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関西が好っきゃねん
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ええじゃないか ええじゃないか 浦賀奉行所

ええじゃないか ええじゃないか 浦賀奉行所

まいどまいど! 「ええじゃないか」は民衆の封建社会への抗議の表れとされ、三河で起こり、伊勢神宮などのお札が降って人々が狂喜乱舞になったという。 神奈川県横須賀市にもかつて浦賀奉行所があったが奉行所としても収拾がつかないほど町中が狂乱状態になったといい、今でも各地に伝説が残ってねんやとか。 付近には現代としては珍しい和式灯台が燈明崎に再現され、周辺の燈明堂海岸とともに観光名所の一つともなってまんねん。 海岸は砂浜として整備され、季節になると多くの海水浴客でにぎわう。 また、千代ヶ崎砲台跡があり、東京湾要塞の一つで東京を守る目的で建設された陸軍要塞の砲台群。 時代の流れとともに当時を物語る軍事遺跡としては数少ない貴重な存在となってしまいましたが、砲座、砲床の3砲座が配置され、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯など、今でも垣間見ることができまんねん。 さらに、浦賀は海に面した場所ととして知られ、日本初のドライドックや国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」を竣工するなど、日本初が詰まってまっせ。

愛宕山公園
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愛宕山公園

1891、開園。 現在、横須賀市内最古の公園。 ここでは中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航の碑と与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建立。 1853年、ペリー率いる黒船の来航時、中島三郎助はその応接に尽力。 国内初となる洋式軍艦・鳳凰丸を浦賀で建造、奉行所に在勤中、俳句を詠み、庶民の間でも広く親しまれた。 1960年、咸臨丸出航の碑は、日米修好通商条約の締結100年を記念して建立。 咸臨丸には艦長格・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連なる。 与謝野鉄幹・晶子夫妻歌碑には、歌の同人と浦賀を訪れたときに詠んだ歌とも。

陸軍桟橋
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陸軍桟橋

通称、陸軍桟橋。 桟橋はL字型。 太平洋戦争終了後、南方から引き揚げてきた約56万人が、第一歩を印した場所として知られている。

船番所跡
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船番所跡

1720年、下田奉行所(静岡県下田市)から浦賀(神奈川県横須賀市)に移転。 業務は船の荷改め(検査)をはじめ、海難救助や地方役所としての役割を担った。 1800年代、日本近海に外国船が行き交うようになり、江戸を防備することを目的に設立。 1868年、約150年間、初代の堀隠岐守から土方出雲守まで53名が任務にあたった。 また当地には浦賀奉行所の出先機関で番所が設置。

浦賀奉行所跡
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浦賀奉行所跡

1720年、下田奉行所(静岡県下田市)から浦賀(神奈川県横須賀市)に移転。 業務は船の荷改め(検査)をはじめ、海難救助や地方役所としての役割を担った。 1800年代、日本近海に外国船が行き交うようになり、江戸を防備することを目的に設立。 1868年、約150年間、初代の堀隠岐守から土方出雲守まで53名が任務にあたった。 また付近には浦賀奉行所の出先機関で番所が設置。 番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行った。 その業務は昼夜を通じて行われたといい三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当した。

燈明堂跡
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燈明堂跡

燈明堂とは、浦賀港付近に位置する燈明崎に築造された和式灯台。 1590年、徳川家康が江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速に発展。 水運の発展に伴い、東京湾入口に近く浦賀水道に面する入江の浦賀は港として発展。 浦賀水道を通行する船の安全策を講ずる必要性も高まった。 1648年、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆のもと江戸幕府は浦賀港入口の岬に和式灯台の燈明堂を建設 燈明堂は篝火ではなく堂内で菜種油を燃やして明かりとし、堂内には燈台守が常駐。 当時、明かりも少なく燈明堂の明かりは対岸の房総半島から確認できたとも。

中村 泰三
中村 泰三

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室生寺だけでは勿体ない!
周辺観光スポット特集‼️

小柳 恵一
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京都 鳥羽伏見界隈散歩

京都 鳥羽伏見界隈散歩

伏見港公園に織田信長公塚石(暮石)がある。秀吉が伏見城にいた頃、信長のためにこの地に設置した、との事。 そこから宇治川派流に沿って北に上るとすぐに二又に分かれる。東に曲がると長州藩伏見藩邸跡がある。 近くには、寺田屋がある。この辺りは鳥羽伏見の戦い激戦地になっている。その戦いで寺田屋も焼けている。現在の寺田屋はその後再建された建物。近くの伏見奉行所跡は、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所に籠る新撰組と薩摩軍とが戦った場所でもある。 船宿寺田屋(薩摩藩定宿)では2つの歴史的事件が起きている。 1つは、1862年5月21日に薩摩藩の島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件である。 有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵・田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎の9名の墓は烈士として薩摩藩伏見藩邸近くにある大黒寺に葬られている。 2つ目は、1866年3月9日、薩長同盟の会談直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした。この騒動で龍馬は、二人の捕り方をピストルで殺害している。

