
京都最古の寺院。 創建:推古天皇11年(603) 山号:蜂岡山 宗派:真言宗 本尊:薬師如来、聖徳太子 開基:秦 河勝(はたの かわかつ) 中国から渡来した秦氏の氏寺。 国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。 『日本書紀』によれば、渡来氏族の秦河勝が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建したとされる。
楼門
【 秦氏⠀】 中国から渡来し、葛野郡(現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠としていた。 養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。 ◎秦氏関係の神社 ①木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)…広隆寺近く ②梅宮大社…右京区梅津 ③松尾大社(ともに酒造の神)…西京区嵐山
楼門
元禄15年(1702)建立の楼門。 とっても立派な楼門✨
講堂 屋根瓦
楼門をくぐって右手側。 講堂は、永万元年(1165)の再建。 講堂への入堂はできません。 屋根の鬼瓦がかわよい。
本堂 2度の全焼
【 本堂の歴史⠀】 弘仁9年(818年)の火災で全焼 創建当時の建物は残っていない。 承和3年(836年) 住職に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、広隆寺中興の祖とされている。 久安6年(1150年)の火災で再度全焼 比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。 現存する講堂は、万元年に完成した建物の後身と考えられている。
本堂
上宮王院太子殿(じょうぐうおういん たいしでん) 享保15年(1730)の建立。 入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の宮殿風建築。 本尊の聖徳太子立像が安置されてます。 秘仏で、毎年11月22日(太子の命日)に開扉されます。 聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った33歳時の像とされます。
本堂の右端(東)
手前の象形の柱、趣ある額たち✨
本堂の正面
青銅には龍が。
本堂の左端(西)
この眺め、ショット、好き😍
本堂の左端 外側
本堂の左側(西)の通路に沿って、さらに奥へ。 「聖徳太子」等の名前を見るだけで趣感じます。
桂宮院
上宮王院太子殿から西に進んだ境内のはずれにあります。 建長3年(1251)に中観上人が聖徳太子を祀るために再興したとされます。 拝観できません。
本堂の裏
ちょっとした空間が趣ある。
霊宝館へ
ここからは拝観料が必要。 いざ!
霊宝館
境内北に、仏像を中心として広隆寺の文化財を収蔵展示する霊宝館があります。
十善戒
霊宝館への順路途中にあります。 これを読んで、自分自身を見つめる機会に🌷
新霊宝館と庭
新霊宝館
昭和57年に建設。 弥勒菩薩半跏思惟像二体、不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう:天平時代作)、十一面千手観音像(平安時代作)、十二神将像、阿弥陀如来坐像、聖徳太子半跏像などを間近に見ることができます。 ★広隆寺に行ったら必ず行くべき!!★ 拝観料が安く感じる程の圧倒的な異空間!! 息を呑むほどの神聖な空間🌱 木造弥勒菩薩半跏像(国宝) 木造阿弥陀如来坐像(国宝)など
新霊宝館前のお庭
手入れが行き渡り、美しい✨
本堂裏
新霊宝館からの帰路。 桜と本堂のマッチが美しい✨
創建:奈良時代 774年 →近隣にある神護寺の別院(隠棲修行の場所) (実質は鎌倉時代 1206年) 山号:栂尾(とがのお)山 宗派:真言宗 単立 本尊:釈迦如来 開基:明恵(みょうえ)上人 (実質の開基)
裏参道
裏手の駐車場・バス停から境内に入る道。 苔に覆われた石垣と草木の中をつづら折にのぼっていく。 一木一草をそのままに、手を入れすぎない自然が美しい。
国宝 石水院へ
【 石水院⠀】 創建当時(1202)、石水院は金堂の東にあった。 安貞2年(1228)の洪水で石水院は亡ぶ。 明治22年(1889)に現在地へ移築され、住宅様式に改変された。 名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵上人時代の唯一の遺構。
石水院
石水院の門を入ると、目の前にある小さい扉。 この奥に、石水院の庭が広がっています。 この小さな扉を横目に、石水院の入り口へ。
石水院の入り口
社務所 兼 石水院の入り口。 いざ!
石水院入り口の横に。
【 明恵上人⠀】 1173-1232年 八歳で父母を失い、高雄山神護寺の文覚について出家。 東大寺で華厳を学ぶ。 勧修寺の興然から密教の伝授を受ける。 建永元年(1202)後鳥羽院より栂尾の地を賜り、高山寺を開く。
社務所↔石水院 渡り廊下
【⠀明恵上人 】 明恵の教学…華厳を基礎として、真言密教を融合した厳密(ごんみつ)と呼ばれる独自の宗教観。 実践的な修行を重んじ、中でも仏光観と光明真言とが重視される。 釈迦、仏眼仏母、文殊、弥勒、春日明神などに深い信仰を寄せていた。 →高山寺の宝物が多岐にわたることは、明恵の信仰の多様性に起因するといえる。
石水院の庭
石水院の廂の間(ひさしのま)から撮った、庭の写真。 善財童子像のいる廂の間は撮影禁止のため断念😢 【⠀廂の間 】 かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。 欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。 落板敷の中央に、小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、善財童子の木像を置いたという。
鳥獣人物戯画
高山寺を代表する宝物。 現状は甲乙丙丁4巻からなる。 甲巻…擬人化された動物 乙巻…実在・空想上を合わせた動物図譜 丙巻…前半が人間風俗画、後半が動物戯画 丁巻…勝負事を中心に人物を描く。 甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。 甲・乙 平安時代後期の成立 丙・丁 鎌倉時代の制作 鳥羽僧正 覚猷(かくゆう)の筆と伝えるが確証はなく、作者未詳。
相撲
創建:1461年(寛正2年) 山号:大亀山 宗派:臨済宗天龍寺派 寺格:天龍寺塔頭(たっちゅう) 本尊:十一面観音 開基:細川頼之 【宝厳院の歴史】 室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、聖仲永光禅師を開山に迎え創建。 創建時は、現在の京都市上京区の位置にあり、広大な境内を有した寺院であった。 応仁元年(1467)~文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した応仁の乱により、宝厳院もまた焼失。 その後変遷を経て、天龍寺塔頭弘源寺境内に移転。 2002年現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興。
大亀山 宝厳院
【塔頭(たっちゅう)とは】 禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後、その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。
宝厳院 山門
【日本の塔頭の歴史】 開山など、禅寺にとってとりわけ重要な人物の墓所。 ↓ 墓所だけでなく高僧が住んでいた小庵やゆかりのある地に、その偉業を後世に伝えるために設立。 ↓ 安土桃山時代…各地の大名が自身が教えを受ける僧の隠居所を寄進して小寺院と称する例が増え、これらも後に塔頭とされた。 ★塔頭は由来に示すとおり、塔頭由来の師の門徒の格別の崇敬を集め、実質的にはその門派の独立した一寺として発展。
獅子吼(ししく)の庭
庭園「獅子吼の庭」 室町時代に中国に二度渡った禅僧、策彦周良禅師によって作庭。 嵐山の景観を匠に取り入れた借景回遊式庭園です。 ★春・秋の特別拝観日のみ一般公開★ ★「獅子吼」…「仏が説法する」の意味。 庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって、人生の心理、正道を肌で感じ、心が大変癒する庭。
瀧門瀑(写真 真ん中奥)
中国の故事にある「登龍門」の由来である「鯉が三段の滝を登って将に龍に化す様」を現しており、鯉が死を賭してまで龍になるべく努力する様子にならって、修行僧が観音の知恵を得る(悟る)まで、努力をしなければならないことを、借景回遊式庭園のなかで表現している。
植物
【ひとつ上の庭園全体説明】 須弥山を表す築山、その前に人生を表す苦海(空池)。 対岸に「雲上三尊石」。 苦海の中庭には「此岸」から「彼岸」に渡る船石、仏の元へ渡る獣石が配置。 左奥に「登竜門」より「龍門の滝」がある。滝壺の中に鯉魚石を配置し、修行の厳しさを表現。
スポット内のおすすめ
この突き当たりを右へ。すると…
無礙光堂(むげこうどう)
無礙光堂が見えてきます。 永代供養堂とも言います。
無礙光堂の正面
【永代供養とは】 お寺が永代に渡りその方の遺骨や位牌をお祀りし、亡くなられた方を供養することを指す。 少子化、高齢化でお墓を継承することも困難になりつつ有る現代社会において、永代供養をされる方も増えてきているよう。
宝厳院 本堂
【宝厳院本堂】 平成20年の創建。 ◎本尊…十一面観世音菩薩。 ◎脇仏 ①三十三体の観世音菩薩 ②足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像 西国三十三所巡りに等しい功徳があると伝えられている。 ◎襖絵「風河燦燦三三自在」 田村能里子画伯筆の作品。 58枚の朱色の襖絵。朱色は命が宿り燃えている色。 描かれた33人の老若男女は、脇仏に同じく観音様が衆生を救うために現世に現れる姿とされる。
書院
【書院】 大正8年に創建。 大正から昭和初期の数寄屋建築の黄金期に建てられたなかでも、近代数寄屋建築の礎となる建物。 書院の前には小川が流れ、風情あり😌💭
書院から本堂の図
水の音、小鳥のさえずり、そよ風で木々が踊る音、木漏れ日… 癒されます😌🌷
碧岩は
【碧岩】 2億年前の海底に堆積した微生物やプランクトンが水圧で圧縮されて出来た「岩石(チャート)」。 大堰川上流、有栖川上流、龍安寺の山手より産出。 硬度の高い岩石で7番目に準拠する。(ダイヤモンドは10) パワーストーンとしても有名。
新緑
美しい〜🌱✨
獅子岩
【獅子岩】 碧岩と同じで、石質は「岩石(チャート)」。 獅子の顔をしているところから、獅子岩と命名されている。
苔と羅漢
スポット内のおすすめ
スポット内のおすすめ
茶席「青嶂軒(せいしょうけん)」
書院と同様にも大正時代の建物で、近年に修復。 コロナの影響か、やっておらず…。
嵐山羅漢
【羅漢とは】 釈尊の弟子で崇高な修行者「悟りを得た人」を意味する。 「五百羅漢」を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、有縁無縁の菩提を弔うもの。
嵐山羅漢
山門の外にあるため、通りすがりの人をも魅了します✨
正式名:覚雄山 大福田宝幢禅寺 鹿王院 創建:1380年(康暦2年) 山号:覚雄山 宗派:臨済宗系単立 本尊:釈迦如来 開基:足利義満 開山:春屋妙葩(普明国師 義満の師) ◎ 宝幢寺 創建のきっかけ 康暦元年(1379年)のある夜、足利義満は「そなたは今年中に大患をわずらうが、宝幢如来を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるであろう」との夢告を受けた。
山門
【鹿王院の歴史】 鹿王院は、足利義満が建立した宝幢寺という寺の塔頭(禅寺等で歴代住持の墓塔を守るために建立される寺院)であった。 宝幢寺は応仁の乱で廃絶し、その後は開山の塔頭であった鹿王院のみが残って寺籍を継いでいる。 鹿王院は寛文年間(1661年 - 1673年)、酒井忠知(徳川四天王の一人である酒井忠次の子)によって再興。 忠知の子である虎岑玄竹(こしんげんちく)が中興開山となった。
総門をくぐると…
山門から中門までは、天台烏薬などの銘木が植えられている。 総門をくぐると、新緑のトンネルが美しい🌱✨ 【山門】 切妻造、本瓦葺き。 創建時に近い南北朝時代の建立と推定。 義満の筆「覚雄山」の扁額がかけられている!✨ 一休和尚も、12才の頃、この山門をくぐったそう。
中門
中門
中門の奥にお庭が見えて、奥の世界に想像が膨らみます😌💭✨
中門をくぐると、前庭
ほーー
前庭
まっすぐ歩き、拝観料を収めて、中へ。 行ってみよう!!
