
鳩ポッポのふるさと東京「上野・浅草」を歩く
東京鳩ポッポのふるさと東京「上野・浅草」を歩く
まいどまいど! 上野や浅草っちゅう地名は知ってんねんけど、どんなとこやねんやろ? 興味あるし、いっぺん行ってみようかな? という思いから早速、訪れたのは、上野恩賜公園。 通称、上野公園と呼ばれてまんねんけど、入り口にはイルミネーション。 取材当時、バレンタインが近いというのもあって、ハートの形をしたモニュメントも。 ほんで、やっぱり、上野公園で有名なのは、薩摩藩出身の西郷隆盛。 ここには、西郷隆盛の像が建立されてるっちゅうことで、訪れてみました。 また、周辺には、動物園など、いろんな施設があるようですが、ここは繁華街。 商店街をぶらりと歩いてみまひょか。 まるでアメリカのような雰囲気が漂ってくるアメヤ横丁。 通称、アメ横とも呼ばれている商店街でんねんけど、居酒屋やファッションなど、いろんなお店が立ち並んではりまんな。 その中で、気になったのは、西郷丼。 西郷隆盛は鹿児島県出身として知られ、ここでは、九州名物をふんだんに使用した丼が楽しめる。 その他、鉄板料理の一つで、鉄板一面に敷かれた東京名物の粉もん「もんじゃ焼き」は絶品。 今夜はぶらりと上野駅周辺を散策してみてはいかがでっしゃろか。
通称、上野公園。 武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから、「上野の山」「上の森」とも呼ばれる。 園内には、東京国立博物館、国立西洋美術館、国立科学博物館、恩賜上野動物園などがある。 江戸時代、三代将軍・徳川家光は江戸城の北東が鬼門にあたることから、東叡山寛永寺を建てた。 以来、芝の増上寺と並ぶ将軍家の墓所として有名であったが、戊辰戦争の時、寛永寺に立て篭った旧幕府軍の彰義隊を新政府軍が包囲殲滅した上野戦争が勃発し、焼失。 1870年、医学校と病院予定地として当地を訪れた蘭医アントニウス・ボードウィン(ボードワン)の働きかけにより、日本初の公園に指定。
イルミネーションが美しい
日没後に点灯されるイルミネーションは美しく、来園者の目を楽しませる。 また、春になると桜が見ごろを迎える。 日本さくら名所100選に選定。 夏になると不忍池の蓮が見ごろを迎えるなど、年間を通じて、多くの来園者でにぎわう。
野口英世像
1876年、福島県生まれ。 猪苗代高等小学校、済生学舎(日本医科大学)、ペンシルベニア大学医学部て、ロックフェラー医学研究所研究員。 細菌学の研究に主に従事し、黄熱病や梅毒等の研究を行った。 福島県の有志らが募金を募り、当地に銅像を建立。
ボードワン博士像
正式には、アントニウス・フランシスクス・ボードウィン。 1820年、オランダ生まれ。 ユトレヒト陸軍軍医学校、ユトレヒト大学医学部を卒業。 オランダ陸軍に入隊、ユトレヒト陸軍軍医学校で教官を務めた。 1862年、来日し、ポンペの後任として長崎養生所の教頭となった。 幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけた。 大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、大学東校で教鞭をとった。
上野恩賜公園の一角には、高村光雲、後藤貞行、岡崎雪聲の作品として知られる西郷隆盛と傍らの雌犬のツンの像。 1889年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれ、薩摩藩出身者らによって建立。 1898年、除幕式。 夫人の西郷糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(主人はこんなお人ではない)」、「浴衣姿での散歩はしなかった」と言い、落胆したとか。 愛犬を連れ、腰に藁の兎罠をはさんで兎狩りに出かける姿。 この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像をきっかけに、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案。
東京都立のホール。 東京都交響楽団の本拠地。 1961年、第3回BCS賞を受賞。 2003年、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。
1872年、湯島聖堂内に博物館を設立。 1877年、教育博物館が設置と同時に創立。 1930年、現在地に建設。 東京科学博物館へと改称。 1949年、現在の国立科学博物館となった。
入り口には蒸気機関車
指定文化財は、1695年製の天球儀・地球儀、1880年製の天体望遠鏡の他、日本に現存する最古のミルン水平振子地震計、日本初の蘇言機(錫箔蓄音機)などを展示。
