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古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
雄略天皇 丹比高鷲原陵(島泉平塚古墳)
古事記によると、 “天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇(雄略天皇)を深くお怨み申し上げて、天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀ろうとお思いになつて人を遣わしました時に、兄君のオケの命の申されますには、「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」と申し上げました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
顯宗天皇 傍丘磐坏丘南陵
古事記によると、 “顯宗天皇がお隱れになつてから、オケの命が、帝位にお即きになりました。御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏の岡の上にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、顯宗天皇綾。
姫丸稲荷大明神
仁賢天皇 古事記によると、 “ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石の上の廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の石の上の廣高の宮跡伝承の地。現在、平尾山稲荷神社があります。
仁賢天皇 埴生坂本陵
仁賢天皇陵
恵比寿神社・十二柱神社
七、武烈(ぶれつ)天皇以後九代 武烈天皇 古事記によると、 “ヲハツセノワカサザキの命(武烈天皇)、大和の長谷の列木の宮においでになつて、八年天下をお治めなさいました。この天皇は御子がおいでになりません。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 大和の長谷の列木の宮の跡には、十二柱神社が祀られている。
武烈天皇陵
古事記によると、 “御陵は片岡の石坏の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇(応神天皇)の五世の孫、ヲホド(繼體天皇)の命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。”
継体天皇磐余玉穂宮跡
繼體(けいたい)天皇 古事記によると、 “ホムダの王(応神天皇)の五世の孫のヲホドの命(繼體天皇)、大和の磐余(いわれ)の玉穗の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、奈良県桜井市池之内 継体天皇磐余玉穂宮跡。
国指定史跡 岩戸山古墳
古事記によると、 “この御世に筑紫の君石井(いわい、磐井)が皇命に從わないで、無禮な事が多くありました。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させました” 抜粋:: 稗田の阿禮、太の安萬侶 “古事記: 現代語譯 古事記”。 iBooks https://itun.es/jp/dtKYH.l 所謂、磐井の乱として伝わる朝鮮半島南部の利権を巡る戦い。ヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと見られている(Wikipedia)。 写真は、被葬者は、6世紀初頭に北部九州を支配した筑紫君磐井(筑紫国造磐井)と考えられている岩戸山古墳。
継体天皇 三嶋藍野陵(太田茶臼山古墳)
古事記によると、 “繼體天皇は御年四十三歳、丁未の年の四月九日にお隱れになりました。御陵は三島の藍の陵です。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、宮内庁が管理している継体天皇陵。
金橋神社
安閑(あんかん)天皇 古事記によると、 “御子のヒロクニオシタケカナヒの王(安閑天皇)、大和の勾(まがり)の金箸(かなはし)の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。この天皇は御子がございませんでした。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 現在、金橋神社がある。
安閑天皇古市高屋丘陵
古事記によると、 “(安閑天皇)乙卯の年の三月十三日にお隱れになりました。御陵は河内の古市の高屋の村にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、安閑天皇綾。
於美阿志神社
宣化天皇 古事記によると、 “弟のタケヲヒロクニオシタテの命(宣化天皇)、大和の檜隈(ひのくま)の廬入野(いおりの)の宮においでになつて、天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、檜隈(ひのくま)の廬入野(いおりの)の宮跡に祀られている美阿志神社。
宣化天皇陵
宣化天皇陵
欽明天皇磯城島金刺宮跡
欽明天皇 古事記によると、 “弟のアメクニオシハルキヒロニハの天皇(欽明天皇)、大和の師木島の大宮においでになつて、天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の師木島の大宮跡.
欽明天皇陵
欽明天皇陵
大和戒重陣屋跡
敏達(びだつ)天皇 古事記によると、 “御子のヌナクラフトタマシキの命(敏達天皇)、大和の他田(おさだ)の宮においでになつて、十四年天下をお治めなさいました。”
敏達天皇 河内磯長中尾陵
古事記によると、 “敏達(びだつ)天皇は甲辰の年の四月六日にお隱れになりました。御陵は河内の科長にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
石寸山口神社
用明(ようめい)天皇 古事記によると、“弟のタチバナノトヨヒの命(用明天皇)、大和の池の邊の宮においでになつて、三年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、池の邊の宮があったとされる場所にある石寸山口神社。
さぬき高松うどん駅から出発!
