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★津山城下町と重要伝統的建造物群保存地区を散策
まいどまいど! 岡山県を代表する観光名所の一つっちゅうたら、津山市やおまへんでっしゃろか。 街の中心部には津山城址があり、展望フロアからは津山市街地を一望。 その他、昔ながらの雰囲気漂う湯山まなびの鉄道館には新旧が入り混じる車両が保存、展示され、鉄道ファン必見のスポットともなってまんねん。 また、岡山県の玄関口の一つでおます津山駅周辺には観光案内所もおまして、津山市内をはじめ、岡山県全域の観光案内、情報発信を行っておます。 お土産も販売され、ご当地の名物、名産と出会えるかもしれまへんな。 ほんで、今となっては一般的となった言葉の一つ「地質学」も岡山が生んだっちゅうても過言ではおまへん。 城東重要伝統的建造物群保存地区、城西地区の街並み・西今町(津山市城西 重要伝統的建造物群保存地区)で江戸時代からの古い街並みを眺めつつ、城東むかし町家(旧梶村邸)、津山洋学資料館に立ち寄りつつ。 津山の今と昔を散策しに、出かけてみまへんか。
ソシオ一番街
飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ商店街。 かつて名称はパティオ一番街であった。 隣接する銀天街にかけて全長約200m。 2017年、まちづくりの活動拠点としてまちなかさろん再々があり、多目的なスペースとして利用。 つやま まちライブラリー@まちなかさろん再々が開設。 津山市内には吉井川が流れ、今津屋橋が架けられた。 江戸時代、鍛冶屋橋とも呼ばれ、警備や見張りを目的とした番所が設置。 一方、平安時代に津山発祥の高瀬舟が森忠政の1603年の津山移封後、津山や瀬戸内、備前などを結ぶ手段としての重要性が高まり、吉井川北岸に舟着場(川戸)が設置。
和み
お好み焼き・鉄板焼きの専門店。 店内はテーブル席とカウンター席がある。 メニューは、お好み焼き焼き、焼きそば、そばめし、カットチキンステーキ、てんぷらなど。
ごんご(河童)像
通りは「ごんご通り」と呼ばれ、地域密着型の商店街として親しまれている。 アーケードは江戸時代から明治時代の商家をイメージ。 瓦屋根となまこ壁のものにつくり変えられたとか。 また付近を流れる吉井川をテーマに、川の流れを石畳でデザイン。 昔、「ごんご(カッパ)」が吉井川に生息したという伝説が残り、高瀬舟やカエルのモニュメント、石灯篭などが沿道に設置。 夏にはイベント「ごんご祭り」が開催され、かっぱの姿をした踊り手など数千人が、練り踊るとか。
ええじゃないか ええじゃないか 浦賀奉行所
まいどまいど! 「ええじゃないか」は民衆の封建社会への抗議の表れとされ、三河で起こり、伊勢神宮などのお札が降って人々が狂喜乱舞になったという。 神奈川県横須賀市にもかつて浦賀奉行所があったが奉行所としても収拾がつかないほど町中が狂乱状態になったといい、今でも各地に伝説が残ってねんやとか。 付近には現代としては珍しい和式灯台が燈明崎に再現され、周辺の燈明堂海岸とともに観光名所の一つともなってまんねん。 海岸は砂浜として整備され、季節になると多くの海水浴客でにぎわう。 また、千代ヶ崎砲台跡があり、東京湾要塞の一つで東京を守る目的で建設された陸軍要塞の砲台群。 時代の流れとともに当時を物語る軍事遺跡としては数少ない貴重な存在となってしまいましたが、砲座、砲床の3砲座が配置され、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯など、今でも垣間見ることができまんねん。 さらに、浦賀は海に面した場所ととして知られ、日本初のドライドックや国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」を竣工するなど、日本初が詰まってまっせ。
(有)精栄軒 本店
1910年、創業。 おもちどら焼きなどの和菓子やチーズケーキなどの洋菓子も。 横須賀お土産コンテスト入賞商品 おりょうと竜馬の愛したかすていらも人気。
浦賀の廻船問屋(萬屋清左衛門家)
かつて主に干鰯問屋が繁栄していたが多くの船が行き交うようになり、積荷の検査や集荷・運送・揚げ降ろしなどを行う廻船問屋が繁栄。 浦賀奉行所が置かれたことをきっかけに多くの商人が集まり、米穀・酒類・塩の問屋などが軒を連ね、相模国一番の商業地として繁栄したとか。
燈明堂海岸