旧東京科学博物館本館
1931年、関東大震災の復興事業の一環において、東京科学博物館本館として竣工。 ネオ・ルネサンス様式。 設計は文部省大臣官房建築課の文部技師糟谷謙三。 重要文化財に指定。 上空から見ると飛行機の形をしたデザインをしているとか。
日本と東洋を中心とした美術品、考古遺物などの文化財の収集保管、展示公開を行っている。 1872年、日本最古の博物館として開館。 本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設から構成。
JR東日本の駅構内にある商業施設。 「駅と街の融合・地域との共生」がテーマ。
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正式名称、アメ横商店街連合会。 終戦直後、砂糖の手に入りにくかった時代に「芋あめ」を売る店が並び、アメリカ進駐軍の放出物資を売る店が多く立ち並んでいたため、アメヤ横丁と呼ばれるようになったとか。 かつて、国鉄の変電所が位置し、戦災を避けるために建物疎開を強制的に行った。 東京大空襲によって焦土と化し、闇市(営業許可を受けない商店)が増えたとか。 1946年、実業家・近藤広吉は「近藤マーケット」を創業。 平成時代、「閉店セール」を毎日、行う店舗が増え、たたき売りのような販売が多かったとか。 2013年、NHKテレビ小説「あまちゃん」では実際にロケーションが行われたとか。
新幹線とかね
「東北・上越新幹線上野駅開業記念碑」、「かねの鳴るまち碑」が建立。
飲食店や雑貨店などが立ち並ぶ商店街として知られ、上中(うえちゅん)という愛称で親しまれている。
東京など関東地方の名物といえば、もんじゃ焼き。 アメヤ横丁では焼肉屋や焼鳥屋、海鮮料理が中心の居酒屋などが多く立ち並んでいる中、もんじゃ焼きという文字を見つけた。 さっそく店内に入ってみよう。
もんじゃ焼き
東京都や埼玉県、群馬県、栃木県など、関東地方における名物の一つと言えば、もんじゃ焼き。 鉄板で調理する「粉もの」の一つで、「もんじゃ」や「もじ焼き」「もんじ焼き」「もんじゅ焼き」「じじ焼き」「水焼き」「焼き鍋」「ぼったら焼き」「おいの」などと呼ばれている。 お好み焼きのルーツともいわれ、食材や調理法も似ている。 鉄板の上で焼くときに、文字を書いて遊んだことから、「文字焼き」と呼ばれていたとか。
国内外のカジュアルブランドが店内に並ぶ。 看板も店内もまるでアメリカのような雰囲気が漂う。
JR東日本の御徒町駅と上野駅とを結ぶ商店街。 かつて、旅館が多く立ち並んでいた。 戦後、問屋・商店・飲食店などが増えた。
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海鮮料理や珍味、めしなどが揃う居酒屋。 九州、愛媛、北海道などから産地直送であるといい、新鮮な魚介類が楽しめるのも魅力。
西郷丼
じゅらく名物の西郷丼は、西郷隆盛の出身地として知られる九州の名物7品 (豚角煮、明太子、薩摩芋、博多焼、薩摩揚げ、温泉卵、ホウレン草)がトッピング。
たぬき冷奴
冷奴に天かす(たぬき)が乗った、じゅらく名物のたぬき冷奴。
「春日通り」から「さくら通り商店会」までの間に連なる商店街。 戦後、バラックが建てられ、上野駅を流通の基点とした「市」が開かれた。
地元では長らく「本陣そば」として親しまれてきた場所に「かくや」が出店。 かくやでも、鶏つけそば、牛筋青唐つけそば、チキンカツ丼など、そばや丼を中心としたメニューが並ぶ。
鴨つけそば
かくやでは、そばの大盛は無料。
人気番組「有吉ジャポン・鶯谷編」で紹介されたというカラオケ&ディスコ。 ここでは、1980年代から1990年代にかけて流行した歌謡曲を中心に、カラオケスナックとガールズバーとキャバクラとディスコとライブハウスが一度に楽しめる人気のスポット。
遠赤外線ガスサウナ、水風呂、電気風呂、マッサージ風呂、ミクロバイブラ風呂、座風呂。 ミスト薬湯では日替りで6種類の湯が楽しめるとか。
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東京都江東区深川やその近辺で獲れたというバカガイ(アオヤギ)やアサリ。 ここでは、アサリを使用した炊き込みご飯が再現され、朝食時に味わうことができる。 かつては、漁師がアサリのすまし汁をご飯にかけて食べたのがはじまりであるとか。 ここでは、毎朝、バイキング形式となっており、深川めしの他、パンや汁物などを味わうことができる。
台東区内にある観光案内所では、観光名所の案内を行っている。 また、8階にある展望テラスからは東京スカイツリーや浅草周辺を一望することができる。
