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東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
勝蓮寺
勝蓮寺 寺を訪れた親鸞聖人の布教の記録があるとの事。また、17代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、武田方と内通したとの疑いを受け自刃。若宮八幡宮に首塚がある)との関係も深く、信康画像をはじめ多くの遺品が残されている。
親鸞聖人御旧跡柳堂碑
〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町宝珠庵16
矢作橋
岡崎宿の西入口は矢作川にかかる矢作橋となる。 矢作川は200Mほどの川幅があるが、江戸時代も川には橋が架かっていたそうである。 ここで日吉丸と名乗っていた幼い豊臣秀吉と盗賊であった蜂須賀小六正勝が出会った場所。そこで出会ったエピソードが面白い。
八丁味噌の郷
八丁味噌の郷 岡崎宿の西入口は矢作川にかかる矢作橋で日吉丸と名乗っていた幼い豊臣秀吉と盗賊であった蜂須賀小六正勝が出会った場所。そこで出会ったエピソードに出てくる八丁味噌屋は橋の東にあったとある。
東海道岡崎宿 西本陣中根家跡
東海道岡崎宿 西本陣中根家跡
誓願寺
永禄9年(1566)家康の官位勅許のなかだちをした泰翁のために、寺を建立した。境内に虎石と呼ばれる石があるが、家康(幼いころ虎童子といわれていた)がここで弓の稽古をした際、この石に腰をおろして休んだといわれている、との事。
諏訪神社
諏訪神社は誓願寺の東側の一角にあります。 大永3年(1523)に当時の岡崎城主松平信貞が岡崎城の守護として諏訪大明神を勧請したと伝えられ、宮司として国分八郎右衛門家を招き、塩座の特権も与えたともいわれています。 しかし、大永4年(1524)には松平清康が岡崎城を落とし、岡崎城の守護としての祭祀もなくなり、永禄9年(1566)家康が誓願寺を建てると誓願寺の守護的神社として格付けになっていきました。
岡崎宿伝馬歴史プロムナード
岡崎宿伝馬歴史プロムナード
秋葉山大権現常夜灯
秋葉山大権現常夜灯
岡崎二十七曲り碑
岡崎二十七曲り碑 旧東海道岡崎宿では、27回も折れ曲がっているとの事。やはり見通しを悪くして、敵の視界を狭めるという、防衛上の理由。
東海道散歩その2 (三条大橋から新居宿)
東海道五十三次 宿場を歩く。 ファイルが大きくなったので日本橋から浜松宿までの東海道散歩その1と京都三条大橋から舞坂宿までの東海道散歩その2に分けました。
有松天満社
有松天満社 菅原道真公を祀る。元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1798)この地に奉遷せられ、当地新興特産の絞り業最盛期を迎えて文化7年(1810)八棟造りの荘麗な社殿が建立され、以来絞り産業の町、有松の産土社と仰がれている。
服部家住宅
服部家住宅 当住宅は、旧東海道に面する町屋建築の遺構であり、有松における絞問屋として代表的な建築である。主屋は塗篭造で卯建を設け、倉は土蔵造で腰に海鼠壁を用い防火対策を行っている。服部家は屋号を井桁屋と言う。
寂応庵跡
寂応庵跡 曹源寺のホームページによると、「慶応元年(1865)知多郡北崎村(現 大府市北崎町)の素封家浜島卯八の三女「とう」が寂應和尚の感化を受け、当時の東海道の街道を行き来する旅人の難儀を救わんと剃髪して仏門に入り明道尼と改名し、東海道の街道に面した落合(現 新栄町1丁目)の集落に浜島卯八の援助で寂應庵を建立した。その庵を東海道を旅する人のための無料休憩所として毎日お茶の接待を行い人々の心身を癒した。」とある。
阿野一里塚
阿野一里塚
知立神社
知立神社 旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられたとの事。
知立宿本陣跡(池鯉鮒宿本陣跡)
池鯉鮒宿本陣跡
池鯉鮒宿問屋場之跡碑
池鯉鮒宿問屋場之跡碑
東海道 池鯉鮒宿
東海道 池鯉鮒宿
池鯉鮒宿の松並木
池鯉鮒宿の松並木
無量寿寺
無量寿寺 Wikipediaによると、無量寿寺の所在地である八橋は、平安時代の歌人在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように、伊勢物語の昔から知られるカキツバタの名勝地である。花札の5月の10点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルである。また、京都の銘菓八ツ橋は一説にはこの八橋にちなむとされる。
八橋かきつばた園
八橋かきつばた園 Wikipediaによると、無量寿寺の所在地である八橋は、平安時代の歌人在原業平が「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」と句頭に「かきつばた」の5文字をいれて詠んだように、伊勢物語の昔から知られるカキツバタの名勝地である。花札の5月の10点札「菖蒲と八ツ橋」(「杜若に八ツ橋」とも)は当地がモデルである。また、京都の銘菓八ツ橋は一説にはこの八橋にちなむとされる。
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