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東海道散歩その1 (日本橋から舞坂宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から舞坂宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から新居宿までの東海道散歩その2に分けました。
旧東海道 舞坂宿 見付石垣
旧東海道 舞坂宿 見付石垣
旧東海道 舞坂宿 一里塚公園
旧東海道 舞坂宿 一里塚公園
宝珠院
〒431-0211 静岡県浜松市西区舞阪町舞阪1927−1927 宝珠院 文化六年(1809年)に舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をした。火防の山、秋葉信仰の高まりとともに仲町の願いにより、四年後の文化十年五月吉日にこの常夜灯が建立された。両皇太神宮、秋葉大権現、津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2.7メートルある。 なお、西側の石の祠は、秋葉山をまつってある。ちなみに、ここ宝珠院は、明治六年(1873年)舞阪町に初めて小学校が開かれた所であるとの事。
岐佐神社
平安時代に書かれた『延喜式神名帳』に、遠江国六十二座・敷智郡六座の一として記載されており千年以上の古社である。 明応七年(1498年)の地震津波では、浜名湖の湖口が切れて「今切」となり舞澤の郷は人家と共に水中に漂没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の古木の根本に、『岐佐大明神』の小神祠を見つけた住民は、社殿を建立して祀った。 天正二年(1574年)以来、数次の本殿・拝殿再建の棟札を保存している。 慶長六年(1610年)伊奈忠次公より御神領三石、慶安元年(1648年)徳川家光公より御朱印状により神領五石を奉献され、明治維新に至る。現在の社殿は大正元年の造営であるとの事。
東海道散歩その1 (日本橋から舞坂宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から舞坂宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から新居宿までの東海道散歩その2に分けました。
梅屋本陣跡
梅屋本陣跡
諏訪神社
諏訪神社
熊野神社
熊野神社
神明宮
〒431-0201 静岡県浜松市西区篠原町1166
明治天皇御東幸野立所跡
明治天皇御東幸野立所跡
稲荷神社
〒431-0202 静岡県浜松市西区坪井町3456
春日神社
〒431-0203 静岡県浜松市西区馬郡町1882−3
旧東海道 舞阪宿 松並木公園
旧東海道 舞阪宿 松並木公園
舞坂宿のお茶屋 じょうらく
舞坂宿のお茶屋 じょうらく
舞坂宿 本陣跡
舞坂宿宮崎本陣跡
舞坂宿脇本陣
舞坂宿脇本陣茗荷屋
北雁木跡
浜名湖今切渡しの舞坂宿側の渡船場跡で明暦三年(1657年)から寛文元年(1616年)にかけて構築された。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されている。両側の石垣の白い部分は昭和二十八年の台風で石垣が崩れたため積みなおしたものである。 雁木とは階段状になっている船着場のことをいうが、地元では「がんげ」と昔からいっている。 舞坂宿には三ヶ所の渡船場があったが、一番南側は主に荷物の積み降ろしをした渡荷場。真ん中は旅人が一番多く利用した主要渡船場で本雁木と呼ばれている。 この北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から幅十間(約18メートル)の石畳が水際まで敷きつめられているとの事。
東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
薬師堂瑠璃殿
薬師堂瑠璃殿 熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は二人の姉妹が住む家に投宿した。姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、姉妹はこれを安置した寺を建立したという。瑠璃殿の扁額は文政四年(1828年)八幡山巌禅翁の書。
潮見坂下
潮見坂下
蔵法寺
徳川家康が竹千代と言われた1547年、今川氏の人質として駿府に護送中に蔵法寺に泊まっている。このことから将軍家の小休憩所に定められ、1603年将軍徳川家康より寺領として朱印地二十三石を受けた。これによって当時蔵法寺は大繁栄し、参勤大名の武士や小者の控所など大規模な建物も設けられていた。住職は将軍代替わりの度に、御朱印状書き替えのために江戸城までを往復した。その時の住職の乗り物である駕籠は、のぞき窓の簾が黄色の綾糸で編まれ装麗を極め、「黄のお駕籠」と言われ行列も美しく十万石の大名の格式を備えていた。現在将軍より与えられた朱印状の写し九通、御朱印状箱が残っている、との事。
内宮神明神社
内宮神明神社
白須賀一里塚跡
白須賀一里塚跡
紅葉寺
現在は廃寺ですが、かつて室町幕府の六代将軍足利義教がこの地で紅葉を愛でたことにより紅葉寺と呼ばれたとの事。
教恩寺
〒431-0303 静岡県湖西市新居町浜名1126 時宗 一編上人 開宗:1274年(鎌倉時代) 本山:遊行寺 阿弥陀仏が本尊
東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
二川宿脇本陣坂本家跡
二川宿脇本陣坂本家跡
二川宿東問屋場跡
二川宿東問屋場跡
商家「駒屋」
駒屋 東駒屋は現在も味噌、醤油を販売している。 東駒屋の表はほんのり味噌や醤油の香が漂っている。それに隣接する駒屋は、江戸末期に建造された建物であり、豊橋市の有形文化財に指定されている。この駒屋の脇には二川宿を南北につなぐ古道(瀬古道)がある。
笠子神社
笠子神社
白須賀宿
白須賀宿
白須賀宿の火防
東海道白須賀の宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708年)潮見坂の下から、坂上へ宿替えをした。 宿場の移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、たびたび火災が発生し、しかも大火となることが多かった。これは当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。 そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫せられたのが火防で、人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にしていた。 火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、常緑樹で火に強い槙が十本くらい植えられ、元は宿内に三地点・六場所の火防があったとの事。
夏目甕麿邸跡・加納諸平生誕地の石碑
夏目甕麿は、通称嘉右エ門、萩園と号した。 酒造を業とした傍ら国学を内山真龍に学び、後、本居宣長の門に名を連ねたとの事。 加納諸平は甕麿の長子、柿園と号した。若くして紀州和歌山の本居大平の許に寄寓乞われて加納家の養子となる。後、紀州候に召されて国学を講じ国学所総裁となる。
旧東海道 白須賀宿 脇本陣跡
旧東海道 白須賀宿 脇本陣跡
袈裟切り地蔵
袈裟切り地蔵
湖西市 おんやど白須賀
湖西市 おんやど白須賀
① ゴーディーズ オールド ハウス(嘉手納)
②島ジェラート&カフェISOLA(読谷村)
③かんなプラス(北谷町)
④富士家(那覇市)
暑くなってきた沖縄でこれは食べてほしい!✨
ひんやりスイーツを紹介します🧊🍧🥶❣️
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