表参道入口にある「風雷神門」。 切妻造の八脚門で風神像、雷神像を安置。 1865年、焼失。 1960年、鉄筋コンクリート造で再建された。 松下電器産業(現在のパナソニック)の創業者として知られる実業家の松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもの。 松下電器産業寄贈の大提灯があり、三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。 また、「金龍・天龍」の像を安置する。
浅草雷門通り商店街
浅草寺の門前町として発展してきた商店街の一つ。 三社祭や浅草サンバカーニバルなど、浅草のイベントでは常に中心的な通りとなる。
仲見世
仲見世は浅草寺の表参道。 雷門から宝蔵門までの約250mの間に、参道の両側には朱塗りの店舗が並ぶ。 仲見世という名の由来は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということから。 かつて、雷門あたりは浅草寺「南谷」といい、参道の両側に支院が並んでいた。
山号は金龍山。 本尊は聖観音菩薩。 かつて、天台宗に属していたが、聖観音宗の総本山となった。 東京都内では唯一、坂東三十三箇所観音霊場の札所(13番)、江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。 628年、、宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像は現在の浅草寺本尊の聖観音像である。 この像を拝した兄弟の主人・土師中知は出家し、自宅を寺に改めて供養したことが浅草寺の始まり。
宝蔵門
仁王像が安置されている。 そのため、かつては仁王門と呼ばれていた。 942年、平公雅が武蔵守に補任され、その祈願成就の御礼として建立した。
新奥山
「奥山」にはかつて、参拝者が休息する水茶屋が並び、芝居、見世物、独楽回し、猿芝居、居合、軽業、手妻(奇術)などの大道芸人が活躍していた。 水茶屋や楊枝屋の看板娘は、鈴木春信や喜多川歌麿などの美人画の題材となった。 元禄時代の歌人・戸田茂睡の墓、社会事業に尽くした瓜生岩子女史の他、喜劇王として活躍した曽我廼家五九郎の顕彰碑、喜劇人の碑、映画弁士塚など、浅草の娯楽を支えた諸碑が並ぶ。
鳩ポッポの歌碑
1962年、童謡「鳩ポッポ」の歌碑は、作詞の舞台となった当地に建立。 作詞家の東くめ女史が、浅草寺の境内にて鳩と戯れている子供たちをみてこの歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲されたとか。
九代目・市川團十郎
名門・市川氏の家系を継ぐ名跡であり、歌舞伎役者の一人として知られ、明治時代に活躍した。 歌舞伎の世界で多くの功績を残し「劇聖」とまで呼ばれた。 像は、役の「暫」を演じている。
主祭神は、浅草神社の草創に関わった土師真中知、檜前浜成・武成。 東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。
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1853年、日本最古の遊園地として開園。 ただし、戦時中、取り壊された後、戦後に復活した経緯があるため、大阪府枚方市にある遊園地「ひらかたパーク」の方が長いとも。 千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園。 明治時代、浅草寺一帯を浅草公園地としたため、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定。 敷地は縮小し、木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。 勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。 その他、国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。
歓楽街「公園六区」の中心に位置する寄席。 都内にある落語定席の一つで、落語、漫才、手品などの色物芸が多数執り行われている。 メインの客席は1階にある。 完全自由席。
六芸神
1996年、浅草公園六区に祭られている六体のブロンズ像が設置。 毎月六の日にはイベント「六芸神まつり」が開催。 六体の銅像は、それぞれ浅草にゆかりのある実在の人物がモデルとなっている。 唄神は、東海林太郎。 奏神は、田谷力三(アコーディオンを弾いている)。 話神、古今亭志ん生。 戯神、大道芸人(氏名不詳、玉乗りをしている)。 演神は、榎本健一。 踊神は、水の江瀧子(紅一点。踊り子)。