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あかん!大阪、ホンマおもろすぎる!
まいどまいど! 決して自分を飾らへん、素のままで、ちょいと?めっちゃ?下品なところもあるねんけど、どこか憎まれへん、嫌いにはなられへん、そんなとこが、大阪の魅力であったりせえへんやろか。 今日も大阪の街には「なんでやね~ん!」「あかーん!」などの「大阪弁の大阪弁による大阪弁を強調したボケとツッコミ」にあふれ、にぎわおうてんねんけど、人情の街・大阪には、人だけやなく、大阪のまちそのものがおもろかったりするねんで~。 最近では、全国的・世界的に不況や自然災害や事件や事故など、なんや暗い情報がぎょうさん飛び交うてんねんけど、そんな時やからこそ、大阪という「商都=笑都」から、日本をそして、世界を元気に変えていく! 心の底から大阪で観光を楽しめたら、それはそれで大成功とちゃいまっか? 現在、国内外問わず全世界から観光地として再び注目を集め、ぎょうさんの人でにぎわっている場所。 今回は、数日間だけでも、いや、一日でも、いや、たったの数時間でも十分に楽しめる大阪の「おもろいもん・おもろいとこ」だけを集めまてみましたので、ぜひ、参考にしておくれやっしゃ~。 ほな、まいどおおおきに~!
明治の森箕面国定公園
「富くじ」または「宝くじ」発祥の地として知られている箕面市。 ここでは、もみじの天ぷらが名物で紅葉の名所・箕面公園とその奥にある箕面大滝へ続く遊歩道沿いに店舗が並ぶ。 手作業で紅葉の天ぷらを鍋で揚げている。 かりんとうのような歯ごたえが特徴で600年代、役行者が箕面の山で修行していた時、紅葉の美しさに魅せられ、天ぷらにして旅人に振舞ったことが始まり。 葉は赤色ではなく、「一行寺かえで」と言われる黄色が特徴の品種で、水洗い後、塩水に1年浸してアクを抜き、塩抜きしてから小麦粉、砂糖、ゴマを加えた衣をつけて菜種油で揚げる。 手間暇けてつくられたもみじの天ぷらは一袋300からで販売。
石切参道商店街振興組合
東大阪市は「ラグビーのまち」「モノづくりのまち」として知られている。 見た目は天ぷら。 食べてみると、よもぎらしい風味が漂うが、独特の匂いや苦味はなく、あっさりしていた。 よもぎには、血液をサラサラにする効果があると言われているとか。
龍眼寺
別名、生駒の荒神さん。 妙久法尼によって開基。 妙久法尼は四国巡錫中、虚空蔵菩薩様が現れ、「生駒の山に龍の住む山あり。供養すべし」と霊示を受け、生駒の山に登り、当地にたどり着いたとか。 そこでは、護摩供養を続けていると不思議と水が湧いた。 八面六臂の三寳荒神様が現れ、「龍の眼を持って世の中を見渡し、衆生の苦悩を救わん」と説いたという。 以後、寺号を龍眼寺とし、本尊を虚空蔵菩薩様に、鎮守を三寳荒神様とした。
楠喜
本格的な手打ちそばを味わうことのできる専門店。 1893年、お茶の専門店として創業。 1985年、手打ちそば・うどん店を併設。 大正時代から続く大阪・八尾の伝統野菜の一つ「若ごぼう」の葉を使用した「葉ごんぼそば」は2月上旬から4月下旬にかけての期間限定で販売。 葉ごんぼそばは、粉にした葉が練りこまれているといい、ほろ苦い味が伝わってくる。 日本でもここだけにしかないという八尾産の葉ごんぼそばはまさに地産地消。
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
履中天皇陵
古事記によると、 “履中天皇は御年六十四歳、壬申の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、履中天皇陵。
柴籬神社
反正天皇 (はんぜいてんのう) 古事記によると、 “弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比の柴垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、多治比の柴垣の宮跡にある柴籬神社。
反正天皇陵
古事記によると、 “反正天皇は御年六十歳、丁丑の年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
明日香村
三、允恭(いんぎょう)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 "弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の遠つ飛鳥の宮があった明日香村を甘樫丘から眺めた風景。 允恭天皇が初めて飛鳥に宮をおいた天皇と言われている。
允恭天皇 恵我長野北稜拝礼所
古事記によると、 “天皇御年七十八歳、甲午の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長枝にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 (2019年4月)
石上神宮
四、安康(あんこう)天皇 マヨワの王の變 古事記によると、 “御子のアナホの御子(安康天皇)、石の上の穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、石の上の穴穗の宮があったとされる石上神宮。
安康天皇菅原伏見西陵拝所
古事記によると、 “マヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢みになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、安康天皇陵。
雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地
五、雄略(ゆうりゃく)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 大和の長谷の朝倉の宮の伝説の地として2箇所の候補があります。 1つは、白山神社建立されている場所、 もう一つは、脇本遺跡のあるあたりです。 どちらも国道165号線沿いにあります。 写真は、白山神社
脇本遺跡(雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地)
写真は、2つ目の候補地である脇本界隈にある春日神社。こちらが本命のようです。
春日神社
ワカクサカベの王 古事記によると、 “初め皇后樣が河内の日下においでになつた時に、天皇が日下の直越(ただごえ)の道を通つて河内においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 生駒山を越える古道である直越(ただごえ)は、まさに神武天皇が白肩の津より生駒山を登った道です。 その河内側の古戦場でもある直越の道の河内側の入り口に春日神社があります。
宮滝遺跡
吉野の宮 古事記によると、 “天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。” なお、ここは神武天皇東征で仮宮が建てられた場所であるとも言われている。 また、吉野の宮の周辺での出来事を歌で詠んでいます。 古事記によると、 “吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻が御腕を咋いましたのを、蜻蛉が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、(中略)この大和の國を蜻蛉島というのだ”
