小柳 恵一
小柳 恵一

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古事記を巡る旅

古事記  現代語譯古事記
稗田の阿禮、太の安萬侶  武田祐吉訳

古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳

古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳

景行天皇纒向日代宮跡碑

景行天皇纒向日代宮跡碑

五、景行(けいこう)天皇・成務天皇 景行天皇の后妃と皇子女 “オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)、大和の纏向の日代の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 纒向日代宮跡(まきむくひしろのみやあと)に建つ碑。

浦賀水道

浦賀水道

“(景行天皇の息子)オシクロのオト彦の王で、(中略)、また東國の安房の水門をお定めになり、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、東國の安房の水門である三浦半島と房総半島の間、浦賀水道を鋸山山頂から撮りました。 つまり、この頃東京湾の外側が勢力範囲に入ったということです。

熊襲の穴

熊襲の穴

(景行天皇の息子)ヤマトタケルの命の西征 古事記によると、 “そこで天皇は、その御子の亂暴な心を恐れて仰せられるには「西の方にクマソタケル二人がある。これが服從しない無禮の人たちだ。だからその人たちを殺せ」と仰せられました。(中略)そこでクマソタケルの家に行つて御覽になりますと、その家のあたりに、軍隊が三重に圍んで守り、室を作つて居ました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 この辺の人々は大和に征服されるまでは熊襲と呼ばれていたが征服さえれた後、ハヤトと呼ばれるようになった。現在、熊襲穴として保存されている。

出雲大社

出雲大社

イヅモタケル 古事記によると、 “そこで出雲の國におはいりになつて、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになつて、おいでになつて、交りをお結びになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 出雲の國のどこであるかは何も語っていません。写真は、出雲大社です。

伊勢神宮

伊勢神宮

ヤマトタケルの命の東征 古事記によると、 “(景行天皇がヤマトタケルの命に)「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになつて、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになつた時に、柊の長い矛を賜わりました。依つて御命令を受けておいでになつた時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになつた叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命が東征にあたり参拝した伊勢神宮。

熱田神宮

熱田神宮

古事記によると、 “(ヤマトタケルの命)かくて尾張の國においでになつて、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、ヤマトタケルの命の草薙の剣を祀る熱田神宮。

焼津市

焼津市

古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐つて言いますには、(中略)そこでまず御刀をもつて草を苅り撥い、その火打をもつて火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還つておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といつております。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、日本平から駿河湾、三保の松原、富士山を眺めた景色です。

走水神社

走水神社

古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)其處からおいでになつて、走水の海をお渡りになつた時にその渡の神が波を立てて御船がただよつて進むことができませんでした。その時にお妃のオトタチバナ姫の命が申されますには、” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、(ヤマトタケルの命が)走水の海をお渡り房総半島に船で渡った場所に建つ走水神社 。

足柄峠

足柄峠

古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)足柄の坂本に到つて食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になつて參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもつてお打ちになりましたところ、その目にあたつて打ち殺されました。かくてその坂にお登りになつて非常にお歎きになつて、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、かつての旧東海道に使われていた足柄街道にある足柄峠

酒折宮

酒折宮

古事記によると、 “(ヤマトタケルの命が)その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになつた時に、お歌いなされるには、常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、酒折の宮に起源をもつとされる神社

香取神宮

香取神宮

常陸の新治には、現在、東国三社(香取神宮、鹿島神宮、息栖神社)があります。 写真は、香取神宮。 鹿島神宮と香取神宮は、大和朝廷が蝦夷へ向かうための補給地として使われていた、との話があります。その為に武の神として祀られていました。

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