舎利殿と本庭
【本庭】 本庭は舎利殿前に広がる、嵐山を借景とした庭園。 苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園である。
客殿
正面に足利義満筆の扁額「鹿王院」が掲げられている。客殿の裏は後庭で、茶庭と茶室「芥室」がある。
庭園
前庭、本庭、後庭で構成される。 本庭は舎利殿前に広がる、嵐山を借景とした庭園で、苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園である。 室町時代の石組や樹齢400年の木斛の銘木がある。舎利殿が建立された宝暦13年(1763年)頃の造園と推定される。
足利義満筆!!
足利義満筆の扁額「鹿王院」✨ こんなに近くで見られるなんて…🥺💕
客殿から本殿へ
客殿から本殿、舎利殿へ向かいます! 瓦敷の歩廊です。
舎利殿と本庭
歩廊の右側
この奥に茶庭と茶席があると思われます。 立ち入り禁止でした。
本堂前から客殿を
歩廊を進むと、まず本堂にたどり着きます。
舎利殿と松
【本堂(開山堂)】 延宝4年(1676年)の建立。 本尊 釈迦如来坐像を安置する仏殿。 開山 春屋妙葩の塔所でもある。 本尊像のほか、 ・普明国師(春屋妙葩)像…開山 ・足利義満像…開基 ・虎岑和尚像…中興の開山 などを安置する。国師像の真下に宝篋印塔がある。 運慶作の釈迦及十大弟子も祀られる。 ※写真撮影禁止エリア!!
舎利殿
【舎利殿】 宝暦13年(1763年)の建立。 堂内の厨子には、源実朝が宋から将来したと伝えられる仏牙舎利を安置した多宝塔を安置する。 普段は非公開!! だが、この仏牙舎利が日本の博多に無事着船したのが10月15日であったため、その日を「舎利会」(しゃりえ)と定め、特別公開している。 ※写真撮影禁止エリア!!
客殿
帰ろうか。 いやー、いい所だった。 自分以外に人が居なくて、尚、ゆったりできてよかった。 ※仏教研修のため、女性の禅道場が開設されています🌱
京都最古の神社。 創建:701年 太古、この地方一帯の住民が松尾山の神霊を祀って、生活守護神としたのが起源。 御神祭:大山咋神(おおやまぐいのかみ) 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
二の鳥居
【⠀御由緒 】 5世紀頃、朝鮮から渡来した秦(はた)氏がこの地に移住 ↓↓↓ ①山城・丹波の両国を開拓し、河川を治めた →農林産業を興した! ②松尾の神を氏族の総氏神と仰いだ →文武天皇の勅命により、 この地に社殿を創建(701年)
楼門
【 皇城鎮護の社⠀】 秦氏の富と力により、奈良→平安京、長岡京に都が移ったとされる。 →平安時代、松尾大社に対する皇室のご崇拝は厚かった。 →正一位の神階を受けた →加茂両社と共に皇城鎮護の社とされた。
一ノ井川と石橋
楼門をくぐると、木々の緑と山吹の黄色が美しく、山際の自然の香りが気持ちいい〜😌✨
一ノ井川の山吹
山吹 4-5月初旬に境内一円に美しく咲き乱れます。 松尾大社は、山吹の名所でもあります。
歴史的風土保護地
【⠀御祭神 】 ① 大山咋神(おおやまぐいのかみ) 山の上部に鎮座され、山一帯を支配する大主(神)。 比叡山と松尾山を支配している神てあったと言われている。 ②市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 福岡県の宗像大社に祀られている三女神の一神。 古から、海上保護の霊徳を仰がれている神。
手水舎
霊泉の亀の井がある松尾大社ならではの、手水舎。 山吹に囲まれている手水舎ということもあり、水がとても綺麗に感じます。
亀さん
拝殿
ここで行われる祭儀を見てみたい…💭
本殿
【 本殿⠀】 現在の本殿は 室町時代初期(応永初年)に建造→天文11年に大修理 【⠀松尾造り 】★重要文化財に指定★ 屋根が両流造りで、千木・鰹木を置かず、箱棟の両端が唐破風型となっている。
スポット内のおすすめ
藁で作られた亀がおります🐢💕
相生の松
ご神木として人生を全うした、相生の松。
有料ゾーンの松風苑へ!
本殿から続く釣殿・中門・回廊は、 神庫・拝殿・楼門と共に、江戸時代の建築。 【⠀松風苑 】 3つの庭は、明治以後の現代最高の芸術作品とされる。 昭和の庭園学の第一人者、重森三玲氏が創作。 庭に用いた200個あまりの石は、全て徳島・香川・愛媛の緑泥片岩(りょくでいへんがん)。 ◎重森三玲氏 伝統を重んじながらも、現代的な表現を目指した。 終生の目標「永遠のモダン」
曲水の庭
【⠀曲水の庭 】平安風 松尾大社が最も栄えた平安時代を、現代風に表現。 奈良・平安時代に造られた曲水式庭園を思わせる構成の庭で、空間上部には開放感があります。 和歌を詠む平安時代の人々が、目に浮かぶよう…。
上古の庭
【⠀上古の庭 】磐座(いわくら)風 存在感のある岩々は、「神々の意思によって据えられたものである」と、三玲氏は説明している。 神々を巨石によって象徴している。 神秘的で厳格な雰囲気✨
松尾山と霊亀の滝
社殿背後の松尾山も、境内に含まれます。 夏でもここは涼しい〜空気が美味しい🌷
霊亀の滝
この滝の近く(手前)に「亀の井」という霊泉があります。 ★霊泉の水 = 酒に混ぜると腐敗しない★ →醸造家は、この水を酒の元水として混和する →近世以降…醸酒祖神として、全国の酒、味噌、醤油、酢等の製造者から格別な崇拝を受ける。 ★霊泉の水 = 延命長寿、よみがえりの水★
天狗
霊亀の滝の岩に、天狗がいると言われてます。 マーキングしました! 天狗さん、見つけましたか??😉
神使の庭
秋ではないのに紅葉が… ちょっとした空間なのに、風情があります✨
スポット内のおすすめ
亀さんと鯉さん
蓬莱の庭
【⠀蓬莱の庭 】鎌倉風 昔、中国人が、「不老不死の島がある」と考えたのが「蓬莱の島」。 池泉回遊式庭園で、蓬莱の世界を表しています。 池は、鶴が飛んでいる姿になっていると言われてます。 三玲氏の遺志を継ぎ、長男が完成させた。 親子合作の庭園。 池には、大きさも色も揃った、綺麗な鯉が泳いでいます𓆝𓆟𓆜𓆞
お宮参りの祝い品
創建:1189年(文治5年) 御祭神:清原頼業(寶壽院殿、車折明神) アメノウズメ 社格:村社⇒単立 ★芸能神社が有名★ 【歴史】 頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。
芸能神社
【芸能神社】 天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀っている。芸能・芸術の分野で活動する人々より崇敬を受けている。 ※ 天宇受売命 日本神話において、天照大神が天の岩戸にお隠れになった際、演舞を披露することによって大いに貢献した女神様。 芸能人・著名人が奉納した玉垣がたくさん😳✨ 芸能・芸術の神として信仰があり、人気を得たい人にはもってこいの神社ですね!
