、大和朝廷が蝦夷へ向かうための補給地として使われていた、との話があります。その為に武の神として祀られていました。
ログイン