古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
古事記を巡る旅 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
履中天皇陵
古事記によると、 “履中天皇は御年六十四歳、壬申の年の正月三日にお隱れになりました。御陵はモズにあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、履中天皇陵。
柴籬神社
反正天皇 (はんぜいてんのう) 古事記によると、 “弟のミヅハワケの命(反正天皇)、河内の多治比の柴垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、多治比の柴垣の宮跡にある柴籬神社。
反正天皇陵
古事記によると、 “反正天皇は御年六十歳、丁丑の年の七月にお隱れになりました。御陵はモズ野にあるということです。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
明日香村
三、允恭(いんぎょう)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 "弟のヲアサヅマワクゴノスクネの王(允恭天皇)、大和の遠つ飛鳥の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和の遠つ飛鳥の宮があった明日香村を甘樫丘から眺めた風景。 允恭天皇が初めて飛鳥に宮をおいた天皇と言われている。
允恭天皇 恵我長野北稜拝礼所
古事記によると、 “天皇御年七十八歳、甲午の年の正月十五日にお隱れになりました。御陵は河内の惠賀の長枝にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 (2019年4月)
石上神宮
四、安康(あんこう)天皇 マヨワの王の變 古事記によると、 “御子のアナホの御子(安康天皇)、石の上の穴穗の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、石の上の穴穗の宮があったとされる石上神宮。
安康天皇菅原伏見西陵拝所
古事記によると、 “マヨワの王が、このお言葉を聞き取つて、ひそかに天皇のお寢みになつているのを伺つて、そばにあつた大刀を取つて、天皇のお頸をお斬り申してツブラオホミの家に逃げてはいりました。天皇は御年五十六歳、御陵は菅原の伏見の岡にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、安康天皇陵。
雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地
五、雄略(ゆうりゃく)天皇 后妃と皇子女 古事記によると、 “オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷の朝倉の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 大和の長谷の朝倉の宮の伝説の地として2箇所の候補があります。 1つは、白山神社建立されている場所、 もう一つは、脇本遺跡のあるあたりです。 どちらも国道165号線沿いにあります。 写真は、白山神社
脇本遺跡(雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地)
写真は、2つ目の候補地である脇本界隈にある春日神社。こちらが本命のようです。
春日神社
ワカクサカベの王 古事記によると、 “初め皇后樣が河内の日下においでになつた時に、天皇が日下の直越(ただごえ)の道を通つて河内においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 生駒山を越える古道である直越(ただごえ)は、まさに神武天皇が白肩の津より生駒山を登った道です。 その河内側の古戦場でもある直越の道の河内側の入り口に春日神社があります。
宮滝遺跡
吉野の宮 古事記によると、 “天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。” なお、ここは神武天皇東征で仮宮が建てられた場所であるとも言われている。 また、吉野の宮の周辺での出来事を歌で詠んでいます。 古事記によると、 “吉野のアキヅ野においでになつて獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻が御腕を咋いましたのを、蜻蛉が來てその虻を咋つて飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、(中略)この大和の國を蜻蛉島というのだ”
葛城一言主神社
葛城山 古事記によると、 “「それなら名を名のれ。おのおの名を名のつて矢を放とう」と仰せられました。そこでお答え申しますには、「わたしは先に問われたから先に名のりをしよう。わたしは惡い事も一言、よい事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と仰せられました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、その葛城の一言主の大神を祀る葛城一言主神社。 葛城の一言主の大神が住んでいた場所に建てらたのではないかと言われている。
隼人塚古墳(雄略天皇陵陪塚い号)
雄略天皇
河内大塚山古墳
雄略天皇陵が前方後円墳でない事が判明してから、ここ大塚山古墳が雄略天皇陵であるとの話がある。 古事記によると、“天皇は御年百二十四歳、己巳の年の八月九日にお隱れになりました。御陵は河内の多治比の高鸇にあります。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
御厨子神社
六、清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇 清寧天皇(せいねいてんのう) 古事記によると、 “御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮においでになつて天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、大和のの磐余(いわれ)の甕栗(みかくり)の宮跡には現在、御厨子神社がある。
角刺神社
古事記によると、 “この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。(中略)そこで天皇がお隱れになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、帝位につくべき御子を尋ねて、イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮においでになりました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 写真は、葛城のオシヌミの高木のツノサシの宮跡に祀られる角刺神社
清寧天皇陵古墳
清寧天皇陵
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