芸能神社
名だたる著名人… 玉垣は『奉納料:13000円』を払えば申し込み可能。 2年間の掲載。
鳥居
【社名の「車折」の由来】 説① ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったため。 説② 後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったため。
手水舎
スポット内のおすすめ
6月下旬に茅の輪を設置する神社が多い中、こちらではひと足早く6月1日から設置されます。 6月の風物詩といえば、半年の罪・ケガレを祓い、残り半年の無病息災を祈願する「夏越の祓(なごしのはらえ)」。 境内や鳥居の下などに茅(ちがや)の大きな輪が設けられ、八の字を描くように“茅の輪(ちのわ)”をくぐることで厄が落ち、身が清められる。 その起源は1000年以上遡るという。
スポット内のおすすめ
【御祭神の清原頼業】 学問で有名な広澄流 清原氏の出。 平安時代後期の著名な漢学者・儒学者であった。 大外記の職を長年務め、晩年には九条兼実より政治の諮問を受け、兼実から「その才、神といふべく尊ぶべし」と評された。
本殿
本殿の天井
祈念神石
願いが叶った際にはお礼参り🌷 ①海、山、川、自宅・・などで石を1つ拾う or 社務所で販売されている「祈念神石」でお願いをした場合にはこの石を。 ⇒②その石にお礼の言葉を書く ⇒③神社に納め、古札納所に納める 一つでも願いが叶った時点で、お守りとお礼の石を返納する。
スポット内のおすすめ
この祈念神石には神主さんがお祓いをした石が入っており、「願い事をかなえるパワーストーン」と言われています。
八百萬神社
人脈拡大の御利益。
長い参道
参道の脇に、末社が並びます。
スポット内のおすすめ
【神明神社】 天照大神を祀る神社。 伊勢神宮内宮を総本社とする。 【天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)】 天満大神を祀る神社。
弁天神社
御祭神…弁天様(市杵島姫命) 弁天様は、琵琶を持った美しい天女の姿をしており、水辺に祀られることが多い神様。 美運・金運どちらも叶えてくださる😳💕
裏
裏側には、嵐電 車折神社駅があります。
- アプリで地図を見る
創建:987年(寛和3年) 山号:五台山 宗派:浄土宗 寺格:(不明) 本尊:釈迦如来 開基:奝然 開山:盛算(じょうさん)(奝然の弟子) ☆源融公 に縁のあるお寺☆ 紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。 ☆嵯峨大念佛狂言☆ (国指定重要無形民俗文化財) すべての役者が面をつけ、台詞がなく、身振り手振りだけで芝居が進行する点に大きな特徴がある。 鎌倉時代に、円覚上人が庶民に教義を説く為に作られたとされる。すでに500年近い歴史がある。 (毎年4月に開催。)
仁王門
【仁王門】(京都府指定文化財) 1784年(天明4年)再建。 1796年(寛政8年)瓦葺工事。 全体的に和様と禅宗様を折衷したもの。 初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀る。 ケヤキ造りの二階二重門。 嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」と称される。
金剛力士像
室町時代作。 綺麗な瞳。力強い赤い身体。
仁王門の裏
門の彫りを見るのが好きです💕 【清凉寺の歴史】 阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ) 釈迦如来を本尊とする清凉寺 ⇒この2つの寺院が関係している。 この地にはもともと、嵯峨天皇の皇子・左大臣 源融(822年 - 895年)の別荘・栖霞観(せいかかん)があった。 ※ 源融公 紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。
仁王門を抜けると
【つづき】 寛平8年(896年)源融の一周忌。 融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。 天慶8年(945年) 重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。 棲霞寺草創から数十年後。 中国・宋に渡り、五台山を巡礼した奝然(ちょうねん)という僧がいた。 985年、奝然は現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。
多宝塔と法然上人求道青年像(24歳 法然上人の像)
【つづき】 その釈迦像は、 ①釈迦の在世中に造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもの。 ②「インド - 中国 - 日本」と伝来した。 ⇒「三国伝来の釈迦像」 釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」と呼ばれている。 奝然は、永延元年(987年)日本に帰国。 京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺を建立しようとした。
仁王門と法然上人
【つづき】 都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした。 しかし延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)奝然は没した。 彼の遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が、棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺。
多宝塔
【多宝塔】(京都府指定文化財) 1700年(元禄13年)江戸・護国寺で、釈迦如来像の出開帳が催された。 この時の寄進により、江戸で造られたという。 部材は廻船により運ばれ、1703年(元禄16年)に清凉寺の境内に建立された。 四季折々の姿が美しい😍 桜、新緑、紅葉、雪と撮影する人が多い!
本堂(釈迦堂)(京都府指定文化財)
【本堂(釈迦堂)】 御本尊・三国伝来 生身釈迦如来像(国宝)を安置する。 945年(天慶8年)重明親王妃が栖霞寺の寺域に新堂を建立し、藤原氏に寄進した。 その時、等身大の釈迦像を安置した。(釈迦堂の名前の由来) 度重なる焼失 ⇒徳川五代将軍 綱吉・生母 桂昌院の発願&住友吉左衛門の援助 ⇒元禄14年(1701)年 再建 ★堂内の宮殿は華麗豪壮✨
スポット内のおすすめ
【 御本尊・三国伝来 生身釈迦如来像】(国宝) 日本三如来の1つに数えられる屈指の霊像。 三国伝来(インド⇒中国⇒日本)の生身のお釈迦様とされる。 その尊像は釈迦37歳の生き姿を刻んだもの😳✨ 尊像が模刻された時、5人の中国尼僧により、釈迦如来像体内に絹で作られた五臓六腑などが施入された。 ⇒中国において、千年以上も昔から、人間の身体の構造を理解していたことを示す貴重な資料✨
スポット内のおすすめ
参拝した当日は、ちょうどご開帳されていて、生で拝ませて頂きました😌👏✨ 運が良かったです! 釈迦如来の台座には銅鏡がはめ込まれ、像は前傾している ⇒額の白毫(びゃくごう)にはめ込んだ銀板に反射 ⇒光の反射で神々しさを表現している!!
黄檗隠元禅師 筆による「栴檀瑞像」
宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画がある。 また本堂正面 楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛ってある。
本堂北 回廊
は〜💕
鐘楼、梵鐘
弁天堂(摩尼殿)
【弁天堂】 建築年代は江戸末期ごろと推定。 本堂の北の池に面して建っている。 まわりは池遊式庭園。
方丈前庭
【方丈前庭】 枯山水式。小堀遠州作とされる。 苔地に方形の飛石、切石、奥に石が配され植栽がある。 旧大方丈は寛永14年(1637)に消失。 現在のものは享保年間(1716-1735)の造営。 寛永14年の類焼以前のものは六つで早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康&実母のおちかの方の寄進になるもの。
旧大方丈 の中
襖絵
阿弥陀堂
【阿弥陀堂】 文久3年(1863年)の再建。 本堂の東に位置する。 嵯峨天皇の皇子 左大臣 源融が山荘・棲霞観(せいかかん)を建て、後に棲霞寺と改めましたが、これが阿弥陀堂の始まり。
旧大方丈 を 阿弥陀堂側から。
小さな庭園の間に小道があります。
一切経蔵
【一切経蔵】 徳川中期に建立。 ふ大士&笑仏を祀る。 輪蔵に明版一切経を収めて、回す。 ⇒一切経を読んだのと同じ功徳があるとされる。 ※輪蔵 回転式書架のこと。経蔵の一種。 ※一切経 釈迦の教説と関わる、経・律・論の三蔵、その他注釈書を含む経典の総称。大蔵経(だいぞうきょう)。
鐘楼
江戸時代のもの。 梵鐘(京都府指定文化財) 文明16年11月吉日(1484年)の日付&寄進者& 足利義政・日野富子・征威大将軍 義尚・堺の商人 の銘がある⇒有名✨ 『嵯峨十景』のひとつ『五台の晨鐘』がこれ!!
