休日の選択肢を広げる総合おでかけ情報サイト
7年に一度、長野善光寺御開帳に行ってきました。行く前に立てた計画はほぼ完遂。それどころか「せっかく」の掛け声の号令とともにあれもこれも追加され、結果いつもの濃厚ないきあたりばったりの旅となりました。
あかん!奈良、ごっつおもろすぎる!
まいどまいど! 日本を代表する観光都市の一つといえば奈良県やおへんでっしゃろか。 奈良県には東大寺や法隆寺など聖徳太子ゆかりの寺院仏閣をはじめ、奈良公園やその周辺に生息する鹿とのふれあいは全国的にも珍しい。 ほんでそれだけやおまへん。 兵庫県の「揖保乃糸」のライバルともいうべき三輪そうめんは奈良名物の一つ。 桜井市やその周辺で製造販売され、お土産にもおすすめ。 また、いにしえの時代、卑弥呼らが活躍したとされる邪馬台国がここ奈良県に存在したとされ、遺跡も保存、展示されてまんねん。 そして付近には酒の神様として大神神社、相撲ゆかりの地として相撲神社も鎮座。 古き良き日本の文化の原点にタイムスリップしたかのような錯覚に。 その他、大和郡山市では金魚の繁殖が盛ん。 町のいたるところで金魚にまつわる展示があり、見る人の目を楽しませてくれはりまんねん。 奈良には天理ラーメンや柿の葉寿司など知る人ぞ知る名物もぎょうさんおまっせ。 で、なんや奈良っちゅう場所は竹取物語・かぐや姫伝説にゆかりがあるんやそうで、かぐや姫の立派な像が観光客を出迎えてくれまんねん。 奈良には驚きと発見がいっぱい。
タニタ食堂 高井病院
外科や内科、眼科、歯科口腔外科、放射線科など地域の総合病院の一つ高井病院。 病院内にはタニタの社員食堂のレシピを忠実に再現したタニタ食堂が営業。 タニタとは「乗るだけで計測できる体脂肪計」世界初「家庭用体脂肪計付ヘルスメーター」などを製造販売する計測器の大手メーカー。 タニタ食堂とは2012年、ビジネスの中心地、丸の内から日本を元気にしていきたいという思いからオープン。 タニタ食堂は東京・丸の内、岡山、北九州、福岡にあり、関西地域では当地のみ。 メニューは日替わり定食やカレーライスなど。 日替わり定食の場合、一食で約500kcal。 厚生労働省が示した野菜摂取量の一日の目標は350g。
大和神社
祭神は日本大国魂大神、八千戈大神、御年大神。 倭大国魂神は元々、大地主大神として天照大神とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた。 世の混乱は両神の勢いの為であると畏れられた。 崇神天皇は神威を恐れ、天照大神を皇女豊鋤入姫命に命じて大倭国の笠縫邑に移して祀り、倭大国魂神は皇女渟名城入姫を斎主として宮中の外で祀らせた。 淳名城入姫は髪が落ち、体は痩せて祭祀を続けることが困難に。 倭迹迹日百襲姫命は夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。 倭迹迹日百襲姫命・大水口宿禰・伊勢麻績君らも同じ夢を見た。
神籬(ひもろぎ)遺跡
神籬は神道において神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、神を迎えるための依り代となるもの。 古来、自然の山や岩、木、海などに神が宿っているとされ、信仰の対象としてきた。 古代、神道では神社を建立、社殿の中に神は祀ることはなく、祭りの時々には神を招いて執り行った。 その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち、神籬と呼ばれた。 次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになった。 形式は八脚台の上に枠を組み、榊の枝を立て、紙垂と木綿を付けたもの。 「ひもろぎ」(「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意)。
纒向遺跡
纒向遺跡は古墳時代の大規模な集落遺跡として知られる。 日本最初の「都市」とも。 纒向遺跡辻地区では複数の掘立柱建物跡の他、桃の種が出土した大型土坑などが発掘調査により確認された。
箸墓古墳