神奈川県の三浦半島南東部にある三浦海岸の一部。 海岸は砂浜として整備され、季節になると多くの海水浴客でにぎわう。 また1648年に建設された和式灯台の燈明堂があり、見学することができる。 その他、1720年に開設された浦賀奉行所の処刑場があったとされ、周囲には多くの供養塔が建立。
千代ヶ崎砲台跡
千代ヶ崎砲台は東京湾要塞の一つで東京を守る目的で建設された陸軍要塞の砲台群。 因みに猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡の二か所が軍事遺跡として日本初の国史跡に指定。 猿島砲台跡は横須賀新港沖合いの猿島に所在し、1881年、起工。 千代ヶ崎砲台跡は1892年、起工。 砲座、砲床の3砲座が配置され、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯。
観音崎で照らし続ける灯台
まいどまいど! 自然豊かな環境に恵まれた神奈川県横須賀市の鴨居。 ここには日本を代表する観音崎の灯台があり、昼夜問わず、海を監視、夜間には海に向かって照らし続けてはりまんねん。 かつては砲台も設置されていたといい、砲台跡が点在。 現在も保存、展示されているため、自由に見学することができまんねん。 また、日本武尊、弟橘媛命 伝説の地としても知られておまして、走水神社を筆頭にゆかりの地として語り継がれてまんねん。 特に走水神社付近では山車も保管され、雅な山鉾を見学することもできまんねん。 走水山大泉寺では徳川家康が関東に入国した際、三浦郡代官頭・長谷川七左衛門により曹洞宗の寺として開山したとされ、本尊は室町時代作と伝わる延命地蔵。 その他、海に面しているため、景勝地の一つとして人気があり、その景勝地の中に位置する走水観音崎遊歩道は 三浦半島の東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する岬の一つに数えられる観音崎でんねん。 東日本旅客鉄道の横須賀駅付近から観音崎まで望むことができまっせ。
走水山大泉寺
1590、徳川家康が関東に入国した際、三浦郡代官頭・長谷川七左衛門により曹洞宗の寺として開山。 弟子の霊屋が中興。 本尊は室町時代作と伝わる延命地蔵。 本堂には魚の入った竹の籠を持つ魚藍観世音菩薩が祀られている。 御朱印二石の由緒を持つ。 墓地には江戸湾海防に従事した川越藩士が眠る。
旗山崎公園
伝説によると日本武尊の東征途上、宿所とされたことから御所ケ崎の名が残る。 また、山に旗を立てたことから旗山崎という地名の由来とも。 1632年、番所が設置され、走水奉行・向井氏が管轄、奉行屋敷が置かれて江戸湾の防備と船舶往来の関所になった。 与力や同心の住居があった場所(小学校辺り)は同心町と呼ばれた。 幕末期、台場が築造され、1885年には旧日本陸軍の低砲台が置かれた。 後に重砲兵学校の演習砲台として使用された。
日本武尊、弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
伝説によると日本武尊が東征途上の際、日本武尊が当地上総に渡ったとされ、仮の御所を設けた。 軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎という地名の由来とも。 当地にはかつて弟橘媛を祀る橘神社が鎮座。 上総国に船出した日本武尊は海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めた。 7日後、妃の御櫛が浜に漂着、村人は旗山に御陵を造ってその櫛を納めた。 御所ヶ崎には江戸幕府によって台場が築造、明治政府によって軍用地として買収された際、橘神社は走水神社に遷座。 現在、旗山崎公園には明治時代に建設された「走水低砲台」の遺構の残り、加農砲が据え付けられていた砲座跡、弾薬庫などのレンガ積み構造物がある。
伊勢町町内会館
伊勢町町内会館では伊勢町観音を祀る。 伊勢町観音は漁民の網にかかったとされ、ポックリ観音として信仰を集めている。 像高は約61cm、寄木造りの玉眼入りで、漆箔が施され宝冠を頂いた立姿。 江戸時代に鎌倉仏師によって彫られ、宋の影響を受けているとも。
夕日の富士
東日本旅客鉄道の横須賀駅付近から観音崎へと続く海辺の道を「うみかぜの路」と呼び、特に当地周辺は東京湾の眺望が美しいと評判であるとか。 東京湾唯一の猿島や要塞の島・第一海望、第二海望を望み、遠くは横浜市のランドマークタワーも見えるとか。 また晴れた日には太陽が富士山山頂に重なるときの現象「ダイヤモンド富士」を観察できるとか。
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