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勝竜寺城下町・長岡京をめぐる
まいどまいど! 京都の長岡京市といえばかつての日本の中心地「長岡京」としても有名で隣接する向日市や京都市と同様、長岡京当時の遺構やそれに関連する歴史が各地に点在してはります。 駅前には長岡京発見の地と題した石碑が建立され、長岡京の詳細が刻まれておます。 駅から少し歩いた場所には勝竜寺城跡を中心とする公園が整備され、自由に見学することができますねん。 緑豊かな園内には池があり、鯉が優雅に泳ぐそのそばには博物館。 特に2階は城や長岡京に関する歴史が展示されておます。 その他、周辺には遺跡や古墳が点在し、歴史にロマンを感じることができまっせ。 小畑川と犬川に挟まれた低位段丘上に立地する旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡・神足遺跡。 弥生時代には環濠があり、内側には多数の竪穴建物や高床倉庫が立ち並んでいたとか。 遺物には石鏃、石剣などの磨製石器が見られ、集落内には石器の工房があったとも。 隣接する神足神社には陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 馬の池公園にはかつて湧き水と三角の形をした小さな池があった。 小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。
サントリービール 京都工場
主力商品「ザ・プレミアム・モルツ」や「スタイルフリー」などを製造するサントリーのビール工場。 工場見学(無料・事前予約制)では、製造工程見学を通じて、天然水にまでこだわるビールづくりや、おいしさの秘密を学ぶことができる。 見学後は試飲もできる。
調子八角の道標
調子八角は西国街道と丹波街道の分岐点にあたる。 愛宕詣へと向かうための道案内として作られた。 道標には西国街道を「あたご道」、丹波街道を「たんば道」と表記。
調子馬ノ池公園
公園内には地下水100%の水道水供給施設やため池がある。 ため池はかつての馬ノ池を再現したもの。 馬の銅像は長岡京市の友好都市である中国の寧波市から寄贈された。 中国の諺で「馬到成功」とあり、名馬が来ると必ず事業が成功を収めるとされる縁起もの。
馬ノ池跡
地下水100%の水道水供給施設。 かつて当地に湧き水と三角の形をした小さな池があった。 一説によると小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。
硲遺跡
硲遺跡は小泉川左岸の扇状地から段丘上に立地する弥生時代の集落遺跡。 発掘調査により、竪穴住居や土坑、溝などが発見された。 土坑群の一つから、日本独自に発展した鐘のように音を鳴らす青銅器の銅鐸形土製品、骨や木の棒の舌形土製品が発見された。 当時は祭祀に使用されたとも。
神戸居留地で今も残るモダンな町並みを楽しむ旅
まいどまいど! 神戸と言えば、六甲山頂付近などから眺める百万ドルの夜景の町は全国的に有名でんねん。 そんなオシャレなまち神戸の一つとして象徴するのが、今も残る近代建築物。 一般的にはモダニズム建築(モダン建築)とも言われてまんねやけど、その洋風なデザインが注目を浴びてまんねん。 なかでも、モダニズム建築が集まるエリアが海岸通付近。 すぐ近くには海外との貿易が盛んな神戸港があり、神戸の北野とともに、外国人居留地の町として発展してきました。 神戸港の前身は大阪港。 元々、大阪市西区川口に港があり、海外との貿易が盛んで、外国人居留地「川口居留地」としてのにぎわいを見せていました。 ある日、時代と共に大型船も行き来するようになりましてんけど、浅瀬であったかさい、大型船が入港できへん事態に。 そこで、注目を集めたのが神戸港。 大阪からも近く、コンテナの取扱個数は一時、世界一でおました。 今も海外との貿易が盛んな神戸には魅力がぎょうさんおまっせ。 今回はその一部だけやおますけど、モダニズム建築物を中心に紹介していきまひょ! まずは、南京町やハーバーランドなど、近くに寄ったついでに、ぜひ!
