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道の駅切符🎫集め01

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コロナがなかったらいくつもりだったら2020春の京都旅行の2日目の予定。新選組ゆかりの場所多目の日

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撮りためた物をやっと編集しました。
コロナが落ち着きます様。

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コロナ禍がなかったら春の桜の一番いい季節に行くはずだった京都旅行計画 その1

小柳 恵一
小柳 恵一

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京都散歩

京都散歩

京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。

「源氏物語」の賢木(さかき)
 野宮神社
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「源氏物語」の賢木(さかき)  野宮神社

紫式部の「源氏物語」の賢木(さかき) 六条御息所が娘の伊勢の斎宮への下向に向けての準備のために嵯峨野の野宮に娘と一緒に隠棲している事が書かれている。 そこへ源氏が訪れ一夜を共にする。その野宮の神域内に、板葺きにした仮造りの小屋が、あちらこちらに造られ、その入口ある黒々とした樹皮のまま丸太でできた鳥居が神々しいとある。 平安時代、伊勢神宮につかえる未婚の皇女・斎宮(さいぐう)に選ばれた女性が当時、野宮と呼ばれ、この場所に3年間こもって心身を清める習わしがあったとの事。普通、母親が一緒に過ごすことは無いようですが、源氏物語では源氏を避けるためか母親である六条御息所も娘と一緒に過ごしている。

「源氏物語」の明石の君の大堰山荘
  亀山公園
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「源氏物語」の明石の君の大堰山荘   亀山公園

紫式部の「源氏物語」の明石の君の大堰山荘散歩 明石の君は、源氏とのあいだにできた姫と尼となっている母とで明石から大井川にある山荘に移ってきた。その大堰(大井)山荘は風流にできていて、大井川が明石でながめた海のように前を流れており住居の変わった気もそれほどしなかった、とある。 そんな大堰山荘は嵐山にある亀山公園あたりにあったと思われる。 写真は、その亀山公園の方から大井川(この辺りの桂川を大堰川と呼ぶ)

「源氏物語」 初瀬街道と長谷寺散歩
  奈良の長谷寺
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「源氏物語」 初瀬街道と長谷寺散歩   奈良の長谷寺

紫式部 「源氏物語」 初瀬街道と長谷寺散歩 与謝野晶子が翻訳した源氏物語を読む機会があり、美しい長谷寺の風景と出会いました。旅姿の姫が小高い参道をのぼる姿がそこにある。 訳があって筑紫に住む夕顔の姫が、母である夕顔に逢いたく筑紫から船で京都へ、そしてあてもなく九条に落ち着く。母への逢瀬を願って岩清水神社や長谷寺に詣でている。 初瀬街道を東に歩いて長谷寺を訪れる途中の椿市でかつて夕顔に仕えていた右近と同じ宿で偶然出会う。右近は、夕顔の姫に逢瀬できる事を長谷寺に祈願する途中であった。姫は、母の死を知る。 そんな風景が見たく筑紫から船で大和に降り、初瀬街道を東に抜けて長谷寺を訪れました。

小柳 恵一
小柳 恵一

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京都散歩

京都散歩

京都散歩 中学2年時、バスケットの試合で訪れたのが初めての京都でした。それ以降、今回で何度目の訪問かな、と思いますが、もう分からないほど来ています。好きな場所です。 初めての京都は、東京駅を夜中に出る普通列車に乗り、確か朝8時頃着いた、と思います。早朝の京都駅からバスでそのまま試合会場に出向き3試合ほどしたことを思い出します。高校生の胸を借りた練習試合でした。試合終了後、直接京都駅に戻り、その日の普通列車で東京に戻りました。 朝夕に観た京都タワーが私の京都そのものになった思い出があります。もう半世紀前の話になります。 当時のバスケット部顧問の先生(当時40歳位)には頭が下がります。

「源氏物語」の二条院
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「源氏物語」の二条院

紫式部の「源氏物語」の二条院散歩 源氏が住む二条院が何処にあるかは、「賢木」で六条御息所とその娘である斎宮が伊勢へ下向する風景を描いた中にある。六条御息所とその娘である斎宮の一行が内裏での挨拶を終えた後、二条より東洞院の大路を折れ給ふほど、二条の院の前になる、と書かれている。内裏の儀式に出席しなかった源氏が住む二条院の前を通り過ぎたことが描かれている。二条通りの南、東洞院通り沿いに二条院があることが分かる。 昔はこの辺に貴族の館が立ち並び、二条殿の近くには在原業平の屋敷もあったことが分かる。また、室町時代には、足利尊氏邸もあった。二条殿から東洞院通りを南に下ると六角堂がある。

「源氏物語」の嵯峨の御堂
清涼寺 竹仙
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「源氏物語」の嵯峨の御堂 清涼寺 竹仙

紫式部の「源氏物語」の嵯峨の御堂 物語では、嵯峨野にある大覚寺から南の場所に御堂を建てている話が出ている。 明石の君が嵐山にある大堰山荘へ明石から引越しをする頃に源氏は建てている。かなり大掛かりな工事が行われている話が書かれている。 その御堂は、源氏のモデルの一人とされる源融(みなもとのとおる)が晩年隠棲した棲霞観(せいかかん)であるとされる。 源氏も最晩年、出家してこの嵯峨の御堂で暮らし、その生涯を終えている。 その棲霞観跡に清凉寺が今はある。