豊臣秀頼公の首塚
昭和55年 大阪城の三の丸跡地の発掘現場から豊臣秀頼公の首を出土。 昭和58年 秀頼公再興の由緒をもつ清凉寺に納められた。 首には介錯の跡がある、とされる。 ※豊臣秀頼公 豊臣秀吉の三男。 秀吉の側室であった茶々(淀殿)の第二子。 秀頼は淀殿らと共に自害した(満21歳没)と伝えられている。 (毎年5月8日 豊臣秀頼公忌) 境内には他にも、開山 奝然上人・源融公・嵯峨天皇の墓があります。
創建:平安時代 山号:善入山 宗派:臨済宗 寺格:単立 本尊:千手観音菩薩 中興開山:黙庵周諭禅師
山門
【歴史】 〇平安時代…白河天皇の勅願寺として建立。善入寺と称した。 〇南北朝時代…夢窓疎石の高弟・黙庵周諭が入寺。 〇足利幕府二代将軍・足利義詮の保護により、伽藍が整備。以降、臨済宗の寺となる。 〇1367年 足利義詮が没する(37歳)と菩提寺となり、義詮の院号にちなみに「宝筐院」と改められる。 〇足利幕府時代は保護により隆盛であったが、応仁の乱以降は衰退し、明治時代に廃寺。 50数年を経て復興。
新緑の小路
宝筐院は、小路のある回遊式庭園の中に、伽藍があるような空間です。
青紅葉
は〜🌱✨ きもちいい。
苔
宝筐院の伽藍
古仏の木造十一面千手観音菩薩立像が、おられます。
伽藍 正面
屋根には、楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用いており、小楠公ゆかりの寺であることを示してます。
伽藍から西庭をのぞく
伽藍脇
伽藍 西庭
庭園
伽藍を出て、今から庭園を1周します! 【小楠公 首塚】 1348年 河内の国 南朝の武将 楠木正行は、北朝の大軍と戦い討死。(23歳) その首級を、生前の交誼(よしみ)により、善入寺に葬った。 後に黙庵禅師から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだ。
楠木正行と足利義詮の墓所
突き当たりに、楠木正行と足利義詮の墓所がある。 石の柵に囲まれて2基の石塔。 〇五輪塔…楠木正行の首塚 〇三層石塔…足利義詮の墓 墓前の石灯篭の書…富岡鉄斎。 「精忠」最も優れた志。 「碎徳」一片の徳。 ※足利義詮の徳の大きさを褒めている。 ↑敵将を褒めたたえ、その傍らに自分の骨を埋めさせたことは、義詮の徳全体から見れば一片の徳に過ぎない。
伽藍 裏
和洋折衷?笑
紫陽花
伽藍の北側に🌱 とっても綺麗に咲いてました🌷
創建:不明 山号:高松山 宗派:真言宗大覚寺派 院号:往生院 本尊:大日如来 開基:良鎮 『平家物語』にも登場する、祇王(平清盛に愛され、捨てられた、歌舞する女性芸人)の慈悲の尼寺。
スポット内のおすすめ
【歴史】 往生院…法然上人の弟子、良鎮によって創建。山上山下の広い寺域であったが、荒廃していき、尼寺の祇王寺のみが残る。 祇王寺…往生院の境内にある。祇王が母、妹・祇女とともに入寺した、慈悲の尼寺。 祇王… 平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子。『平家物語』にも登場。 ※白拍子…平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。それを演ずる芸人。
入口
【歴史 つづき】 明治初年、祇王寺の廃寺。 残された墓と仏像は、旧地頭の大覚寺に保存された。 大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画。 元 京都府知事 北垣国道氏 が祇王の話を聞き、 明治29年 嵯峨の別荘一棟(茶室)を寄付。 ↓↓↓ 現在の祇王寺の建物!!✨ これかの関係から ・真言宗大覚寺派 ・旧嵯峨御所 大覚寺の塔頭寺院
入口を抜けると…
新緑の木々と苔🌱✨ 木陰になっていて、涼しい。 木漏れ日も美しい😍 ここに立った瞬間、「この場所、わたし、好きだ」って思いました💕
入口 右手
こけの庭
苔
つくばい
草庵前にある、つくばい。
草庵
仏間にある仏壇には… 本尊 大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されています。 祗王、祇女の像は鎌倉末期の作。 作者は不詳。 目が水晶で鎌倉時代の特徴をよく表している。
本堂前の苔さん
控えの間
新緑と光✨
吉野窓(虹の窓)
吉野窓… 草庵の控えの間にある大きな窓。 影が虹の色に見えることから「虹の窓」とも称する。 季節ごとに彩りを変える吉野窓。
控え間 縁側からの景色
草庵 別角度
苔 種類の紹介
苔庭と草庵
スポット内のおすすめ
祇王寺祇女桜
旧 祇王寺祇女桜… 現在は切株となった樹齢150年の桜の樹。現存していた頃は、舞い散る桜の花びらが苔庭に美しい小紋模様を描いたといわれている。 ↓↓↓ 現在は入口に新たに桜が植えられた。
入口 大きいまつぼっくり
祇王寺墓地の入口にある碑には 「妓王妓女佛刀自の旧跡 明和八年辛卯正当六百年忌 往生院現住尼 法専建之」 とあって、この碑の右側に 「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」 と刻まれているのは祇王のことと思われます。 正面向かって ・左の宝篋印塔…祇王、祇女、刀自の墓。 ・右の五輪塔…清盛公の供養塔。 いずれも鎌倉時代に作られたもの。 (写真は無いです。)
正式名「小倉山 二尊教院 華台寺」 創建:承和年間(834-847年) 山号:小倉山 院号:二尊教院 宗派:天台宗 本尊:釈迦如来・阿弥陀如来 開基:嵯峨天皇(勅願) 百人一首にも詠われた小倉山のふもとに広がる二尊院。 寺名のもととなっている二尊は、 ◎極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遺の釈迦」 ◎彼岸へと迎える「来迎の弥陀」 の遺迎二尊。
スポット内のおすすめ
【歴史】 平安時代初期の承和年間(834年 - 847年) 嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師が建立。 以後、荒廃する。 鎌倉時代初期 法然の高弟、湛空らにより再興。 天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場となるが、中でも浄土宗の勢力が強く嵯峨門徒の拠点となった。 嘉禄3年(1227年) 法然の遺骸を天台宗の僧兵から守るため、法然廟所→二尊院までの移送時、六波羅探題の武士団らに守られた。
総門 (京都市指定文化財)
【つづき】 南北朝時代~ 御黒戸四箇院(廬山寺・二尊院・般舟三昧院・遣迎院)の一つとして、御所内の仏事を明治維新まで司る。 室町時代 応仁の乱で堂塔伽藍が全焼。 約30年後の1521年 本堂と唐門が第16世 恵教上人の代に再建。 【総門】 慶長18年(1613年)室町時代の建築。 伏見城の薬医門を角倉了以が貰い受けて寄進・移築。 総門には多彩な文様がある。
紅葉の馬場
春夏秋冬の彩りが広がる参道。 総門を抜けた先に広がる、真っすぐに伸びた参道は「紅葉の名所」。 約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられており、秋は赤や黄の色鮮やかな紅葉のトンネルを魅せてくれます。 小倉山を背景に、春は華やかな桜色に染まり、夏は色濃く重なる緑に覆われ、冬は霜に輝く木々が連なり、四季それぞれの風景を楽しめます。 帰り道、石段の上から眺める参道も見物です。
スポット内のおすすめ
勅使門
天皇の使いだけが通れた門。 本堂へと続く門は、天皇の意志を伝えるために派遣される使いの「勅使」が出入りする際に使われていた勅使門。 弓を横にしたような形で中央が高い「唐破風形」の屋根をしています。 かつては、勅使が訪れた時のみ開門していたため、格式高い特別な門です。 今日では参拝した誰もが通ることができますが、歴史的背景を知ると通るたびに厳かな気持ちにさせられます
本堂 (京都市指定文化財)
平成の大改修で、美しさ再び。 二尊を安置してある本堂。 室町時代 応仁の乱(1467-1477)の兵火で諸堂が全焼。 永正18年(1521年) 三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建。 本堂に掲げられている、後 奈良天皇の自筆による「二尊院」は、この再建時に与えられたもの。 平成28年(2016)には、約350年振りとなる平成の大改修が完了!
茶室「御園亭」
皇女の御化粧之間でお茶を味わう。 本堂の隣にある書院の奥に、春と秋の一時期だけ利用できる茶室があります。 ここは、後水尾天皇の第6皇女である賀子内親王の御化粧之間であったものが二条家に与えられ、その後、二尊院に移築されました。 皇女が使われていたお部屋とあって、繊細な欄間など上質な趣が漂います。 「御園」とは御所の庭を意味しています。
本堂と茶室の間の枯山水
紫陽花
季節によって、花が変わります🌷✨
スポット内のおすすめ
ししおどしの音を聴きながら… 紫陽花と新緑を見て…
スポット内のおすすめ
本堂の裏側へ。 本堂の外周を回ります。
本堂の裏側
本堂の横
紫陽花
本堂と弁天堂の間に🌷✨ 季節によって花が変わります!! 素敵〜🥰
紫陽花
弁天堂
弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂。 弁財天を祀る理由は当院の『二尊院縁起』に。 ↓ 第3世湛空上人の時代、現在の勅使門に「二尊院」の額があり、その額を夜々に門前の池(竜女池)より靈蛇が出て、字形や彩色が消えるほどに舐めてしまった。 これを防ぐため、湛空上人は靈蛇に自らの戒法を授けるため血脈を書いて池に沈めた。 竜女成仏の証拠として、千葉の蓮華一本が咲いた。
角倉了以像
(1554~1614) 父の医業を継がなかった、京都の豪商。 地元が嵯峨であり、墓所が二尊院にある。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削した。 また江戸幕府の命令により富士川、天竜川、庄内川などの開削を行った。 地元京都では商人としてよりも「水運の父」として有名である。 ※祖父は幕府の医者→金融(土倉)へ。次男(了似の父)に医業を継ぐ。
しあわせの鐘(鐘楼)
三回ついて、しあわせを願って。 慶長年間(1596〜1615)に建立。 梵鐘は慶長九年(1604)に鋳造。 平成4年(1992)に、開基 嵯峨天皇 1200年御遠忌法要記念として再鋳。 「しあわせの鐘」と名付け、 ★「自分が生かされているしあわせを祈願」 ★「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」 ★「世界人類のしあわせのために」 と、鐘を三つ撞いてそれぞれに祈願する。
湛空廟 と 石段
石段の先で出会う、石碑と風情。 本堂としあわせの鐘の間に、木々に囲われた石段があります。 真っすぐに上がった先に待ち受けるのが「湛空廟」。 二尊院で教えを広めた僧、湛空上人の碑を収めています。 建長5年(1253)に中国の石工によって彫られた碑と思われ、碑堂は室町時代末期の建築として京都市指定文化財になっています。
湛空廟(京都市指定文化財)
ここは小倉山の中腹にあたり、景色もよく、澄んだ空気を味わえます。
山道
湛空廟、向かって左手に進む。 景色がいいというので、山道を1-2分だけ進む。
時雨亭跡
小倉山荘とも呼ばれる。 藤原定家が小倉百人一首を作成した場所とされている。 神聖な雰囲気を感じる✨
嵯峨を一望
時雨邸跡の前方で、嵯峨を一望。 京都タワーも見えました!