葛城一言主神社
葛城山 古事記によると、 “「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、その葛城の一言主の大神を祀る葛城一言主神社。 葛城の一言主の大神が住んでいた場所に建てらたのではないかと言われている。
隼人塚古墳(雄略天皇陵陪塚い号)
雄略天皇
河内大塚山古墳
雄略天皇陵が前方後円墳でない事が判明してから、ここ大塚山古墳が雄略天皇陵であるとの話がある。 古事記によると、“天皇は御年百二十四歳、己巳の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比の高鸇にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
御厨子神社
六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇 清寧天皇(せいねいてんのう) 古事記によると、 “御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮跡には現在、御厨子神社がある。
角刺神社
古事記によると、 “この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。(中略)そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮跡に祀られる角刺神社
清寧天皇陵古墳
清寧天皇陵
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
住吉大社
墨江の舟つき跡 船玉神社がある。 写真は、住吉大社内にある船玉神社。
御津八幡宮
皇后石の姫の命 古事記によると、 “そこで皇后樣が非常に恨み、お怒りになつて、御船に載せた柏の葉を悉く海に投げ棄てられました。それで其處を御津の埼と言うのです。(中略)かように歌つてお還りになつて、しばらく筒木の韓人のヌリノミの家におはいりになりました。(中略) 天皇は「それではわたしも不思議に思うから見に行こう」と仰せられて、大宮から上つておいでになつて、ヌリノミの家におはいりになつた” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、御津の埼跡にある御津八幡神社。
大住車塚古墳
筒木の韓人のヌリノミの家があったとされる大住車塚古墳周辺。 写真は、大住車塚古墳。
倉橋
ハヤブサワケの王とメトリの王 古事記によると、 “(仁德)天皇はこの歌をお聞きになつて、兵士を遣わしてお殺しになろうとしました。そこでハヤブサワケの王とメトリの王と、共に逃げ去つて、クラハシ山に登りました。(中略)それから逃げて、宇陀のソニという處に行き到りました時に、兵士が追つて來て殺してしまいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 クラハシ山には、現在、倉橋神社が祀られている。 写真は、倉橋山
門僕神社
宇陀のソニは、奈良県宇陀郡曽爾村。 写真は、奈良県宇陀郡曽爾村にある門僕神社(かどふさ)
姫嶋神社
雁の卵 古事記によると、 “また或る時、(仁德)天皇が御宴をお開きになろうとして、姫島においでになつた時に、その島に雁が卵を生みました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、姫嶋神社
等乃伎神社
枯野という船 “この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切つて船に作りましたところ、非常に早く行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。(中略)この船が壞れましてから、鹽を燒き、その燒け殘つた木を取つて琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に、 船のカラノで鹽を燒いて、 その餘りを琴に作つて、 彈きなせば、鳴るユラの海峽の 海中の岩に觸れて立つている 海の木のようにさやさやと鳴り響く。 と歌いました。”
御井の清水
写真は、淡路島の清水である御井の清水。
友ケ島水道
ユラの海峽と言われている由良の海, 友ケ島水道。
大仙(仁徳天皇陵)古墳
“仁德天皇は御年八十三歳、丁卯の年の八月十五日にお隱れなさいました。御陵は毛受の耳原にあります。”
稚櫻神社
二、履中天皇・反正天皇 履中天皇とスミノエノナカツ王 古事記によると、 “御子のイザホワケの王(履中天皇)、大和のイハレの若櫻の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和のイハレの若櫻の宮跡にある磐余の邑(いわれのむら)にある現在の稚櫻神社。
石上神宮
古事記によると、 “スミノエノナカツ王が惡い心を起して、(難波宮の)大殿に火をつけました。この時に大和の漢の直の祖先のアチの直が、履中天皇をひそかに盜み出して、お馬にお乘せ申し上げて大和にお連れ申し上げました。そこで河内のタヂヒ野においでになつて、(中略)ハニフ坂においでになつて、難波の宮を遠望なさいましたところ、火がまだ燃えておりました。(中略)かくて二上山の大坂の山口 (中略) 當麻路から𢌞つて、(中略)石の上の神宮においで遊ばされました。”
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
仁徳天皇難波高津宮跡
古事記下の巻 一、仁徳天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホサザキの命(仁徳天皇)、難波の高津の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 難波の高津の宮の所在地には幾つか説があります。 写真は、その内の1つで大阪城の南側にある難波宮大極殿跡
茨田堤
聖の御世 古事記によると、 “この御世に大陸から來た秦人を使つて、茨田の堤(うまらだ)、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅の江を掘り、墨江の舟つきをお定めになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、淀川沿いに築かせたとされる茨田(うまらだ)の堤。 堤根神社(つつみねじんじゃ)が、茨田堤の鎮守として創建された、と言われている。 下記写真は、その堤根神社の裏にある茨田の堤。
広大寺池
丸邇(わに)の池 丸邇(わに)の池は、その後消えてしまい、後に聖徳太子が関わった事業として今の広大寺池が構築されたようです。 帯解駅の西にあります。
依網池址
依網(よさみ)の池跡には依網公園があります。
中之島公園
難波の堀江(なにわのほりえ) 水路(または運河)として構築。 Wikipediaによると、 堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されています。
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