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京都散歩
京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。
宝筐院 楠木正行公首塚
楠木正行公首塚 黙庵に帰依していた楠木正行の首級が、正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦いにおいて足利方の高師直・師泰兄弟と戦って敗北し晒し首になった後、黙庵によってその首級を寺の敷地内に手厚く葬られた。 その正行の敵である尊氏の後を継いだ第二将軍である足利義詮は、 「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」 と遺言を残したと言われ、貞治5年(1367年)、彼の死後ほどなく、正行の墓(五輪石塔)の隣の墓(宝筐印塔)に葬られた、とのこと。
足利尊氏公之墓
足利尊氏の墓 1358年4月30日死去。 正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺にある
篠村八幡宮
足利尊氏旗揚げの地である篠村八幡宮 1333年4月29日鎌倉幕府に対して尊氏がここで旗揚げをした。 ここで六波羅を打ち北条幕府を倒すことを宣言している。
醍醐寺
醍醐寺散歩 豊臣秀吉が没する5ヶ月前である慶長3年3月15日(1598年4月20日)に開催された花見の宴の風景を見たく訪れました。 花見の季節に訪れたいと長らく思っていましたが、やはり人の混雑を避けたいのでゴールデンウィーク明けに北九州へのドライブへの途中に寄りました。 豊臣秀頼、北政所、淀君、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿、そして前田家のまつをはじめとして諸大名からその配下の女房女中1300人ほどを召し従えた盛大の宴として知られる醍醐寺の散歩を楽しみました。 桜の満開🌸宣言された日に偶然訪れることができました。ラッキーでした。 桜を楽しんだ後、2度目となる上醍醐寺に登りました。
上醍醐寺
麓にある醍醐寺からここまでは結構な登りになる。
京都散歩
京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。
京都御所
御所
京都御苑
素晴らしい空間
「源氏物語」 鳥辺野 六道の辻 六道珍皇寺
紫式部 「源氏物語」 鳥辺野散歩 源氏物語では、急死した夕顔のほかに葵の上、紫の上、桐壷の女御、六条の御息所などがここで荼毘に付され、みんな鳥辺野の煙として消えていった。 東山山麓に広がる葬送の地で、平安時代から貴族達は火葬、庶民は風葬をした地。豊国廟参道沿あたりから清水寺の南の谷くらいまで。 夕顔の葬送には次のように鳥辺野の地名が出てくる。 「(加茂川の)河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど」また、「その辺り一帯、ばかにしんみりとしている。ただ、清水寺のあたりだけは、光が多く見えて、僧侶や参拝客の人気も多い」と書かれている。
瑞泉寺
谷崎潤一郎作品「聞書抄」散歩 京都 慈舟山 瑞泉寺 石田三成による豊臣秀次一族滅亡に関わる企みの話が面白い。 高野山で切腹した秀次の首を西に向けて置かれた三条河原の前で秀次家族ら39人を殺害しその場に埋められた場所に建つ瑞泉寺を訪れました。 五条河原で斬首された石田三成の首が晒された三条河原を訪れた石田三成の娘の前にあらわれた盲目の法師が語りはじめた秀吉の甥、秀次の行状ときらびやかで残虐なこの世の地獄絵巻が読むものを強く惹きつける。 秀次が潔白を示すために高野山で近侍と共に自ら切腹した、という近年の説に私の心は動かされる。
新熊野神社
新熊野神社 観阿弥が演じた猿楽を足利義満が初めて訪れて鑑賞した地。 ここで観阿弥の子であった世阿弥に出会った。まさに歴史を変えた場所。それ以後、世阿弥は義満の近くで稚児として過ごしている。
建仁寺
美しい絵と庭 道元の痕跡
銀閣寺(東山慈照寺)
美しい
京都散歩
京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。
西芳寺
苔寺
地蔵院(竹の寺)
地蔵院 一休さんが六歳まで過ごしていたとのこと。建仁寺、地蔵院など足利家に関わる寺で育てられていた一休さんは、ある時期その様な状況から離れる事を決意している。その結果金銭的に恵まれた世界から離れ京都で
豊国廟
豊臣秀吉公の墓
御寺 泉涌寺
泉涌寺 鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以降幕末の孝明天皇に至る歴代天皇・皇族の陵墓があり、皇室の菩提寺として御寺(みてら)と呼ばれている。 御座所が特別公開されており、天智天皇からの歴代天皇の御位牌を祀る御座所にお参りすることができました。 もちろん撮影禁止。庭だけの写真となります。 先日、上皇様が来られた時もここに立ってお写真をお撮りになっていたとのこと。
東福寺
東福寺 Wikipediaによると、延長2年(924年)に藤原忠平によって建てられた藤原氏の氏寺。嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。
京都散歩
京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。
松尾大社
松尾大社 平安建都の際、冬至の日入 の方向には松尾神社が建てられたと言われている。また冬至の日出 の位置にあり 、冬至の日の太陽はここから上るように見える位置に将軍塚が平安建都の際 、王城鎮護のため粘土で作った武将像を西方 を向かせて埋めた 、と伝えられる。平安建都に深く関わった和気清麻呂の墓は 、夏至の日の日入 の位置となる神護寺にある 。将軍塚と和気清麻呂の墓の直線上に平安京遷都時の内裏(現在の京都御所の西側になる)がある。ちなみに、夏至の日出 には下鴨神社が建てられている、と言われている。
鈴虫寺(華厳寺)
鈴虫寺 鈴虫寺では、この時期生きた鈴虫の音色を聴きながら坊さんの説教を聞けるとは思いませんでした。 それにしても説教が人気らしく若い女性で満員。30分ごとの説教と見学ですが、この時期、列が絶えない。
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