創建:1596年 山号:小倉山 宗派:日蓮宗 本尊:十界大曼荼羅 開基:日禛上人 寺名由来は「常寂光土」という仏教用語。 仏様の住む世界は四つあって、その中でも一番の理想郷✨という意味。
山門
【山門】 江戸後期に作り変えられたもの。 閉門しても墨色に塗られた角柱の格子の間から参道が見える開放的な山門。 【歴史】 慶長年間(1596〜1614) 大本山本圀寺 第16世 究竟院 日禛上人(尊覚)により開創。 【日禛上人】 幼少期から師事した本圀寺を出て、小倉山の地に隠栖、常寂光寺開創。 小倉山は、古くから歌枕の名勝として名高く、皇族や貴族の離宮、山荘をかまえる景勝地として有名であった。
仁王門
【上人と角倉了以】 小倉山一帯の土地は、高瀬川開削で名高い角倉一族の所有であった。 上人からの依頼により来住氏(瀬戸内水軍の旗頭) 配下の船頭が備前から召集され、角倉了以の指揮に従ってその舟夫となる。そして丹波保津山 諸村、嵯峨の人々に 行舟の術を教えた。 8~4月は寺が宿舎だったが、現在の角倉町を開拓し住居とした。 嵯峨の夏の風物となっている保津川下りの発祥✨
仁王門
元和二年(1616) 大本山本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を移築。 境内建築物の中で最も時代の古い建物。 茅葺の屋根がめずらしい。 ◎仁王門像 身の丈七尺、運慶の作と伝えられる。 仁王門像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願されている。
仁王門から本堂へ
新緑の木々と苔に囲まれた階段。 仁王門をくぐると別世界🌱✨
仁王門を抜けて 左側
仁王門を抜けて 右側
末吉坂🌱
本堂
慶長年間 小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し本堂とした。 江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根。 →現在の平瓦葺きの屋根は、昭和7年の大修理の時に改修されたもの。
本堂から階段を眺める
新緑のトンネルをくぐった足跡を眺める✨
嵯峨の景色
妙見堂
妙見菩薩は、北極星または北斗を象徴した菩薩様。 妙見尊星王、北辰妙見菩薩などといわれます。 第26世 日選上人代 妙見堂を建立、多宝塔の修復。 第27世 日逢上人代 諸堂を修復。 第28世 日暁上人代 妙見堂前に、鳥居が寄進建立。
竹林
竹林の小路を散策。
新緑の青紅葉 と 石階段
見ているだけでも心が清められる🌱
開山堂
多宝塔(国の重要文化財)
元和6年に建立。 棟札には、大檀家として辻藤兵衛尉直信、棟梁には藤原岡田仁助宗直、藤原沢村若狭守宗久、当時大工藤原土井中源烝宗次らの名が見える。 多宝塔は、平安時代に密教とともに登場した新しい形式で、多宝仏をまつる塔であった。 悠容迫らぬ安定感の中に躍動感を秘めた造形の絶妙さ。和様と唐様の折衷形式。
多宝塔 と 嵯峨の景色
見事な景色!!!
スポット内のおすすめ
本堂 裏側
池があります。 風情ある空間。
本堂 裏側
本堂 横
本堂 横
本堂 横
本堂
鐘楼
寛永18年 (1642) 当山第4世 光照院 日選上人 の建立。 梵鐘は第二次世界大戦中徴資に遭う。 現在の梵鐘は、昭和48年に青木一郎博士の音響設計により、古律黄鐘調の新鐘として鋳造されたもの。 毎日、正午と夕方5時に所定の数を突いています。
末吉坂
青紅葉と苔の美しさに心が浄化される…😌💭🌱 仁王門に向かって坂をくだり、帰っていきましょう!
仁王門 裏側
定家山荘跡 石碑
藤原定家の山荘の場所… 常寂光寺の仁王門北側~二尊院南側にあるという説に因んで。 ※他にも諸説ある。
展示場 前
山門と仁王門の間に展示場があります。 その前にお花が。
- アプリで地図を見る
創建:平安時代前期 御祭神:酒解神、酒解子神、大若子神、小若子神 ◎酒解神(さかとけのかみ) 大山祇神(おおやまづみのかみ)にあてられる。 酒造の守護神とされる。 ◎大若子神(おおわくこのかみ) 瓊々杵尊(ににぎのみこと)にあてられる。 ◎小若子神(こわくこのかみ) 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)にあてられる。 ◎酒解子神(さかとけこのかみ) 木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)にあてられる。 梅宮大社で本殿に祀られる酒解神を始め4柱は、いずれも梅宮大社特有の神✨
随身門(京都府登録文化財)
随身門は三間一戸の楼門。 随身門内の左右には随身として豊磐間戸命・奇磐間戸命の2神の神像が安置されている。 随身門は文政13年(1830年)の再造営時のものとされる。
スポット内のおすすめ
【梅宮大社の概要】 京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つの橘氏の氏神。 元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀された。 のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后・だんりんこうごう)によって現在地に遷座したとされる。
手水舎
現在地への遷座に関わった橘 嘉智子(かちこ)は、嵯峨天皇(第52代)の皇后として仁明天皇(第54代)を出産。 外戚としての橘氏の中興に貢献した人物。 社伝では、橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子を授かったとされる。 →安産祈願
猫
神社で飼われている猫さん
本殿&拝殿(京都府指定文化財)
境内の主要社殿は、元禄11年(1698年)の火災による焼失。 江戸幕府5代将軍綱吉の命で亀岡城主が奉行となり、元禄13年(1700年)に再建された。 ただし台風大破のため、拝殿は文政11年(1828年)のもの。 ※本殿(奥)、拝殿(手前の唐破風屋根)
磐座(いわくら)
古神道における岩に対する信仰のこと。 あるいは、信仰の対象となる岩そのもののこと。
見切石
お百度参りをするための石です。 お百度石と見切り石を何度も往復します。 お百度参りとはお百度石と見切り石を100回往復すると願いが叶うというものです。
神苑
神苑へ!出発!
