古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
仁徳天皇難波高津宮跡
古事記下の巻 一、仁徳天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホサザキの命(仁徳天皇)、難波の高津の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 難波の高津の宮の所在地には幾つか説があります。 写真は、その内の1つで大阪城の南側にある難波宮大極殿跡
茨田堤
聖の御世 古事記によると、 “この御世に大陸から來た秦人を使つて、茨田の堤(うまらだ)、茨田の御倉をお作りになり、また丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池をお作りになり、また難波の堀江を掘つて海に通わし、また小椅の江を掘り、墨江の舟つきをお定めになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、淀川沿いに築かせたとされる茨田(うまらだ)の堤。 堤根神社(つつみねじんじゃ)が、茨田堤の鎮守として創建された、と言われている。 下記写真は、その堤根神社の裏にある茨田の堤。
広大寺池
丸邇(わに)の池 丸邇(わに)の池は、その後消えてしまい、後に聖徳太子が関わった事業として今の広大寺池が構築されたようです。 帯解駅の西にあります。
依網池址
依網(よさみ)の池跡には依網公園があります。
中之島公園
難波の堀江(なにわのほりえ) 水路(または運河)として構築。 Wikipediaによると、 堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されています。
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