まいどまいど! 最近のうどんブームにより注目を集めている香川県高松市。 高松市内の中心部に位置する高松駅は通称、さぬき高松うどん駅とも呼ばれ、周辺にはうどんを販売するお店がずらりとおまっせ。 食べ比べするもよし。 のんびり観光するもよし。 のんびり観光を楽しむなら駅前にある高松シンボルタワー内の観光案内所で情報収集がおすすめでんねん。 ここでは、高松市内はもちろん、香川県やその周辺の観光案内や情報発信などを行ってまんねん。 特に高松城址周辺に整備された玉藻公園では現在、天守はないものの、月見櫓、艮櫓、水手御門、渡櫓などが現存。 桜の馬場は桜の名所として知られまんねん。 また、国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園(日本庭園)として知られる栗林公園もおすすめ。 紫雲山の麓に所在しているため、紫雲山を背景として池と築山を配する。 園内ではカエデ、ツツジ、マツ、ウメ、サクラ、ハス、ショウブ、ハギなどが植樹され、四季折々の景観を楽しむことができまっせ。
サンポート高松
香川県高松市の高松港を構成する再開発地区の名称、および施設群の総称。 かつて高松貨物駅が存在した。 1999年、瀬戸の都として再開発。
高松港玉藻防波堤灯台(赤灯台)
愛称、赤灯台。 1964年、初点灯。 海上保安庁第六管区海上保安本部が管轄する塔高は14.2m。 設計は、日本航路標識協会。 当初、高松港西防波堤灯台として防波堤に設置されたが、サンポート高松に伴う港湾事業によって改築移設。 1998年、現在地で初点灯。 世界初の総ガラス張りの灯台。 1999年、第6回空間デザインコンペティション銅賞を受賞。
高松シンボルタワー
香川県高松市で高松港を中心とするサンポートに所在する超高層ビル。 2004年、高松貨物駅跡地に建設され、高さは約151.3m。 四国地方で最も高い建築物で商業施設、イベントホールなどを擁する複合商業施設として竣工。 建設当時、中四国一の高さであった広島市のNTTクレド基町ビル(約150m)を超えるために計画されたが、広島市のアーバンビューグランドタワーの竣工に伴い、「中四国一」の称号は得られなかった。
栗林公園
国の特別名勝に指定された回遊式大名庭園(日本庭園)。 紫雲山の麓に位置、紫雲山を背景として池と築山を配する。 園内では楓、ツツジ、松、梅、桜、蓮、菖蒲、ハギ等が植樹。 1600年代、生駒氏の家臣・佐藤道益の居宅の作庭。 1642年、高松藩初代藩主・松平頼重は栗林荘に御殿を建設。 1745年、第5代藩主頼恭が名所60景を撰名、作庭が完成。 1869年、版籍奉還により栗林荘が官有となる。 1875年、公園となった。 以後、皇太子(大正天皇)、皇太子(昭和天皇)、淳宮(秩父宮雍仁親王)、光宮(高松宮宣仁親王)、昭和天皇、香淳皇后、三笠宮崇仁親王らが来園。 1930年、栗林公園動物園が開園(閉園)。
五色台
五色台という名称は、古代中国の陰陽五行説に由来。 五色の名の付いた紅ノ峰、黄ノ峰、青峰、黒峰、白峰山がある。 1950年、瀬戸内海国立公園に指定。 五色台園地の他、崇徳天皇白峯陵、四国八十八箇所霊場の白峯寺、根香寺、瀬戸内海歴史民俗資料館、五色台少年自然センター、観光果樹園、宿泊施設などが散在。 国分台遺跡では旧石器時代のサヌカイト(讃岐石)製のナイフ形石器などが出土した原産地遺跡として知られる。 石を叩くとカンカンという音が鳴るため、「カンカン石」として販売。 世界で唯一のサヌカイト製の石琴(リソフォン)などが製作。
さぬきビール
香川ブルワリーが醸造する地ビール。 ドイツのビールを元に研究、改良を重ねて販売。
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