オリエンタルホテル跡
1870年、オランダ人のG・ファン・デア・フリースにより日本最古級の西洋式ホテルとして開業。 1887年、フランス料理店「レストラン・フランセーズ」オーナー・フランス人のルイ・ベギューの所有となって移転。 1897年、アーサー・ヘスケス・グルーム、エドワード・ハズレット・ハンターらが所有。 日露戦争前、ロシア陸軍大臣クロパトキン将軍一行は宿泊。 1907年、当地に移転。 建築家ゲオルグ・デ・ラランデとヤン・レッツェルが共同設計。 当時、日本最高のホテルの一つとも。 ブランド「神戸ビーフ」を世界に広めた施設の一つとも。 1945年、神戸大空襲で焼失。 1948年、営業を再開。
海岸通
1871年、宇治川と鯉川との間に道路が完成し、海岸に面していた事から「海岸通り」と命名。 1872年、神戸外国人居留地内の東西5本、南北8本の道路のうち、最南端の東西通が「海岸通」と命名。 かつて神戸海岸通と呼ばれていた。 1930年代、香港上海銀行、海岸ビル、商船三井ビル、オリエンタルホテル、神港ビル、チャータード銀行など石造建築が立ち並んだ。 1870年、政府が居留外国人のために海岸遊園地を設置。
神戸海軍操練所・陸奥宗光顕彰碑
1858年、江戸で安井息軒に師事するも、吉原通いが露見して破門。 水本成美に学び、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持った。 1863年、泊園書院(関西大学)で学び、勝海舟の神戸海軍操練所に入った。 1867年、坂本龍馬の海援隊(亀山社中)に参加。 龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こした。
勝竜寺城下町・長岡京をめぐる
まいどまいど! 京都の長岡京市といえばかつての日本の中心地「長岡京」としても有名で隣接する向日市や京都市と同様、長岡京当時の遺構やそれに関連する歴史が各地に点在してはります。 駅前には長岡京発見の地と題した石碑が建立され、長岡京の詳細が刻まれておます。 駅から少し歩いた場所には勝竜寺城跡を中心とする公園が整備され、自由に見学することができますねん。 緑豊かな園内には池があり、鯉が優雅に泳ぐそのそばには博物館。 特に2階は城や長岡京に関する歴史が展示されておます。 その他、周辺には遺跡や古墳が点在し、歴史にロマンを感じることができまっせ。 小畑川と犬川に挟まれた低位段丘上に立地する旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡・神足遺跡。 弥生時代には環濠があり、内側には多数の竪穴建物や高床倉庫が立ち並んでいたとか。 遺物には石鏃、石剣などの磨製石器が見られ、集落内には石器の工房があったとも。 隣接する神足神社には陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 馬の池公園にはかつて湧き水と三角の形をした小さな池があった。 小倉神社の祭りの際、稚児を乗せる馬を清めたとも。
神足神社
祭神は、産土神、舎人親王。 社名「神足」は「神の足」と表記されるため、陸上選手やサッカー選手など多くのスポーツ選手が参拝に訪れるとも。 800年頃、桓武天皇は夢の中で、田村(神足村の前身)の池に神が降臨し、宮中を南方から襲撃しようとした悪霊を防いだところを目撃。 それが縁で、田村に社を建てた。
勝竜寺城公園
公園として整備された市民の憩いの場。 かつて当地には勝竜寺城が存在した。 城名は勝龍寺に由来。 勝龍寺城は小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通の要衝で、京都では山崎城につぐ防衛拠点であった。 1339年、南朝方に対抗する北朝方の細川頼春が築城。 一説によると山城守護畠山義就が郡代役所として築城。 1470年、軍事施設して使用された。 淀古城と共に松永久秀、三好三人衆の属城となった。 観音寺城の戦いで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する前に柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友通が守る勝龍寺城を攻撃させた。
勝龍寺
平安時代 、空海(弘法大師)によって開基。 元の寺号は恵解山青龍寺。 観音堂を始め九十九坊が建てられたとも。 大干ばつ大飢饉の年、住職千観上人の祈祷で雨が降り、龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名。 付近に築城された勝龍寺城の由来ともなった。
勝龍寺城大門橋
勝龍寺城は1339年、南北朝時代後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出し、京を窺う情勢であった。 北朝方の足利尊氏は細川頼春(細川氏遠祖)とその弟師氏に命じて、京を守るために前戦基地として勝龍寺に土塁を持って周囲を囲む城塞を築いた。 784年、宇波多川(小畑川)は向日市から東流し、京都府伏見区で合流。 その河道を西南に移動して勝龍寺域の外堀の役目を果たしながら、大山崎町で桂川に合流させる河川工事を担当したのが弟の細川師氏。 1571年、織田信長の許可を得て細川藤孝(幽斎)は鉄砲戦術に対抗するため総構を拡張。 大手門、搦手を構築。 大手門に架かる橋を大門橋と呼んだ。
長岡京市立中山修一記念館
考古学者、歴史地理学者として活躍した。 1915年、生まれ。 長岡京の調査・研究等に携わったことから「長岡京発見の父」とも。 長岡京跡発掘調査研究所所長、京都文教短期大学名誉教授などを歴任。
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