
安倍晴明の足跡を求めて京都御所を四季折々の花々と
京都安倍晴明の足跡を求めて京都御所を四季折々の花々と
まいどまいど! 今回は京都の中心地でおます京都御所を散策しまひょ、と。 京都御所の内部にもいろんなスポットがおまして、京都御苑や京都大宮御所、京都迎賓館など環境省や宮内庁、内閣府が管理。 日本の中枢とも言える場所が今やが一般開放されてるっちゅうことで、京都御所の内部を自由に散策することができますねん。 京都御所の中では、いろんな植物が生息し、野鳥も飛来。 四季折々の花々と珍しい野鳥を観察することができますねん。 ほんでまた、京都御所周辺には藩邸跡や京都の歴史に関する資料の保存、公開を目的に開館した京都市歴史資料館、京洛七福神めぐり、京都七福神めぐりの一つである青龍妙音弁財天、鯖街道の終点にあたることから、サバなどの海の生物が描かれた陶板が埋め込まれている出町桝形商店街など、見どころが満載。 中でも794年、平安京の造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋の一条戻り橋は様々な伝説が残る名所として知られ、時々、メディアに取り上げられることも。 京都も京都御所だけではない魅力をご案内していきまっせ! ほな、まいどおおきに。
京都御苑は環境省が管理。 京都御所、京都仙洞御所、京都大宮御所は宮内庁が管理。 京都迎賓館は内閣府が管理。 その他、公家屋敷の遺構、グラウンドやテニスコートも。 豊臣秀吉は大規模な都市改造の一環として堂上公家をあまねく禁裏(御所)周辺に移住させ、江戸時代には約200の公家屋敷が立ち並んだ。 明治時代、明治天皇をはじめ、多くの公家が東京へ移り、華族制度の発足と共に全ての華族の東京移住が義務付けられた。 1877年、京都御所周辺は荒廃、岩倉具視は旧慣保存のため、御所の保存を建議。
京都御所を市民憩いの場に
京都府は御所を囲む火除け地を確保、軒を連ねる旧公家屋敷の空家の撤去と跡地の整備を開始し、京都御苑として整備。 大正天皇の大礼が京都御所で行われ、建礼門前大通に大規模な改修工事を実施。 1949年、国民公園となった。
自然豊かな園内には
京都御苑内にはマツ、ケヤキ、シイ・カシ類、イチョウ、ウメ、モモ、サクラ、サルスベリなど500種以上の植物が生息。 苑内は野鳥の観測地として知られ、アオバト、ビンズイ、トラツグミ、ゴイサギなど100種以上の野鳥を確認。
遊びも
園内には、母と子の森、トンボ池、出水の小川など
1686年、水戸藩邸が設置。 明治時代に廃止。 水戸藩は徳川家康の子頼房を初代藩主とする御三家の一つ。 2代藩主徳川光圀は「大日本史」編集の事業を開始し、幕末まで継続された。 情報収集を目的に京都にも多数の係員が派遣され、この藩邸はその拠点とななった。 借用資料の筆写も藩邸で行なわれた。 幕末、水戸藩は尊王攘夷と佐幕とに藩論が分れた。
1923年、逓信省技師吉田鉄郎の設計により建設。 1924年、京都中央電話局上分局の庁舎として営業を開始。 1959年、廃局。
山紫水明処は歴史家・思想家・漢詩人・文人として活躍した頼山陽の書斎兼茶室。 1811年、広島から京都に出て塾を開いた。 転居を繰り返し、東山や鴨川の眺望を気に入り、屋敷を「山紫水明処」と名付けた。 1822年、6度目の転居先として当地が選ばれ、晩年を過ごした。 山陽は屋敷地を「水西荘」と名付け、庭にウメ、サクラ、モモ、ツバキ、ナツメなどの花木、実の成る木を好んで植えた。 1828年には書斎兼茶室を造営し、「山紫水明処」と名付けた。 これが今の「山紫水明処」となる。 茶の湯にも精通していた山陽は、鴨川の水を汲んで煎茶を入れて友人に振る舞った。 庭には鴨川の伏流水が湧き出す「降り井」が設けられた。
京都市内を流れる一級河川の鴨川に架かる橋として知られ、京都市内を東西に結ぶ丸太町通りの一部。 通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町の由来とも。 江戸時代、「丸田町通」と表記されていた。 1708年、宝永の大火の、公家町が丸太町通に接する範囲まで拡張、京都御苑の南端が丸太町通となった。 かつて木造の橋であったが、洪水のたびに流されていた。 1912年、京都市営電気軌道の敷設に伴い、鉄橋として架橋。 1976年に京都市営電気軌道が廃止され、1991年に現在の橋に架橋。
学校法人の同志社を創立した新島襄の旧邸。 1875年、同志社英学校が開校し、「同志社発祥の地」とされている。 1876年、同志社英学校は山本覚馬が所有していた旧薩摩藩邸跡地(同志社大学今出川キャンパス)に移転。 1878年、当地は友人J.M.シアーズから礼拝堂と自宅建設のための寄付を受け、高松保実の邸宅を買収し、外観に洋風を取り入れた和洋折衷の住宅として竣工。 京都に現存する木造最古のものとなった。 1907年、同志社に寄付。