別名、箸中山古墳。 大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳。 形状は前方後円墳。 実際の被葬者は不明であるが、宮内庁では第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命として管理。 倭迹迹日百襲姫命とは、崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹。 一説によると邪馬台国の女王卑弥呼とも。 ため池「箸中大池」はため池百選に選定。 百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来。
土舞台
土舞台は聖徳太子が深くかかわったとされ、のちに日本芸能の発祥の地として知られている。 古代チベットやインドの仮面劇として知られる伎楽は西域を経て中国に伝わった。 その舞は滑稽卑俗な類のものとされた。 土舞台は日本最初の国立劇場で、聖徳太子は国立演劇研究所をも併設して芸能文化のため尽くされたとした。
天理スタミナラーメンを食べながらお笑いを堪能
まいどまいど! 奈良県天理市はテレビコマーシャルなどでおなじみの奈良健康ランドがあり、大和温泉を堪能することができまんねん。 また、パフォーマンスステージでは笑いの殿堂・なんばグランド花月で人気の吉本新喜劇が演目に。 身近にお笑いを楽しむことができまっせ。 ほんでまた、天理市にはスタミナラーメンの発祥の地。 市内各所には天理スタミナラーメンの看板を掲げたラーメン店があり、行列が絶えまへんな。 健康ランドの温泉とお笑いでほっこりして、ラーメンを食して楽しもう! ほんでまた市内には戦艦ヤマトにゆかりのある大和神社が鎮座。 日本海軍の軍艦の一つである大和は当社が由来となっているという。 境内には戦艦大和展示室があり、1945年に活躍した日本海軍の戦艦大和に関する歴史や模型、資料などが展示、保存されている。 さらに最近注目を集めるタニタ食堂が高井病院にあり、病院内にはタニタの社員食堂のレシピを忠実に再現したタニタ食堂が営業してはりまんねん。 ほな、いっぺん、食べにいきまひょか。 奈良県内の歴史や芸術、食などの文化と触れあうことができる道の駅もおまっせ。
天理駅
西日本旅客鉄道(JR西日本)桜井線(万葉まほろば線)、近畿日本鉄道(近鉄)天理線の停車駅の一つ。 別名、天理総合駅。 1898年、奈良鉄道(桜井線)の丹波市駅として開業。 1905年、関西鉄道の駅となる。 関西鉄道が国有化、官設鉄道の駅となり桜井線の所属となる。 1963年、天理市駅に改称後、1965年に天理駅に改称。 1987年、国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道(JR西日本)となる。 1915年天理軽便鉄道(近鉄天理線)天理駅が開業。 1921年、天理軽便鉄道が大阪電気軌道(大軌)となり、天理鉄道線となる。 1941年、大軌が参宮急行電鉄と合併、大軌天理駅が関西急行鉄道(関急)の駅となる。
天理駅前広場コフフン
2017年、佐藤オオキ率いるnendoデザインによる駅前広場が完成。 愛称はコフフン(古墳をイメージしたオブジェクトが設置されたことから)。 また広場内には天理市内で出土した海獣葡萄鏡の複製と看板も。 中国の唐の時代、鏡背を葡萄唐草文と禽獣文で飾る鏡。 唐草文は植物の茎や蔓を表した文様で、西アジアから中国に伝来。 鈕は伏せた形の獣で、4頭の海獣を並べている。 海獣は海外の理想郷に住む想像上の獣「猊(さんげい)」のことで、獅子に似た姿をしている。 外側には12羽の鳥と2匹の蝶が配されている。
田井庄池公園
田井庄池を中心とした公園。 園内には遊具やベンチなどが設置されており、市民の憩いの場となっている。 また日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計したD51形蒸気機関車が常時展示されている。 1942年に製造、1971年に廃車となった。 現役引退までの総走行距離は約167万5219km(地球約42周)。 木造客車「オハ61 930」は大正時代に製造され、1955年に鋼製客車として改造された。
