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名古屋城の城下町を散策
まいどまいど! 愛知県の名古屋市を代表する観光名所の一つが、名古屋城やおまへんか。 立派な名古屋城は今日も名古屋市内を見下ろしてはりまんな。 近くには愛知県庁舎や名古屋市役所もあり、古くから名古屋市内の中心地として発展してきました。 また、愛知県を代表する繁華街の一つといえば、栄やおまへんか。 ここにはぎょうさんの商業ビルが立ち並び、ファッションにグルメに、ぎょうさんのお店が立ち並んではります。 その他、庶民の台所として古くから親しまれてきた大須商店街もあり、ぎょうさんの観光客が訪れてはりまんな。 大須商店街の奥には大須という地名の由来ともなった大須観音さんがいたはりまして、今でも広く信仰を集めてはります。 そんな大須商店街には今も昔も庶民の味として愛されてきた老舗がおます。 そんな老舗の味を堪能しつつ、次にご紹介するのが、全国的にも珍しい信号機。 え?なんでこんなとこにあるねんやろ? え?これ、どないしてみたらええねんやろ? 初めて目の当たりすると、色んな不思議が思い浮かぶ(笑) さらに、愛知県を代表するシンボルタワーとして親しまれてきた名古屋テレビ塔もあり、観光名所としての一面も。
栄
名古屋の繁華街、栄地区。 東西方向の広小路通と南北方向の大津通が交わる栄交差点を中心として繁華街を形成し、久屋大通公園やテレビ塔、立体公園オアシス21、愛知県立美術館・愛知県芸術劇場などが入る大型文化施設愛知芸術文化センターがある。 松坂屋、丸栄、三越といった名古屋の3Mとも呼ばれる百貨店(名古屋駅にある名鉄百貨店を加えて4Mともいう)が揃う。 江戸時代、人家もまばらな地区であった。 明治時代、県庁・学校などの官公施設や銀行・料亭などの商業施設が作られるようになり、広小路通沿いに路面電車が開通すると、町として大きく発展。 繁華街を形成するようになった。
合名会社納屋橋饅頭万松庵 本町通店・工場直営
名古屋を代表する名古屋銘菓の納屋橋饅頭万松庵さん。 1886年、名古屋城築城と同時に開削された運河「堀川」のたもとで、和菓子店「伊勢屋」が創業。 1610年、堀川に架かる納屋橋が架橋されて以後、架け替えられ、その記念として夫婦三代、揃った家伊勢屋が、橋の渡り初めをした。 以来、屋号は納屋橋饅頭となったとか。 万松庵の初代は、当時の納屋橋饅頭に奉公、大正時代に暖簾分けし、納屋橋饅頭万松庵が開店。 ここでは、酒饅頭の納屋橋饅頭をはじめ、あずきパイやどら焼き、アイス最中などが店頭に並ぶ。
大須商店街連盟
後醍醐天皇により北野天満宮が創建され、同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺が、大須観音の始まり。 名古屋開府による名古屋城築城及び城下町の整備に伴い、萬松寺(織田信秀が開基)、真福寺寶生院(大須観音)が現在地に移転し、門前町として発展した。 役者芸人の宿が置かれ、後に遊女を置く私娼も現れた。 北野新地が公認の遊廓に指定されたが、西大須に移転した。 萬松寺が寺領の山林を一般の商業用地として開放し、劇場、演芸場、映画館などがの歓楽街として栄えたが、大須大道町人祭を開催した。 後に、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ電気街として発展し、日本三大電気街の一つとなった。
信号機
全国的にも珍しい変わった信号機があるという。 場所は、赤門通と裏門前町通が交差する愛知県名古屋市中区大須3丁目付近。 赤門通と裏門前町通とがちょうど交差する場所の上に4方向の車両用と歩行者用の信号機が設置されている。
宝生院(大須観音)
真言宗智山派の別格本山。 正式名称は北野山真福寺宝生院。 本尊は聖観音。 日本三大観音の一つ、観音霊場で、なごや七福神の一つ、布袋像を安置。 1190年代、尾張国中島郡長庄大須に中島観音が創建。 1324年、後醍醐天皇が岐阜県羽島市桑原町大須にある大須郷に北野天満宮を創建。 1333年、同社の別当寺として僧の能信が創建した真福寺が当寺の始まり。 後村上天皇により伽藍が建立、勅願寺となった。 四天王寺(大阪府大阪市天王寺区)の観世音菩薩を移して本尊とした。 三代目住職の任瑜法親王の時、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃六ヶ国の真言宗寺院を末寺とした。
コウノトリと出会い、お菓子の神様に祈願。そして、カバンラッピングバスに乗車!?
まいどまいど! 国の天然記念物コウノトリのふるさと兵庫県豊岡市。 ここには絶滅危惧種に指定されたコウノトリの繁殖を目的とした施設がおまして、人工繁殖に成功、ついに野生化に向けて大きな一歩を踏み出し始めました。 豊岡出身のコウノトリが皆さんの町にやってくるのも近い将来かもしれまへん。 そして、一風変わった神社と言えば中嶋神社やおまへんやろか。 中嶋神社の祭神はお菓子との縁が深いとされ、広く信仰を集めてはりますねん。 その他、「まちおこし」にも積極的なのが、カバンストリート。 27の商店が軒を連ね、14店舗でカバンを販売。 2009年、経済産業省・中小企業庁の「新・がんばる商店街77選」に選定されましたんや。 日本でも珍しい「かばんの自動販売機」が設置され、様々な種類の鞄が販売されてまんねん。 ほんで、それだけやおまへん。 全方向に鞄の模様のラッピングが施され、豊岡カバンバスとして市内を走ってはりまっせ。 その他、豊岡の玄関口の一つである豊岡駅や駅前の商業施設など、充実したお出かけプランを皆さんにご案内していきまひょ。 ほな、まいどおおきに!
カバンストリート
奈良時代、新羅王子(天日槍命)によって、柳細工の技術が伝えられた。 「柳筥」は正倉院上納。 江戸時代、豊岡藩の独占取扱品として、柳行李の生産が盛んとなった。 1668年、京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まり。 明治時代、第2回内国勧業博覧会に八木長衛門が行李鞄を創作出品。 第5回内国勧業博覧会に遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が出品。 服部清三郎の「鞄型柳行李」、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。
大石理玖の生家跡
江戸時代、赤穂藩家老大石良雄の妻。 1669年、但馬国豊岡藩京極家の家老石束毎公の長女として誕生。 香林院 理玖(りく)の母は佐々信濃守休西の娘。 石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、京極家中一番の名門家。 身長は180cmと大柄であったとか。 1687年、播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老の大石良雄と結婚、赤穂城内の大石邸へ移住。 長男松之丞(大石良金)、長女くう、次男吉千代、次女るり。 徳川将軍綱吉から家宣に代わり将軍宣下を行ったことにより、大三郎は安芸国広島藩の浅野本家に仕官。 次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚。
豊岡陣屋跡
豊岡陣屋は豊岡藩の藩庁。 1668年、京極高盛が移封、豊岡城址の山麓に築かれた。 豊岡城の城主であった杉原氏は関ヶ原の戦いで西軍に与していたが、浅野長政の娘婿であることから、執り成しで旧領安堵されたが、3代藩主重玄の時嗣子なく改易となり、天領となった。
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