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大和国吉野郡十津川村(奈良県十津川村)出身の郷士集団「十津川郷士」の屋敷跡。 十津川村は南大和に属し、神武天皇東征のとき道案内に立った八咫烏がトーテム。 旗印は「丸十」であったが幕末の御所警備の際、日の丸に「菱十」とした。 古くから地域の住民は朝廷に仕え、壬申の乱・平治の乱にも出兵、戦功により税減免措置を受けている。 大坂の役の際、徳川方となって豊臣派の一揆を鎮圧、大和の五條代官所の下で天領となり免租された。 幕末、勤皇の志士となるものも多く、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐などと並んで宮廷警護を命ぜられた。
下切通新烏丸
天誅組の変の際、劣勢となり朝廷から離脱、大総督官直属の朝廷御親兵として越後から会津の倒幕戦争に赴き帰還。 維新後は全員士族となった。 1863年、禁裏守護を命じられて上洛、禁裏御所に近接した下切通新烏丸に詰所を建設。
1982年、京都の歴史に関する資料の保存、公開を目的に開館。 「京都市史編さん所」を前身とし、古文書、絵画、絵図などを中心に展示。 映像展示室では、京都の歴史、祭礼、風物などを映像化して公開。
1824年、伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家の邸宅跡。 初名は成憲。 奈良一乗院の門主となり、親王宣下の後、出家して京都青蓮院門跡となり、天台座主を兼ね尊融入道親王と称した。 1863年、還俗して中川宮の宮号を賜り、名を朝彦と改める。 1864年、宮号を賀陽宮と改める。 国事御用掛として孝明天皇を補佐し、尊王攘夷派を朝廷から追放することに努めた。 1875年、久邇宮の宮号を賜った。 朝彦親王は神宮祭主として古儀復興に取り組む。 以後、陸軍士官学校と陸軍大学校卒業して陸軍大将となった2代「久邇宮邦彦王」、海軍兵学校卒業して海軍中将となった3代「久邇宮朝融王」へと続く。
1900年、中川小十郎は1888年に設立された「京都法学校」を吸収し、京都法政学校を設立。 学園監事に末弘威麿、初代校長に民法学者・富井政章が就任。 1901年、西園寺公望の実弟・住友吉左衛門からの寄付を受け、当地に移転。 専門学校令により、私立京都法政専門学校に改称。 1905年、1869年に創設された西園寺公望の私塾「立命館」の名称を継承し、清和普通中学校(立命館中学校・高等学校)開校。 1913年、学校組織を財団法人とし、財団法人立命館が設立。 1917年、西園寺公望より、佐倉丸(日露戦争の旅順閉塞船)の鐘が寄贈。 1981年、立命館大学広小路学舎が閉校。
1887年、明治天皇は孝明天皇二十年祭のため、京都に滞在し、京都府尋常中学校に行幸。 京都府尋常中学校の前身は1870年に創立された京都府中学校にあたり、1884年に当地に移転。 1888年、新町出水に移転し、京都府立洛北高校となった。
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祭神は、三條實萬・三條實美父子。 別名、萩の宮。 境内には約500株のハギが植えられ、9月には萩祭りが開催。 平安時代、藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第であった。 1885年、久邇宮朝彦親王の令旨により三条家の邸宅跡に三條實萬を祀る社殿が造営。 1915年、大正天皇即位を記念して、子の三條實美を合祀。 井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、藤原良房の館にあり染物に使用した京都御苑の「縣井」、堀川通五条西入るの「左女牛井」と並ぶ京都三名水の一つ。 また、醒ヶ井・県井・染殿井として京都三名水とも。
1921年、日本の公立大学として設置。 1872年、粟田口青蓮院(天台宗三門跡の一つ)内に仮療病院を開設。 1880年、当地の梶井門跡(天台宗三門跡の一つ)跡地に療病院を移転。 1903年、専門学校令により、京都府立医学専門学校に改称。 1921年、大学令により、京都府立医科大学に改称。 1982年、日本初の大学病院併設型小児専門病院・小児疾患研究施設(愛称、京都府こども病院)が設立。 敷地内には当地に設立当初より使用されていた旧図書館が現存する。
祭神は安倍晴明御霊神、宇迦之御魂大神、菅原道真。 かつて当地には安倍晴明の屋敷、千利休の屋敷があった。 1005年、安倍晴明の没後、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、1007年に神社を創建。 当時、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通とかなり広大であった。 しかし、度重なる戦火や豊臣秀吉の都市整備などにより縮小。 2005年、安倍晴明没後1000年にあたることから安倍晴明千年祭が開催。 2017年、土御門晴雄により奉納された二の鳥居の社号額が復元として新調。
