ええじゃないか ええじゃないか 浦賀奉行所
神奈川ええじゃないか ええじゃないか 浦賀奉行所
まいどまいど! 「ええじゃないか」は民衆の封建社会への抗議の表れとされ、三河で起こり、伊勢神宮などのお札が降って人々が狂喜乱舞になったという。 神奈川県横須賀市にもかつて浦賀奉行所があったが奉行所としても収拾がつかないほど町中が狂乱状態になったといい、今でも各地に伝説が残ってねんやとか。 付近には現代としては珍しい和式灯台が燈明崎に再現され、周辺の燈明堂海岸とともに観光名所の一つともなってまんねん。 海岸は砂浜として整備され、季節になると多くの海水浴客でにぎわう。 また、千代ヶ崎砲台跡があり、東京湾要塞の一つで東京を守る目的で建設された陸軍要塞の砲台群。 時代の流れとともに当時を物語る軍事遺跡としては数少ない貴重な存在となってしまいましたが、砲座、砲床の3砲座が配置され、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯など、今でも垣間見ることができまんねん。 さらに、浦賀は海に面した場所ととして知られ、日本初のドライドックや国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」を竣工するなど、日本初が詰まってまっせ。
浦賀地域の郷土資料を中心に展示、公開している施設。 愛称、浦賀文化センター 施設内では地域の人々の教養の向上、健康の増進、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的に各種教養講座、趣味講座、実用講座、イベントなどを開催。 1982年、設立。 展示室には、浦賀奉行所関係の模型、中島三郎助関係の資料、鳳凰丸・咸臨丸・ペリー艦隊の船舶の模型等が展示。
通称、浦賀ドック。 日本海軍の駆逐艦建造で有名な造船所の一つ。 2003年、閉鎖。 1853年、時江戸幕府は大船建造の禁を解いて浦賀造船所を設置。 浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じ、軍艦の建造が開始され、国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造。 1859年、日本初のドライドックが完成し、米国へ向かう咸臨丸の整備が行われた。 小栗忠順らにより、横須賀港に製鉄所を建設(後の横須賀造船所、横須賀海軍工廠)、艦艇建造の中心は横須賀に移転。 1876年、浦賀造船所が閉鎖。
浦賀ドッグ
1894年、中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助・榎本武揚・塚原周造が中心となり、1897年に浦賀船渠が設立され、工場が建設。 同時期、浦賀には東京石川島造船所(IHI)の浦賀分工場との間で、艦船建造・修理の受注合戦が繰り広げられた。 浦賀船渠は石川島造船所浦賀分工場を買収。
浦賀ドッグ
経営が傾き、渋沢栄一や浅野総一郎などが再建に尽力。 艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まる。 1907年、駆逐艦「長月」を建造。 その後も小艦艇建造を業務とし、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門となり、「西の藤永田、東の浦賀」との異名も。 1924年、国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」を竣工。
浦賀ドッグ
太平洋戦争後、海上自衛隊向けに艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修、日本丸を建造。 住友機械工業と合併し、追浜造船所(横須賀造船所)を開設し移転、2003年に浦賀は閉鎖。 浦賀船渠の第1号ドック(通称、浦賀ドック)は世界に4か所のみでレンガ積みドライドックのうちの一つ。 浦賀船渠の第1号ドック、ポンプ施設、ドックサイドクレーンが近代化産業遺産に認定。
江戸時代、築地新町(住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が幕府軍艦のための石炭囲置場となった。 1875年水兵の基礎教育機関「浦賀水兵屯集所」が設置され、東海水兵分営、水兵練習所、浦賀屯営へと改称。 水兵の基礎訓練を担当した士官らは、病やその他の事情で海上勤務ができなくなった者が集まったため、屯営は生きた士官の捨てどころとも言われた。