稲田酒造合名会社
黒松稲天、大和高原 氷室のさとなどを醸造、販売する酒蔵。 1877年、稲田源治郎氏は天理教初代管長中山眞之亮氏より「稲の花」の名を授かり、天理教御神酒として醸造開始。 稲田政兵衛氏が天理教二代真柱中山正善様より「いなてん」の名を授かる。 1949年、稲田源司氏が稲田酒造合名会社を設立。 1970年、当社の酒粕を活かした奈良漬けの製造を開始。 全国新酒鑑評会にて9BY「黒松稲天大吟醸酒」が金賞受賞。
石上神宮
別名、石上振神宮、石上坐布都御魂神社、石上布都御魂神社、石上布都大神社、布留社、岩上大明神、布留大明神など。 日本書紀に記された神宮は伊勢神宮と石上神宮のみで、日本最古設立の神宮となる。 祭神は布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命。 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座。 古代軍事氏族の物部氏が祭祀、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たした。 布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使用された剣、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れて入手)を通して天皇の元に渡った。
東京駅周辺を一周する日帰り旅
まいどまいど! 日本の中心地っちゅうたら、やっぱり、世界の東京でっしゃろか。 まわりの多くは、関東弁。 まちには関東弁であふれかえってまんねやけど、やっぱり、方言っちゅうもんが一番、よろしいでんな。 さて、駅構内にあるエスカレータも関西(大阪や兵庫など)とは違って、左側に立ち、時々は戸惑いながらも、珍しい別世界の日常がそこにはおました。 東京駅構内にはぎょうさんのお店が立ち並んでおまして、見どころもたくさん。 東京駅構内には様々な飲食店、雑貨店、お土産専門店があり、地下街にはラーメンストリートやキャラクターストリート、周辺の大丸百貨店や八重洲地下街へと接続。 1日ではすべてはまわることはできへんかもしれまへんけども、それだけのおもろさが詰まってまんねん。 ほんでまた、東京の歴史は、大阪を中心とする関西が動かしてきたっちゅうても、過言やおまへん。 でも、そんな東京にも楽しみがいっぱい。 頭の片隅に関西を思いつつ、東京観光を満喫しまひょ!
iiyo!! (イーヨ!!)
iiyoは商業施設。 永楽小径は休憩所。 敷地内にはベンチなどが設置されている。 かつて当地には備前岡山藩池田邸、越後長岡藩牧野邸、肥後宇土藩細川邸等の大名屋敷があった。 町名「永楽町」の由来は銭瓶橋を銭替橋といい、永楽銭の両替をした場所であったという説、永楽銭が発掘されたという説、1591年、伊勢に住む与市が風呂を作り、入湯料永楽銭1文で営業していたという説がある。 町の西は「辰之口」、東は「呉服橋御門内」と呼ばれた。 和田倉門橋と馬場先門橋の間にあった和田倉濠の河岸は「八重洲河岸」と呼ばれた。 1872年、起立、東京上等裁判所、陸軍兵学寮、紙幣寮等があった。
伝奏屋敷跡
伝奏屋敷は武家伝奏の宿舎として設置された屋敷のことで、勅使・院使など伝奏衆が宿泊した。 1636年、伝奏屋敷の隣には評定所の建物があり、江戸幕府の最高司法機関にあたる。 三奉行(勘定奉行、寺社奉行、町奉行)が裁定できないような重大事件を扱っていたとか。
電話交換創始之地
1890年、電話事業に関する最初の法令「電話交換規則」が公布され、東京と横浜に電話交換局が設置。 東京市内及び横浜と東京間で電話交換が開始された。 当初、横浜電話交換局は4名が電話交換に対応。 東京市の加入者は155人、横浜市の加入者は42人で、電話所(公衆電話)数16。 市内通話の料金は年間45円の定額制であったとか。
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