安倍晴明
現在、境内には安倍晴明の像が建立。 井戸「晴明井」があり井戸水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力により湧き出たとされ、無病息災のご利益があるとも。 晴明井は五芒星(晴明桔梗)を描き、その取水口がその星型の頂点の一つにあり、立春には晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させ、その年の恵方に取水口を向けるのが、慣わし。
一条戻橋
1995年まで使用されていた一条戻橋の一部が保存。
千利休
千利休は茶会で、晴明井の晴明水を茶の湯として使用、豊臣秀吉も口にしたとか。
応仁の乱とは、室町時代の1467年に勃発した内乱。 室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争い、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名が参加、幕府を東西2つに分ける大乱へと発展し、西軍が解体され終息までに11年に及んだ。 洛中では当地が最初の勃発地として推定され、東軍細川勝元方の京極持清は、ここを通り、一条戻橋から西軍に攻撃、一条大宮で平安京が壊滅するほどの激戦を繰り広げた。
加藤清正は安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将、大名の一人。 通称、虎之助。 1562年、愛知県名古屋市中村区生まれ。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。 秀吉とともに各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名。 秀吉没後、徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍。 肥後国一国と豊後国の一部を与えられて初代の熊本藩主に。 当地にはかつて加藤清正邸が存在。 加藤清正は豊臣秀吉に従い、現在の京都府京都市上京区の一部にあたる主計町に建てられた屋敷に居住。 当時、主計町は豊臣秀吉・秀次の聚楽城・聚楽第からみて東方にあたり、複数の大名屋敷が建設。
主計
主計という地名から加藤主計殿とも。 徳川家康の時代になると筑前福岡黒田屋敷になり、付近には小出伊勢や上行寺、五摂家筆頭の近衛家堀川邸が建設。
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平安時代の女流日記「蜻蛉日記」の著者である藤原道綱母が居住。 954年から974年の間で起きた出来事が書かれ、上中下の三巻より構成。 題名は日記のなかの文「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」より。 藤原兼家の妻となり子・道綱を授かる。 兼家の旧妻・源兼忠女の娘を引き取り、養女に。 道綱は平安時代、従五位下に叙爵、武官の右馬助・左衛門佐・左近衛少将を歴任。 花山天皇を出家・退位させた寛和の変では長兄・道隆と共に清涼殿から三種の神器を運び出し、父・兼家の摂政就任に貢献。 中納言、大納言と昇進。
源頼光とは平安時代に活躍した武将。 父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘。 満仲の長子で清和源氏の3代目。 満仲が武士団を形成した摂津国多田の地を相続、その子孫は「摂津源氏」とも。 異母弟に大和源氏の源頼親、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信。 居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際、春宮権大進に任命。 藤原道長の主催した競馬などに参加。 関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従う。 但馬国、伊予国、摂津国の受領を歴任。 受領として蓄えた財により一条邸を持ち、道長に多大な進物をした。
頼光四天王ら
道長の権勢の発展につれ、頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれ、弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築く。 頼光四天王らとともに6人で摂津大江山へ向かい夷賊討伐を行った。
京都市上京区内を流れる堀川に架かる一条通の橋。 別名、戻橋。 794年、平安京の造営に際し、平安京の京域の北を限る通り「一条大路」に堀川を渡る橋として架橋。 平安時代、堀川右岸から右京にかけては衰退が著しく、堀川を渡ることには特別の意味が生じ、様々な伝承や風習が生まれた。 「撰集抄」巻七では、918年に漢学者三善清行の死去に伴って葬列がこの橋を渡ろうとした際、父の死を聞いた子・浄蔵が熊野での修行から急いで帰ってきて棺にすがって祈っていた。 すると雷鳴とともに清行が生き返り、父子が抱き合ったという逸話から、「戻橋」という名前の由来となった。