神苑の門をくぐると…東神苑
“咲耶池”を中心とした池泉回遊式庭園。 アヤメ、カキツバタ、ツツジと晩春に最も彩られるエリア。
池中亭(茶室)
池の中央にある茅葺の茶室“池中亭”は江戸時代後期の1851年(嘉永4年)に建てられたもの。
東神苑
東神苑
参集殿
庭園奥には、池泉にせり出した和風建築“参集殿”が建ちます。 昭和天皇の即位式のために造られた茶室を下賜されたもの。
茶室“池中亭”
写真は残してないけども… ■北神苑 “勾玉池”を中心とした回遊式庭園。 初夏に花菖蒲やアジサイが咲くエリア。 ■西神苑 椿と梅苑と主体とした、冬〜早春に見頃を迎える庭園。 もあります。
創建:暦応5年/康永元年(1342年) 山号:正法山 宗派:臨済宗妙心寺派 寺格:大本山 本尊:釈迦如来 開基:花園法皇 開山:関山慧玄(かんざんえげん) 日本最古の紀年銘鐘、鐘楼(国宝)がある✨ 八方睨みの龍、雲龍図あり🐉 数多くの重要文化財✨
ようこそお参り
【妙心寺派】 日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。 平安京範囲内で北西の12町を占め、自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれている。 京都の禅寺 2種 ◎禅林…室町幕府の庇護と統制下にあった一派。 ◎林下(りんか)…禅林と一線を画す在野の寺院。 修行を重んじる厳しい禅風を特色とする 「林下」の代表的寺院 ⇒妙心寺、大徳寺✨
南総門(重要文化財)
【南総門(南門)】 慶長15年(1610年)建立。 切妻造、本瓦葺きの薬医門で北門とほぼ同じ構造である。 【創建まで】 妙心寺の地には、花園上皇の花園御所(離宮萩原殿)があった。 建武2年(1335年) 花園上皇は法皇となる。 花園御所(離宮萩原殿)→禅寺に改めることを発願。 大徳寺開山の宗峰妙超(大燈国師)の遺言により、花園法皇は、禅の師を 宗峰⇒高弟の関山慧玄とした。
妙心寺派の教え
【生活信条】 ①一日一度は静かに坐って 身と呼吸と心を調えましょう ②人間の尊さにめざめ 自分の生活も他人の生活も大切にしましょう ③生かされている自分を感謝し 報恩の行を積みましょう 【信心のことば】 ①わが身をこのまま空なりと観じて、静かに坐りましょう ②衆生は本来仏なりと信じて、拝んでゆきましょう ③社会を心の花園と念じて、和やかに生きましょう
三門(山門) (重要文化財)
【三門(山門)】 慶長4年(1599年)再建。 五間三戸(正面の柱間5間のうち中央3間が通路)の二重門(2階建門)である。 上層には円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する。
勅使門(重要文化財)
【勅使門】 慶長15年(1610年)建立。 山門、放生池など伽藍の正面に位置し、勅使や住持が普山する際に用いられる。 三門から振り返った時の風景。 南総門の隣に位置します。
浴室(重要文化財)
【浴室】 明暦2年(1656年)再建。 元々は天正15年(1587年)に明智光秀の叔父である大嶺院の密宗により光秀の菩提を弔うために建立された。⇒別名「明智風呂」 守護として跋陀婆羅菩薩が祀られている。
経蔵(重要文化財)
【経蔵】 延宝2年(1674年)再建。 伏見天皇の宸筆による毘盧蔵の扁額がある。 輪蔵の下部には四天王と梵天、帝釈天、阿形と吽形の金剛力士の八つの像がある。 また、傅大士像が祀られている。
仏殿(重要文化財)
【仏殿】 他の諸堂より新しく、文政10年(1827年)再建。 本尊…天正年間(1573年 - 1593年)作の釈迦如来。脇侍…摩訶迦葉と阿難尊者。 ※摩訶迦葉…釈迦の後継(仏教第2祖)とされる。 ※阿難尊者…釈迦の侍者として常に説法を聴いていた。摩訶迦葉の跡を継いで仏法第3祖とされる。
唐門
唐門の奥にある大方丈。 玄関から入ります!
スポット内のおすすめ
玄関(重要文化財)
【玄関】 承応3年(1654年)再建。 唐破風造、檜皮葺。 玄関の前に唐破風を備えた真前唐門がある。
スポット内のおすすめ
20分間隔で、ガイド付きの拝観をしています。 拝観場所は、法堂、大庫裏。いずれも写真不可。
スポット内のおすすめ
【大方丈(重要文化財)】 た1654年(承応3年)に建立。 本尊 阿弥陀三尊は、石清水八幡宮の 奥の院 に祀ってあったもの。鎌倉時代の傑作。 襖の画は、狩野探幽・狩野益信の筆。
大方丈 内装
【梵鐘 (国宝)】 戊戌(つちのえいぬ)年、つまり文武天皇2年・西暦698年にあたる年の銘文がある、日本最古の紀年銘鐘✨ 九州筑紫で制作されたものであり、大宰府の観世音寺の鐘と兄弟鐘である。 妙心寺には法堂の北西の鐘楼にかかっていた。 現在は法堂内に移設展示されている。★撮影禁止!! 音色が雅楽の黄鐘調(おうじきちょう)に合うことで著名。 録音された音色を聴くことができる。(ガイド付き拝観)
大方丈から唐門を眺む
【法堂(次ページの補足)】 ケヤキの柱は富士山麓より運ばれてきた ⇒丸太町通り 堂内には、国宝の梵鐘「黄鐘調の鐘」が展示。録音された音色を聴くことが出来る✨
法堂(重要文化財)
【法堂】 明暦3年(1657年)再建。 8年がかりで完成させた狩野探幽筆の雲龍図🐉 龍を踏まぬよう、立て掛けて描いたとされる。 約350年の間、一度も修復されず今に至っている😳✨ 別名「八方睨みの龍」…どの角度からも目が合う。 東からは龍が昇っていくように、西からは龍が降りてくるように見える。 絵具の原料に貝殻・炭・草木のしぼり汁など自然のものが使われているので変色が少ない 🌱
鐘楼
【鐘楼】 元々の鐘楼は元禄9年(1696年)に春日局によって寄進されたもので、重要文化財に指定されていたが、1962年(昭和37年)に放火により焼失した。 現在のものは、 春日局が塔頭・麟祥院に寄進したもの。 後に信行寺に移されたものを当寺に移築した。
大庫裏(重要文化財)
【大庫裏】 享禄元年(1528年)再建、承応2年(1653年)改築。 文化5年(1808年)杮葺き→瓦葺きに改める。 守護として韋駄天像が祀られている。 僧侶の食生活を支えた厨房の様子を見ることができる。
大庫裏 煙出し
【一大寺院群を形成】 妙心寺の塔頭は40数箇院。 妙心寺の塔頭や末寺は、龍泉派、東海派、霊雲派、聖澤派の「四派」。 妙心寺六祖雪江宗深の法嗣である景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖澤派)の4名を派祖とする。 これら4名にゆかりの塔頭、すなわち龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖沢院を四本庵と言う。
創建:1404年(応永11年) 宗派:臨済宗妙心寺派 寺格:妙心寺塔頭 本尊:無因宗因(妙心寺第3世) 開基:波多野重通 開山:無因宗因 初期水墨画の代表作である国宝「瓢鮎図」を所蔵する
退蔵院
【歴史】 応永11年(1404年) 越前国の豪族・波多野重通が妙心寺第三世・無因宗因を開山として千本通松原に創建する。 後に日峰宗舜により妙心寺山内に移される。 応仁の乱で妙心寺とともに焼失するが、後 奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉(きねんぜんゆ)により、慶長2年(1597年)に中興される。
山門(京都府有形文化遺産)
【山門】 江戸中期に建設された。 妙心寺塔頭でもバランスの整った美しい形状を残した「薬医門」。 ※「薬医門」…親柱二本、控え柱二本からなる。 当時、高貴な薬医にしか与えられなかった御屋敷門の形。
山門をくぐり受付
妙心寺の山内には40余りの塔頭があるが、退蔵院はそのうちでも屈指の古刹として知られている。 山門をくぐっただけで、新緑の美しさと非対称な空間に心惹かれる🌱✨
庫裡(くり)
非公開
スポット内のおすすめ
袴腰の大玄関(国の重要文化財)
【大玄関】 唐破風造りの変態で、非常に珍しいとされている玄関の様式😳✨ 破風の曲線が直線になっており、ちょうど袴の腰のようになっていることから「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれている。 また、この玄関は江戸初期の富豪・比喜多宗味居士(ひきたそうみこじ)より寄進されたもので、法要儀式、その他高貴な方々の出入り以外は使用されなかった。
方丈(重要文化財)
【方丈】 応仁の乱後、1597年に再建。 禅と剣の道には精神的な共通点があり、江戸期には宮本武蔵もここに居して修行に励んだと伝わる。 内部の襖絵は狩野光信の高弟であった狩野了慶の筆によるもので、桃山時代後期の優れた遺品とされる(内部は通常非公開)。
瓢鮎図(ひょうねんず)(国宝 模写が展示)
【瓢鮎図】 室町水墨画の先駆者・如拙の作✨ 日本の初期水墨画の代表作の一つである。 画面上部の序文により、室町幕府4代将軍 足利義持の命で制作されたことがわかる。 ナマズ(「鮎」は「ナマズ」の古字)をひょうたんで捕まえるにはどうすればよいかという、およそ不可能な問いかけを図示したものであり、禅の公案を絵画化したものである。 原品は京都国立博物館に寄託。 寺で見られるのは模写である。
方丈 西壁
方丈 東壁
方丈 前方の庭
スポット内のおすすめ
陽の庭
【陰陽の庭】 敷砂の色が異なる2つの庭は、物事や人の心の二面性を伝えています。 陰の庭に8つ、陽の庭に7つ、合計15の石が配されております。
陰の庭
あずまや
あずまや
あずまや 横
水琴窟
【水琴窟】 人々に癒しを与える音としても注目を浴びている水琴窟。 「つくばい」の下深く底を穿った瓶を伏せ込み、手水に使われた蹲(つくばい)の水が瓶に反響して妙なる琴の音のように聞こえます♪*゚✨ 水琴の残響に耳を傾けた古人のわびさびの風情が味わえます。
