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東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
大津宿肥前屋九左衛門本陣跡
〒520-0057 滋賀県大津市御幸町1
大津宿大塚本陣跡
大津宿大塚本陣跡
大津宿札ノ辻
札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人馬会所もこの角にあった。 ここは、東海道を北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、西へ行くと北国海道であった。
露国皇太子遭難之地
露国皇太子遭難之地
大津別院
書院は、本堂の背面にあり、本堂より21年後の寛永10年(1670)に建設された入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の建物である。コ字型の平面で、中央後方中庭に面して対面所、その左右には三室が直列する。
平野神社
祭神は精大明神で蹴鞠の祖神といわれている。古くから芸能の神として信仰を集めてきた。江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されている。
義仲寺
木曾義仲と松尾芭蕉の墓が並んである。 Wikipediaによると、 木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が義仲の墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。 先日、大阪にある松尾芭蕉の終焉の地を訪れた後、この寺に来たいと思っていました。 芭蕉は生前この寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび此処に滞在し、無名庵で句会も盛んに行われたとの事。 旅をすると度々、西行の歌碑と出会う。そしてそこは松尾芭蕉の歌碑とも重なる。 昨日も崇徳天皇白峯陵で西行に出逢えた。そこで西行は涙したという。 芭蕉が使っていた杖が展示されていたのは嬉しかった。
東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
南禅寺
南禅寺
北花山山田町大日如来
北花山山田町大日如来
亀の水不動尊
亀の水不動尊
天智天皇陵
天智天皇 山科陵 天智天皇が山科に狩にでかけ行方不明になっている。天智天皇がおは気になっていた靴が見つかった場所の天智天皇陵が造られた、との説もある。
月心寺
月心寺 今から650年程前に橋本関雪夫妻の別邸であり墓所。その当時のまま残されているお庭がある。小野小町終焉の地と言われている。
蝉丸神社
今昔物語 本朝世俗編 源博雅朝臣、会坂の盲の許に行く語、第二十三 逢坂の関に、一人の盲人が、庵をつくって住んでいた。名を蟬丸といった。若い頃、蝉丸は宇多天皇の皇子で、きわめてすぐれた琵琶を弾く才能をもった敦実親王の側で雑役を務めていた。敦実親王が弾く琵琶を側で聴いていてすっかり覚えてしまい、その琵琶の腕は評判になっていた。老いて盲人となり逢坂の関近くに藁屋を建て住んでいた。 醍醐天皇の御子にあたる兵部卿の親王のお子さんに源博雅朝臣という、やはり琵琶の名手がいた。その源博雅朝臣が琵琶の秘曲である流泉と啄木がどのようなものであるかを知りたく3年もの間、蝉丸の住む藁屋を通ったとある。
逢坂山関址
紫式部「源氏物語」の関屋散歩 常陸の国から京都に戻る常陸の介一行の中に空蝉がいる。逢坂の関で、源氏の一行とすれ違う風景が描かれている。須磨での願立てが叶ったことの礼参りに、源氏が石山寺へ詣でる途中の出来事。 源氏一行は、狭い街道を道幅いっぱいになって大勢やってくる。常陸の介の一行は、逢坂の関近くに車を停めて降り、杉の根方に牛を外した車の長柄を下ろし木陰で源氏の通過するのを見ていた、とある。 そんな風景が観たく、京都から旧道の狭い道を登り琵琶湖へと降りて散策を愉しみました。
安養寺
安養寺
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