小柳 恵一
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京都 鳥羽伏見界隈散歩

京都 鳥羽伏見界隈散歩

伏見港公園に織田信長公塚石(暮石)がある。秀吉が伏見城にいた頃、信長のためにこの地に設置した、との事。 そこから宇治川派流に沿って北に上るとすぐに二又に分かれる。東に曲がると長州藩伏見藩邸跡がある。 近くには、寺田屋がある。この辺りは鳥羽伏見の戦い激戦地になっている。その戦いで寺田屋も焼けている。現在の寺田屋はその後再建された建物。近くの伏見奉行所跡は、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所に籠る新撰組と薩摩軍とが戦った場所でもある。 船宿寺田屋(薩摩藩定宿)では2つの歴史的事件が起きている。 1つは、1862年5月21日に薩摩藩の島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件である。 有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵・田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎の9名の墓は烈士として薩摩藩伏見藩邸近くにある大黒寺に葬られている。 2つ目は、1866年3月9日、薩長同盟の会談直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした。この騒動で龍馬は、二人の捕り方をピストルで殺害している。

伏見口の戦い激戦地跡
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伏見口の戦い激戦地跡

伏見口の戦い激戦地跡

薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)
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薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)

薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
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会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂) 会津藩が陣を張った寺 伏見奉行所跡の西の近くにある。 川に向かって下ってくる位置に奉行所があった。

松林院
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松林院

松林院(寺田屋のお登勢の墓) この寺に寺田屋のお登勢さんが眠っている。 なお、見学はできません。 伏見奉行所と寺田屋の間にある。

月桂冠大倉記念館
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月桂冠大倉記念館

月桂冠大倉記念館

伏見奉行所跡
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伏見奉行所跡

新撰組などが陣を張った伏見城跡。  寺田屋で坂本龍馬を捕らえにきた捕り方は、この奉行所から夜出たんだろうな。龍馬にピストルで撃たれて死亡した2人の捕り方はこの辺である伏見の人だったろうか? 何か記録は残っていないのかな? 坂本龍馬を殺害した見廻組であった人物が明治の政府に述べた内容によると、坂本龍馬殺害は、寺田屋で捕り方2人をピストルで殺した事に対する公務である、としている。

御香宮神社
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御香宮神社

御香宮神社

伏見の戦跡石碑
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伏見の戦跡石碑

明治維新 伏見の戦跡

御香宮神社
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御香宮神社

表門(旧伏見城移築大手門) 伏見の戦いでは、薩摩藩はこの御香宮の東に大砲を備え伏見奉行所に陣を張る新撰組を中心とする幕府軍を攻撃している。 伏見奉行所は、ここから南に下った低地にある。薩摩軍の大砲は打ち下ろす形になり有利であったことが分かる。 この門は、かつて伏見城大手門に使われていたもの。

黒田節誕生地
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黒田節誕生地

黒田節誕生地

鳥羽伏見の戦い勃発の地碑
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鳥羽伏見の戦い勃発の地碑

鳥羽伏見の戦い勃発の地碑 ここは鳥羽の戦い勃発の地。 滝川氏が率いるフランス仕込みの幕府軍歩兵は最新式の銃に弾も込めずに竹田街道を北に歩きここに小枝橋を渡るために来ている。 滝川氏は幕府軍を攻撃する藩などあり得ないとの思い込みだけで御所に向かっていた。しかも、薩摩軍が御所から許しを求めるまでこの地に待てとの言葉を信じて滝川軍はこの地で待っていた。その間に薩長軍は鳥羽に更なる陣の展開を進めた。城南宮に大砲を置いている。 この逸話が幕府軍官僚意識を象徴していると思えて面白い。

城南宮
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城南宮

城南宮 空海が東寺にいた頃、日照りが続いたらしい。そのためこの地で雨乞いの祈りが捧げられたという話をどこかで読んだ記憶がある。 二人の坊さんが祈祷をあげたところ空海の祈祷のお陰で雨が降ったとの話が伝わっている。 空海が東寺への帰り道、雨乞いの競争に負けた一方の坊さんが空海の命を狙い矢を放ったが黒い坊主が身代わりに矢を受けた。その坊さんはお地蔵さまの化身であったとの話が伝わっている。それが羅城門跡前にある矢取地蔵尊と言われている。 鳥羽の戦いでは、薩摩軍がここに大砲を置いている。 その戦いでこの辺は全て燃え尽きている。

神苑 源氏物語花の庭
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神苑 源氏物語花の庭

神苑 源氏物語花の庭

小柳 恵一
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京都 鳥羽伏見界隈散歩

京都 鳥羽伏見界隈散歩

伏見港公園に織田信長公塚石(暮石)がある。秀吉が伏見城にいた頃、信長のためにこの地に設置した、との事。 そこから宇治川派流に沿って北に上るとすぐに二又に分かれる。東に曲がると長州藩伏見藩邸跡がある。 近くには、寺田屋がある。この辺りは鳥羽伏見の戦い激戦地になっている。その戦いで寺田屋も焼けている。現在の寺田屋はその後再建された建物。近くの伏見奉行所跡は、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所に籠る新撰組と薩摩軍とが戦った場所でもある。 船宿寺田屋(薩摩藩定宿)では2つの歴史的事件が起きている。 1つは、1862年5月21日に薩摩藩の島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件である。 有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵・田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎の9名の墓は烈士として薩摩藩伏見藩邸近くにある大黒寺に葬られている。 2つ目は、1866年3月9日、薩長同盟の会談直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした。この騒動で龍馬は、二人の捕り方をピストルで殺害している。

mia.rururu
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