関西が好っきゃねん
関西が好っきゃねん

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八重洲・日本橋

八重洲・日本橋

まいどまいど! 東京を代表する繁華街といえば八重洲・日本橋。 名は日本橋でも「にほんばし」と読み、大阪・日本橋の「にっぽんばし」とは読み方がちゃいまんねん。 また東京の日本橋は経済の中心地としても知られ、中心部には日本銀行本館、日本銀行金融研究所貨幣博物館、そして東京証券取引所などがおまして、ビジネスマンの姿が絶えへん界隈ともなってまんねん。 周辺には厳かな雰囲気を持つ三越百貨店があり、日本初の店前現銀売りや現銀掛値無し、小裂何程にても売ります(切り売り)を行った場所としても知られてまんねん。 最近では日本初のファッションショー、日本初の自動車(配達用)、デパートのバーゲンセール、第一回無形文化財日本伝統工芸展を開催。 その他、第一国立銀行跡・銀行発祥の地としても知られておまして、日本初の民間資本による銀行の発足ならびに株式会社が設立。 ここにも渋沢栄一氏の足跡を感じることができまんねん。 また、郵便局発祥の地としても知られ、郵便局を発足させた前島密氏の銅像も建立。 日本初・世界初がぎょうさん詰まった八重洲・日本橋界隈を闊歩しまひょ。

竹久夢二港屋跡
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竹久夢二港屋跡

日本の画家・詩人として活躍。 1884年、酒造業を営む岡山県瀬戸内市邑久町で生まれた。 本名、竹久 茂次郎。 大正ロマンを代表する画家で多くの美人画や風景画を残し、日本画の技法や洋画(キャンバスに油彩)技法によるその抒情的な作品は「夢二式美人」「大正の浮世絵師」とも。 文筆の分野では詩、歌謡、童話など創作、詩「宵待草」は大衆歌として人気を集め、全国的な愛唱曲となった。 生活と結びついた美術を目指し、産業と融合すべきとの理念を持って商業美術(グラフィック・デザイン)の概念を描いたとも。 1899年、兵庫県神戸市の兵庫県神戸尋常中学校(兵庫県立神戸高等学校)に入学。

日本橋
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日本橋

東京都中央区内を流れる日本橋川に架かる橋の一つ。 水系は一級水系 荒川。 水源は神田川で隅田川と合流。 徳川家康が東京に移封、江戸幕府が開幕。 平川(神田川上中流)に流れる神田川開削の天下普請が行われた。 このとき、三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となり、飯田堀、飯田川とも。 徳川家康は全国の道路網(街道)整備計画に際し、初代の橋(木造の太鼓橋)を架橋、公儀橋とした。 以降、流域は経済・運輸・文化の中心として発展、堀の両側には河岸が点在、全国から集められた物資で賑わい、鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸があった。

日本橋北詰西側
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日本橋北詰西側

戦前、道路法では各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付け、東京府東京市では日本橋を道路元標とした。 このため、日本の道路元標が設置され、日本の道路網の始点となった。 1604年、道路元標は徳川幕府を開いた徳川家康公が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程の起点とした。 1873年、日本橋は諸街道の起点と定め、橋の中央をもって国内諸街道の元標とされた。 1911年、現在の日本橋に架け替えられた際、橋の中央に「東京市道路元標」が設置。 1972年、道路改修が行われ、「東京市道路元標」が移設。 当時の佐藤栄作内閣総理大臣の名前が刻まれた。

日本橋三越本店
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日本橋三越本店

三越は三越伊勢丹が運営する日本の老舗百貨店で日本初の百貨店。 商号の三越は、三井家と創業当時の呉服屋「越後屋三井八郎右衛門」からとったもの。 1673年、呉服店「越後屋」が伊勢松坂出身の商人・三井高利によって東京・日本橋に創業。 1904年、合名会社三井呉服店から株式会社三越呉服店へ改称。 1914年、日本橋本店のルネッサンス様式の新館が落成。 「スエズ運河以東最大の建築」と称され、アール・デコ調の内装と合わせ建築史上に残る傑作とも。 1935年、日本橋本店が竣工。 キャッチフレーズ「飾る日も 飾らない日も 三越と」「This is Japan」。

三井記念美術館
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三井記念美術館

旧財閥三井家の伝来品の収蔵展示を目的に設立された私立美術館。 1985年、東京都中野区上高田「三井文庫別館」(三井文庫本館は史料館)として開館。 2005年、旧三井鉱山があった東京都中央区日本橋室町の三井本館に移転「三井記念美術館」と改称。 旧財閥三井家が所蔵していた社会経済史料の保存のため、1965年に財団法人三井文庫が設立され、1985年に「三井文庫別館」が開設。 円山応挙「雪松図」、刀剣類、藤原定家の日記「熊野御幸記」、金剛右京家伝来の能面類、日本最古の年紀「船氏王後墓誌」、 陶磁器、志野茶碗「卯花墻」などを収蔵。

三井本館
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三井本館

設計はトローブリッジ・アンド・リヴィングストン(英語版)社(米国)、ワイスコッフ・アンド・ピックワース社。 1929年、地上7階、地下2階として竣工。 三井本館は三井財閥の本拠であり、現在は三井不動産が保有し、三越の前身にあたる越後屋の跡地。 團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場にもなった。 1902年、旧三井本館が竣工するも1923年の関東大震災で被災。 1945年から2年間、連合国軍最高司令官総司令部が一部を接収。

日本橋高島屋
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日本橋高島屋

大阪府大阪市中央区に本社を置く老舗百貨店。 1831年、京都で飯田新七が古着・木綿商を開業、義父の飯田儀兵衛の出身地・近江国高島郡(滋賀県高島市)から髙島屋と名付けた。 明治時代、貿易業に参入。 1890年、日本橋本石町「たかしまや東京出張所」設置。 1919年、髙島屋呉服店として大阪・長堀橋に開店。 1932年、南海ビルディングが大阪・難波に竣工。 1933年、東京・日本橋に日本橋店を開店。 2012年、店舗の正式名称を東京店から日本橋店に改称。

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