1864年、板状節理が発達した箱根産の根府川石が使用された碑が建立。 この土地が開発される以前の様子と先人たちの思いなどが記されている。 浦賀奉行所の大工棟梁・川島平吉の発案により、奉行の大久保土佐守が賛同し、篆額は江戸時代に活躍した国学者の大畑春国が書き、碑文には浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡が刻まれている。 かつて付近には地蔵堂があり、堂守をしながらその生涯を閉じた江戸屋半五郎(僧・深本)。 「近世浦賀畸人伝」にも記載され、遊廓の主人から僧侶になった人物。
浦賀と三浦半島各地とを結ぶ東海道の脇往還(街道)。 通称、浦賀街道。 771年、武蔵国を編入するまで東海道は三浦半島から対岸の上総国とを結び、鎌倉から馬掘付近の経路は浦賀道(鎌倉道)と重なる。 鎌倉時代、鎌倉から三浦半島へ通じる唯一の道であった。 江戸時代、浦賀が発展し、江戸湾に入る船舶の監視を行っていた下田奉行が1720年に浦賀へ移転。 幹線道路として整備され、特に黒船来航など外国船が来訪した幕末は人馬の往来が盛んであった。 明治時代、横須賀が軍港として発展し、横須賀鎮守府などへの道としても重要視された。 横須賀市街から北の区間は県道、後に国道に指定。
浦賀道
1897年、横須賀から浦賀へと結ぶ乗合馬車、1913年には乗合バス路線が開通。 金沢と横須賀や浦賀を結ぶ海運も発達したが、軍港が拡張されると横須賀が航路から外れる。 1889年、横須賀駅とを結ぶ鉄道(横須賀線)が開通。 1891年、吉倉トンネル(新逸見トンネル)が開通。
当地は西浦賀に位置し、通称、西叶神社と呼ばれている。 浦賀港を挟んだ向かい側にも叶神社が鎮座しているため、通称、東叶神社と呼ばれている。 祭神は誉田別尊、比売大神、息長帯比売命(神功皇后)。 1181年、伊豆国で配流の身であった源頼朝と知遇を得た北面武士出身の僧・文覚が、源氏再興を目的に京都府八幡市の石清水八幡宮を当地に勧請して創建。 1186年、源氏再興という祈願が叶った頼朝が叶大明神と尊称したとも。 1644年、西浦賀の叶神社を勧請して東叶神社が創建。 1842年、再建された権現造で、彫刻装飾は安房国千倉の代表的な彫刻師であった後藤利兵衛義光作。
「ええじゃないか」
江戸時代、各地で発生したもので、神社仏閣の御札が降る(家で見つかる)と、吉兆として祝酒や赤飯などを奉公人や往来の人にまで振る舞ったとか。 老若男女の区別なく「ええじゃないか」と囃立てて町をねり歩き、富家に土足で踊りこんで酒食などの振る舞いを強要。 1867年、西叶神社前の砂糖問屋湖旗屋の樽の中から、大神宮のお札が出てきたことから大騒ぎとなり、浦賀のあちこちで札降りが相次いだ。
「ええじゃないか」
この騒ぎは三浦半島での民衆運動の始まりとも。 札降りのない家は信心が足りないと言われ、寒い中、裸になって腰にしめ縄を付け、白布の鉢巻きをして「六根清浄」と唱えつつ水浴びをして神社仏閣に参拝。 民衆の封建社会への抗議の表れで「ええじゃないか」は三河で起こり、伊勢神宮などのお札が降って人々が狂喜乱舞。 江戸、駿府、京都、大坂、淡路、会津まで波及。 浦賀では奉行所も収拾がつかないほど、町中が狂乱状態に。
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国内において古くから衣服の染料に紺色が使用されてきた。 明治時代、小川善五郎は当地で紺屋(染色業)を始め、紺屋町という地名の由来になったとも。
1910年、創業。 おもちどら焼きなどの和菓子やチーズケーキなどの洋菓子も。 横須賀お土産コンテスト入賞商品 おりょうと竜馬の愛したかすていらも人気。
黒船まんじゅう
浦賀はペリー来航のゆかりの地としても知られ、黒船が描かれた黒船まんじゅうも。
かつて主に干鰯問屋が繁栄していたが多くの船が行き交うようになり、積荷の検査や集荷・運送・揚げ降ろしなどを行う廻船問屋が繁栄。 浦賀奉行所が置かれたことをきっかけに多くの商人が集まり、米穀・酒類・塩の問屋などが軒を連ね、相模国一番の商業地として繁栄したとか。