水琴窟
当院の水琴窟は、もともとは江戸中期から書院中庭にあった。 どなたでも楽しんで頂けるよう、現在の位置(庭園「余香苑」内)に移した。 その折、中に埋めるかめは新しく焼かせたもので、現在直径60cm高さ90cmくらいの素焼きの信楽焼のかめが埋まっている。
つくばい
美しい…🥺✨ は〜♡
茶席「大休庵」
【茶席「大休庵」】 庭園を鑑賞しながら抹茶を楽しめる🌱 退蔵院特製の茶菓とともに一服😌💭
大休庵 横
藤棚から大休庵を望む
余香苑(よこうえん)
【余香苑】 この庭園は造園家・中根金作氏の設計によるもの。 昭和38(1963)年に着工し、3年の月日を費やして完成。 余香苑(よこうえん)は伝統的な造園手法を基盤とした厳しさの中にも優雅さを含み、全国でも有数の昭和の名園と言えます。
余香苑
構造上目立たぬ苦心が随所に払われており、正面から庭園を見渡すと、奥行きが生まれ、庭園が広く見えることなどが例としてあげられます。 昭和を代表する池泉回遊式庭園🌼✨ 大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち、深山の大滝を見るような風情がある。 一年を通して、紅しだれ桜や藤、サツキ、蓮、金木犀、楓などが彩ります。
待合から藤棚を望む
スポット内のおすすめ
【退蔵院の名前の由来】 「退蔵」 「価値あるものをしまっておく」という意味がある。 陰徳(人に知られないようにして良い行いをする)を積み重ね、それを前面に打ち出すのではなく、内に秘めながら布教していくということを示しています。
創建:平安時代 再建1644年(寛永21年) 御祭神:班子女王 社格:村社 ※班子女王 ・第50代 桓武天皇 の孫 ・第58代 光孝天皇の女御 & 第59代 宇多天皇の母君 ※宇多天皇 ・仁和寺を開山 ★建造物一式 国の重要文化財★ ★毎年10月第3日曜 14時頃… 大祭★ (班子女王を乗せた御神輿が仁和寺に行く ⇒母 班子女王が子 宇多天皇に会いに行く)
鳥居
【歴史】 班子女王の陵墓であった地に神社を建てた。 その後は仁和寺の鎮守神として、歴代の仁和寺法親王の厚い崇拝を受けた。 応仁の乱により伽藍消失。 江戸時代初期、1644年(寛永21年) 徳川家光の寄進を受け、仁和寺の堂塔伽藍整備と共に再建。 ⇒仁和寺との深いご縁がある✨ 毎年10月第3日曜の大祭では、福王寺神社→仁和寺へ神輿巡行を行う。 江戸時代の神仏分離の時期も続いた。
社殿
【歴史】 1978年(昭和48年)本殿・拝殿・鳥居・石燈籠が国の重要文化財に指定。 2000年(平成12年)再建から約360年経ち、班子女王1100年特別大祭を機に、本殿・拝殿の修復工事。
拝殿 福王寺神社由来
鳴滝砥石(なるたきといし)の扁額
【鳴滝砥石】 鋭利な刃物の最上の仕上げ砥石として珍宝され、料理人や大工がステータスとしていた。 かつては西陣織や友禅染、清水焼にも匹敵する程の有名な特産物であった。✨ 平安時代~大正時代まで採掘されていたが、近年では殆ど採掘されない。 『京都府の石』の3つのうち1つとしても登録されている✨ この鳴滝砥石の扁額は、京都の地理学研究所曰く、『日本一大きい砥石』✨
手水舎
【扁額】 以前は拝殿の扁額として掲げられた。 しかし約200kgの重さがあり、重要文化財指定以降、文化庁の意向により掲げることが不可能となった😢 現在は社務所で保管。 『遍照』 広く隅々まで光を当てる。 大正13年、仁和寺の第13代門跡が書かれた。
狛犬と獅子
【狛犬と獅子】 2000年(平成12年)の修復工事の調査にて、 両像の台座裏に、1644年(寛永21年)の墨書銘が確認された!! ⇒福王寺神社の狛犬・獅子は、仏師 運雪(運節)が仁和寺から持ってきた! ということが判明😳✨ 2000年まで、歴代宮司も台座まで触れることはなく、判明されなかったという。 本物は京都府博物館で保管され、複製をお祀りしている。
夫荒社(ふこうしゃ)
【夫荒社】 真夏、氷室⇒御所へ氷を運ぶ役夫(えきふ)が倒れた。 その霊を鎮めるため、912年に建てられた。 この『ふこうしゃ』が『福王寺』の由来となったと伝わる😳 【さざれ石】 君が代に歌われているさざれ石。 山越のさざれ石山にある母体から、一部削り移したもの。 『君が代』作以前からさざれ石が存在し祀っているのは、京都では福王寺神社を含め4社のみ。
本殿
【さざれ石(続き)】 さざれ石(細石)は文字通り、細かい石・小石の意。 それらの小石が巌(いわお)となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられている。
ふくろうと椿
【蟇股(かえるまた)】 カエルの股のような形をした空間に、宮大工各々が技術とセンスを表現できた部分。 本殿の四方の蟇股を写したものを、撮らせていただきました! 福王寺神社は、江戸時代まで仁和寺の保護下であった。 しかし神仏分離以降は支援が受けられなくなり、色を塗り直せず、真白に塗りつぶした。 2000年の修復工事の際、白に塗りつぶされていたことが功を奏して、元の鮮やかな色を把握でき、復元できた。
鷺(さぎ)と雲と葦(あし)
雁(かり)とあやめ
海馬と波
福王寺神社 パンフレット
福王寺神社 宮司 村田健史さん とっても生き生きと、楽しそうに、福王寺神社について語って下さりました。 社務所に入れてくれたり、10日前にできあがったパンフレットをくれたり、今までの福王寺神社に関する記事コピーをくれたり… いたせり尽くせりの村田さんのご尽力とお人柄に心うたれました🥺💕 もっと福王寺神社のことが広まればいいな、と思います。 また足を運びたい!!
スポット内のおすすめ
小さい神社なのに、なぜ国の重要文化財なのか… 最初はそう思ってました。 でも宮司さんの説明で、理由がよく分かりました☺️
創建:701-704年(大宝年間) 創建者:泰澄 中興者:和気清麻呂 御祭神: ◎本殿 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 埴山姫神(はにやまひめのみこと) 天熊人命(あめのくまひとのみこと) 稚産霊神(わくむすびのかみ) 豊受姫命(とようけびめのみこと 社格:旧府社 若宮 雷神(いかづちのかみ) 迦遇槌命(かぐつちのみこと) 破无神(はむしのかみ) ★ 全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。 ★ 『愛宕の三つ参り』 3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。 ★千日詣り が有名
愛宕山 麓 清滝
【歴史】 ・大宝年間(701-704年) 泰澄により、朝日峰に神廟が建立された。 ・天応元年(781年) 慶俊僧都、和気清麻呂によって中興。 愛宕山に愛宕大権現を祀る『白雲寺』が建立された。 ※ 和気清麻呂… 神号:護王大明神 墓所:護王神社(京都) 氏神:和気神社(出身地の岡山県) 奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。 皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物。
表参道の登山口
【歴史 つづき】 ・神仏習合において、修験道の道場として信仰を集めた。 ・9世紀…霊山として七高山の1つに数えられた。 ・明治時代… 神仏分離により、『白雲寺』⇒『愛宕神社』となる。参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わった。 ※ 愛宕権現(あたごごんげん)… 愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号
登山道
【千日詣り】★★★ 千日通夜祭(7月31日夜 ~ 8月1日早朝) このときに参拝すると、千日分の火伏・防火の御利益があるとされる。 清滝から愛宕神社への登山道は夜間のあいだ照明が点灯される。 ◎登山者は下山者に対して「おくだりやす」 ◎下山者は登山者に対して「おのぼりやす」と挨拶
スポット内のおすすめ
【御加護】 火伏せ・防火に霊験のある神社。 「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。 ★『愛宕の三つ参り』 3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。
スポット内のおすすめ
【登山道】 片道2時間程度。 整備されていますが、登山靴、最低でも動きやすいスニーカーであることが必要です!! 下1/3は坂が急なので、立っているだけでもふくらはぎが張ります😂 食べ物や飲み物、タオルなどしっかり準備しておきましょう!
休憩所
【駐車場】 愛宕山の麓に『さくらや(青木駐車場)』があります。 愛宕神社への所要時間が往復5時間程度であることから、10:30頃までに駐車場に到着しないと、愛宕神社に参拝者は利用出来ません。 日の入りまでに下山する必要があるからですね。
明治時代の茶店
登山道の上1/3は、こんな感じで完全登山道です。
黒門(京口惣門)
これを見ると、『愛宕神社に参拝するために登山してるんだよな』って、目的の再確認ができます🤣
愛宕神社
もうほぼゴールです!! ひやーー疲れましたーーー
スポット内のおすすめ
いい景色を見ながら、多くの人がここで休憩してました。 私達もお昼ご飯を食べました🌼
京都の街並み
良く見えました〜 登りましたね〜😂
参拝へ!
お昼ご飯を食べて、いざ参拝へ!!
