小柳 恵一
小柳 恵一

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京都 鳥羽伏見界隈散歩

京都 鳥羽伏見界隈散歩

伏見港公園に織田信長公塚石(暮石)がある。秀吉が伏見城にいた頃、信長のためにこの地に設置した、との事。 そこから宇治川派流に沿って北に上るとすぐに二又に分かれる。東に曲がると長州藩伏見藩邸跡がある。 近くには、寺田屋がある。この辺りは鳥羽伏見の戦い激戦地になっている。その戦いで寺田屋も焼けている。現在の寺田屋はその後再建された建物。近くの伏見奉行所跡は、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所に籠る新撰組と薩摩軍とが戦った場所でもある。 船宿寺田屋(薩摩藩定宿)では2つの歴史的事件が起きている。 1つは、1862年5月21日に薩摩藩の島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件である。 有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵・田中謙助・森山新五左衛門・山本四郎の9名の墓は烈士として薩摩藩伏見藩邸近くにある大黒寺に葬られている。 2つ目は、1866年3月9日、薩長同盟の会談直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした。この騒動で龍馬は、二人の捕り方をピストルで殺害している。

伏見口の戦い激戦地跡
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伏見口の戦い激戦地跡

伏見口の戦い激戦地跡

薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)
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薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)

薩摩島津伏見屋敷跡(薩摩藩邸跡)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
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会津藩駐屯地跡(伏見御堂)

会津藩駐屯地跡(伏見御堂) 会津藩が陣を張った寺 伏見奉行所跡の西の近くにある。 川に向かって下ってくる位置に奉行所があった。

松林院
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松林院

松林院(寺田屋のお登勢の墓) この寺に寺田屋のお登勢さんが眠っている。 なお、見学はできません。 伏見奉行所と寺田屋の間にある。

月桂冠大倉記念館
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月桂冠大倉記念館

月桂冠大倉記念館

伏見奉行所跡
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伏見奉行所跡

新撰組などが陣を張った伏見城跡。  寺田屋で坂本龍馬を捕らえにきた捕り方は、この奉行所から夜出たんだろうな。龍馬にピストルで撃たれて死亡した2人の捕り方はこの辺である伏見の人だったろうか? 何か記録は残っていないのかな? 坂本龍馬を殺害した見廻組であった人物が明治の政府に述べた内容によると、坂本龍馬殺害は、寺田屋で捕り方2人をピストルで殺した事に対する公務である、としている。

御香宮神社
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御香宮神社

御香宮神社

伏見の戦跡石碑
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伏見の戦跡石碑

明治維新 伏見の戦跡

御香宮神社
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御香宮神社

表門(旧伏見城移築大手門) 伏見の戦いでは、薩摩藩はこの御香宮の東に大砲を備え伏見奉行所に陣を張る新撰組を中心とする幕府軍を攻撃している。 伏見奉行所は、ここから南に下った低地にある。薩摩軍の大砲は打ち下ろす形になり有利であったことが分かる。 この門は、かつて伏見城大手門に使われていたもの。

黒田節誕生地
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黒田節誕生地

黒田節誕生地

鳥羽伏見の戦い勃発の地碑
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鳥羽伏見の戦い勃発の地碑

鳥羽伏見の戦い勃発の地碑 ここは鳥羽の戦い勃発の地。 滝川氏が率いるフランス仕込みの幕府軍歩兵は最新式の銃に弾も込めずに竹田街道を北に歩きここに小枝橋を渡るために来ている。 滝川氏は幕府軍を攻撃する藩などあり得ないとの思い込みだけで御所に向かっていた。しかも、薩摩軍が御所から許しを求めるまでこの地に待てとの言葉を信じて滝川軍はこの地で待っていた。その間に薩長軍は鳥羽に更なる陣の展開を進めた。城南宮に大砲を置いている。 この逸話が幕府軍官僚意識を象徴していると思えて面白い。

城南宮
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城南宮

城南宮 空海が東寺にいた頃、日照りが続いたらしい。そのためこの地で雨乞いの祈りが捧げられたという話をどこかで読んだ記憶がある。 二人の坊さんが祈祷をあげたところ空海の祈祷のお陰で雨が降ったとの話が伝わっている。 空海が東寺への帰り道、雨乞いの競争に負けた一方の坊さんが空海の命を狙い矢を放ったが黒い坊主が身代わりに矢を受けた。その坊さんはお地蔵さまの化身であったとの話が伝わっている。それが羅城門跡前にある矢取地蔵尊と言われている。 鳥羽の戦いでは、薩摩軍がここに大砲を置いている。 その戦いでこの辺は全て燃え尽きている。

神苑 源氏物語花の庭
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神苑 源氏物語花の庭

神苑 源氏物語花の庭

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