1891、開園。 現在、横須賀市内最古の公園。 ここでは中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航の碑と与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑が建立。 1853年、ペリー率いる黒船の来航時、中島三郎助はその応接に尽力。 国内初となる洋式軍艦・鳳凰丸を浦賀で建造、奉行所に在勤中、俳句を詠み、庶民の間でも広く親しまれた。 1960年、咸臨丸出航の碑は、日米修好通商条約の締結100年を記念して建立。 咸臨丸には艦長格・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連なる。 与謝野鉄幹・晶子夫妻歌碑には、歌の同人と浦賀を訪れたときに詠んだ歌とも。
通称、陸軍桟橋。 桟橋はL字型。 太平洋戦争終了後、南方から引き揚げてきた約56万人が、第一歩を印した場所として知られている。
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1720年、下田奉行所(静岡県下田市)から浦賀(神奈川県横須賀市)に移転。 業務は船の荷改め(検査)をはじめ、海難救助や地方役所としての役割を担った。 1800年代、日本近海に外国船が行き交うようになり、江戸を防備することを目的に設立。 1868年、約150年間、初代の堀隠岐守から土方出雲守まで53名が任務にあたった。 また当地には浦賀奉行所の出先機関で番所が設置。
船番所跡
番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行った。 その業務は昼夜を通じて行われたといい三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当した。
1720年、下田奉行所(静岡県下田市)から浦賀(神奈川県横須賀市)に移転。 業務は船の荷改め(検査)をはじめ、海難救助や地方役所としての役割を担った。 1800年代、日本近海に外国船が行き交うようになり、江戸を防備することを目的に設立。 1868年、約150年間、初代の堀隠岐守から土方出雲守まで53名が任務にあたった。 また付近には浦賀奉行所の出先機関で番所が設置。 番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行った。 その業務は昼夜を通じて行われたといい三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当した。
燈明堂とは、浦賀港付近に位置する燈明崎に築造された和式灯台。 1590年、徳川家康が江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速に発展。 水運の発展に伴い、東京湾入口に近く浦賀水道に面する入江の浦賀は港として発展。 浦賀水道を通行する船の安全策を講ずる必要性も高まった。 1648年、石川六左衛門重勝と能勢小十郎頼隆のもと江戸幕府は浦賀港入口の岬に和式灯台の燈明堂を建設 燈明堂は篝火ではなく堂内で菜種油を燃やして明かりとし、堂内には燈台守が常駐。 当時、明かりも少なく燈明堂の明かりは対岸の房総半島から確認できたとも。
燈明堂跡
建設当初、江戸幕府が修復費用を負担、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担。 1692年以降、浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出。 1869年、フランス人技術者レオンス・ヴェルニーの設計による光源にレンズを用いた日本初で洋式灯台の観音埼灯台が建設。 1872年、燈明堂は廃止。 強風や地震、津波によって崩壊して石垣のみとなった。 1989年、復元工事は完成、周辺は公園として整備。
神奈川県の三浦半島南東部にある三浦海岸の一部。 海岸は砂浜として整備され、季節になると多くの海水浴客でにぎわう。 また1648年に建設された和式灯台の燈明堂があり、見学することができる。 その他、1720年に開設された浦賀奉行所の処刑場があったとされ、周囲には多くの供養塔が建立。
千代ヶ崎砲台は東京湾要塞の一つで東京を守る目的で建設された陸軍要塞の砲台群。 因みに猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡の二か所が軍事遺跡として日本初の国史跡に指定。 猿島砲台跡は横須賀新港沖合いの猿島に所在し、1881年、起工。 千代ヶ崎砲台跡は1892年、起工。 砲座、砲床の3砲座が配置され、塁道―砲座間の地下には砲側弾薬庫、掩蔽部、貯水所などの地下施設が付帯。
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