平家物語
平家物語では、渡辺綱が歩いていると、そこに女性が。 夜中で怖いので一緒に家まで来てほしいと頼まれ、馬に乗せた。 女性は鬼に変貌、綱の髪を掴んで愛宕山の方へ飛ぼうとしたが、鬼の腕を太刀で切り落として逃げた。 腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱屋敷に置かれたが、綱の義母に化けた鬼が取り戻したとも。 源平盛衰記では、高倉天皇の中宮建礼門院の出産の時、母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。
12人の童子
12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(安徳天皇)の将来を予言する歌を歌う。 童子は、陰陽師・安倍晴明が一条戻橋の下に隠していた十二神将の化身であろうと書かれている。 安倍晴明は十二神将を式神として使役、家の中に置いたが、彼の妻がその顔を怖がったので、晴明は十二神将を戻橋の下に置き、必要なときに召喚したという。 戦国時代、細川晴元により三好長慶の家臣・和田新五郎が鋸挽きに。
安土桃山時代から昭和時代にかけても
安土桃山時代、豊臣秀吉により島津歳久と千利休が梟首。 1597年、キリスト教禁教令の下、日本二十六聖人と呼ばれるキリスト教殉教者は豊臣秀吉によって見せしめに耳たぶを切断、殉教地長崎へと向かわされた。 嫁入り前の女性や縁談に関わる人は嫁が実家に戻ってはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習も。 太平洋戦争中、戦地から無事に戻ってくるよう願いを込めて応召兵とその家族はこの橋を渡ったとか。
食パンや総菜パンなどを製造販売する専門店。 店内はテーブル席があり、テイクアウトも可能。 1913年、創業。 創業当時、神戸市から良質なパンを取り寄せることが多かった。 内村鑑三の弟子で創業者の続木斉は1924年、日本人初のパン留学生としてフランスに渡り、本格的な国産フランスパンを製造開始。 1952年、日本初の包装食パン「デイリーブレッド」発売開始。
しば漬けカレーパン
しば漬けカレーパン
すぐきピロシキ
すぐきピロシキ
地方公共団体である京都府の行政機関(役所)。 1869年、東町奉行所跡から移転。 1871年、二条城にて開庁。 1885年、京都中学校の校舎に移転。 旧本館は重要文化財に指定。 敷地内には京都府警察本部、文化庁京都庁舎も。
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京都府京都市上京区下石橋南半町53−2 待賢門は平安宮外郭東側にあたる。 五間戸三間、瓦葺で棟に鴟尾を置く。 門は大宮大路に面しており、宮内に入る時には、この門で牛車を降りることが多かったとか。
京都府京都市上京区下石橋南半町53−2 1873年、上京区十九組区長の熊谷伝兵衛は、隣家の唖姉弟の教育を待賢小学校に依頼。 教師の古河太四郎らが開設し、わが国最初の聾唖教育が開始。 後に移転し、盲唖院と改称。
日本酒を製造販売する酒蔵。 芸能界で活躍する俳優・佐々木蔵之介の実家。 1893年、佐々木治郎吉が「佐々木酒造本家」として創業。 代表銘柄は「聚楽菊」。 1987年、 「佐々木酒造株式会社」として法人設立。 代表銘柄は聚楽第、聚楽菊、聚楽、古都、西陣、平安四神、まるたけえびすなど。
1601年、朝廷をはじめ西日本を管轄する江戸幕府の行政機関。 初代、板倉勝重。
平安京跡・京都所司代千本屋敷跡 二条公園は広場や遊具などが設置され、市民の憩いの場として親しまれている。 かつて平安京の太政官と宮内省、園韓神社が鎮座していた。 宮内省西面の南北築地基底部(地業跡)や溝とみられる遺構のほか、平安時代前期の遺物築地包含層からは当時の瓦や土器が発見。 1153年、古くから伝わる妖怪で怪鳥「鵺」がいた。 「平家物語」で登場する鵺は、顔は猿・胴体は狸・手足は虎・尾は蛇のような姿。 近衛天皇は困り果てていた。 侍臣の源頼政に射られた場所は、二条公園の付近という伝説も。 鵺の死骸から抜き取った矢を洗ったのが、「鵺池」であったとか。 公園内の鵺大明神では鵺を祀る。
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平安時代、当地に民部省が設置。 国家の重要な省庁である二官八省(中務、式部、治部、大蔵、刑部、宮内、兵部、民部)の一つ。 民部省は財政・租税一般を管轄。 被官として中央財政の収支を計算する主計寮と財政収支を監督する主税寮があった。 発掘調査では、「主税」銘の墨書土器も出土した。