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社殿
思っていたよりも大きい社殿✨
社務所
【宮司さん】 1週間の泊まりで社務所を管理されているようです😳✨ 1週間分の食料や水などを準備してのお勤め。 さすがに毎日登山はきついですもんね😂 お疲れ様です。
本殿の彫り
イノシシの彫りが至る所に。 とっても繊細で見とれちゃいます🥺✨ 和気清麻呂を救ったイノシシ。 和気清麻呂が愛宕神社の中興者であることから、イノシシのデザインが多く見られます。
摂末社
本殿前にある摂末社。 ◎神明社(右) 祭神:天照大神 ◎熊野社(左) 祭神:伊弉諾尊
天井の彫り
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創建:第23代顕宗天皇 3年(日本書紀より) ※ 月読神社の実際の創建は、 6世紀中頃から後半と推測されている。 御祭神:月読尊 社格:松尾大社の摂社 ★境内は京都市指定文化財 ★戌の日 安産祈願
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【歴史】 月読神社の京都への勧請に際しては、渡来系氏族(特に秦氏)の関わりがあったと考えられている。 ⇒古代京都の祭祀や渡来文化の考証上重要な神社であるとして、境内は京都市指定史跡に指定されている。 なお室町時代初期の「松尾神社境内絵図」によれば、かつての社殿としては本殿・拝殿のほか、假殿・庁屋・講坊・贄殿等があった。
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拝殿にて安産祈願
【拝殿】 入母屋造。
拝殿
個人的に、拝殿でのご祈祷が初めての経験✨ 感激してしまって、うるうるしてしまいました🥺
安産祈願石
【安産祈願】 安産祈願石を選ぶ ⇒『夫婦の名前・出産予定日・願い事』を記載 ⇒拝殿にてご祈祷 ⇒月延石(安産石)を撫でて、安産祈願石を置く ※月延石(安産石) 次の写真手前の3つの石 & 1番上の貝のような楕円形の石
月延石(安産石)
月延石(つきのべいし) - 「安産石」 子授け・安産の神として信仰されている。 ↑ 『雍州府志』所載の伝説では… この石は元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産し、のち舒明天皇の時に月読神社に奉納されたという。
聖徳太子社
祭神:聖徳太子 ~学問の神~ 月読尊を崇敬した太子の霊を祀ったもの。
本殿
本殿
【本殿】 流造(ながれづくり)。
願掛け陰陽石
御船社
【御船社】 祭神:天鳥舟命 ~水上交通の守り神~ 松尾大社の末社にも属する。 松尾大社神幸祭の際には、御船社で渡御の安全祈願祭が行われる。
解穢(かいわい)の水
【解穢の水】 途絶えることの無い霊水。 自己の罪や穢れを落とす。
創建:伝・713年(和銅6年) 山号:智福山 宗派:真言宗 五智教団 本尊:虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ) 開基:伝・行基(元明天皇の勅願による) ★本尊 虚空蔵菩薩坐像は日本三虚空蔵の一つ ⇒「十三詣り」の寺として有名!
表山道
【歴史】 和銅6年(713年)元明天皇の勅願 ⇒行基が国家安穏、五穀豊穣、産業の興隆を祈願する葛井寺(かづのいでら)として建立。 天長6年(829年)空海の弟子 道昌が、虚空蔵菩薩像を安置。 貞観10年(868年)寺号を法輪寺と称す。
山門
【建設物の焼失】 幕末 元治元年(1864年)の禁門の変により、お堂の大半が焼失。 明治17年(1884年) 本堂を再建し。 大正3年(1914年)まで、客殿、玄関、回廊、庫裏、山門等 順次竣工して復興。
電電塔
【十三詣り】 虚空=大空(宇宙)を意味。 虚空蔵は、無限のご利益を人間をはじめ動植物の育成から一切の物資の生産に至るまで守護している。 ↓ 幼少年期より青年期に移ろうとする人生の転換期に、智福を与え、技芸に長じさせ給えとの虚空蔵寺への守護祈願(4月13日前後 13歳なる男女)することを「十三詣り」 お詣りが済んだ後の帰路、渡月橋を渡るまでに後ろを振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうと言われる
表山道 階段
【空海の弟子・道昌と渡月橋】 承和年間、勅願によって大堰川を修築し、橋を架け、船筏の便を開いた。 その橋は、江戸時代まで法輪寺橋と呼ばれた。 亀山上皇がこの橋を見て「くまなき月の渡るに似たり」として渡月橋と命名された。 渡月橋から嵐山を望むと、山の中腹に法輪寺の多宝塔が見える。
手水舎
羊
羊は虚空蔵菩薩のお使いor虚空蔵菩薩の化身とされている。 羊のポーズは、ふりむいて虚空蔵菩薩を背中に乗せようとしているところという説。 階段を登って、右手にあります。
本堂
阿吽の牛と虎
向かって右側…阿 の 虎 左側…吽 の 牛
多宝塔
階段を登って、本堂に向かって左手にあります。
電電宮
電力、電気、電波、電子等あらゆる電気関係事業の発展と無事故安全を祈願。
裏山道
裏山道から出ると、渡月橋の近くに出ます。 十三詣りの帰りは、こちらから出て、渡月橋まで振り返らずに帰るのがよいでしょう。
創建:824年(天長元年) 山号:高雄山 宗派:真言宗高野派 寺格:遺迹本山 本尊:薬師如来 開基:和気清麻呂 正式名:高雄山 神護国祚(こくそ)真言寺 ★国宝第2号の薬師如来像✨ ★紅葉の名所「三雄(神護寺・西明寺・高山寺)」の一つ ★源頼朝の肖像画(国宝)などを毎年5/1~5/5展示✨
石段
【歴史】 僧・道鏡の皇位継承問題にからんで流罪になった和気清麻呂公と姉の和気広虫(法均尼)が帰都した後、清麻呂が和気氏の氏寺であり国家安泰を祈願するための神願寺を(780年頃)建立。 平安京造営の最高責任者であった清麻呂公は、この地に愛宕五坊の1つとして高尾山寺を(802年頃)創建。 824年神願寺と高尾山寺を合併⇒神護寺!
楼門
【楼門】 1623年(元和9年)建立。石段の参道を上りつめた先に建つ正門。両脇に二天像を安置する。 ※修繕中でした 【歴史つづき】 高尾山寺の時代… 和気一族に招かれて、弘法大師 空海(809年~14年間)や比叡山の伝教大師 最澄が入山し、平安仏教の中心的な役割を果たしていく。 812年 弘法大師 空海は最澄らに真言密教の儀式である灌頂を授け、真言宗立教の基礎を築いた。
書院
【書院】 楼門を潜ると、右手に表れる。 【文覚上人による再興】 平安時代に2度の災害にあい、堂塔のほとんどが焼失し、ご本尊 薬師如来を風雨にさらしながら残すのみ。 武士出身の僧・文覚はその荒廃を嘆き、再興の勧進を始めた。 ⇒1184年 後白河法皇の勅許、源頼朝らの援助を得る。 ⇒ 弟子の上覚(上覚房行慈)によって完遂された。
和気公霊廟
【和気公霊廟】 和気清麻呂を御祭神とした神社の一部が残ったもの。 明治19年(1866)明治天皇の勅命により、現在の護王神社を造営し、神護寺境内からご遷座。(神仏分離!!) ※スタッフさんが教えてくれました✨ 【現在の盛観】 応仁の乱で再び焼失 ⇒1623年 所司代 板倉勝重の奉行により楼門、毘沙門堂、五大堂、鐘楼を再興。 ⇒昭和10年 山口玄洞居士の寄進により金堂、多宝塔などが新築された。
鐘楼
明王堂
【明王堂】 940年 神護寺に安置されていた弘法大師作の不動明王は、平将門の乱を鎮圧するため関東へ出開帳された。 その地に、この不動明王を御本尊として、成田山新勝寺が建立された。 現在の明王堂の御本尊は、平安時代後期におさめられたと考えられる。 明王堂の扁額は、7代目市川團十郎の筆。
鬼瓦さん
五大堂の東側に、金堂の屋根にも使用されている鬼瓦さんが💓かわいい!!
五大堂
【五大堂】 1623年(元和9年)の建築。金堂へと上る石段の下に建つ。入母屋造の三間堂。 1月に行ったので、雪がちょっと積もってました⛄️
毘沙門堂
【毘沙門堂】 1623年(元和9年)の建築。五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。 金堂が建つ前はこの堂が金堂であり、ご本尊の薬師如来像もここに安置されていた。 内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(重要文化財)を安置する。
大師堂【重要文化財】
【大師堂】 毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮(こけら)葺きの住宅風の仏堂。 弘法大師 空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。 内部の厨子に正安4年(1302年)作の板彫弘法大師像(重要文化財)を安置する。
かわらけ投げ 名所
【かわらけ投げ】 厄除けとして、瓦をフリスビーのように投げる。
かわらけ投げ
混雑する紅葉の時期だと、尚美しい景色が広がってます🍁
地蔵院
【地蔵院】 かわらけ投げ名所のすぐ近く。 厄祓いした後に、いざ金堂へ!!
金堂へ
【金堂】 この石段を上った先に建つ、入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂。昭和9年(1934年)に大阪の実業家 山口玄洞の寄進で建立。 須弥壇中央の厨子に本尊 薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光・月光(がっこう)菩薩立像(重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。 ※金堂内は撮影禁止×
金堂
【木造 薬師如来立像】国宝第2号✨ 像高170.6センチ、カヤ材の一木造、素木仕上げ。 薬師如来像には珍しく、口がへの字の威厳のあるお姿。 神護寺は幾多の災害にあったが、僧侶が毎回この御本尊だけは守ってきたという。 ※紅葉の混雑時以外は、スタッフさんが金堂内の説明をしてくれます!もちろん、今回の記事にスタッフさんからの説明内容を入れてます!説明時、御本尊の目の前まで入らせてくださりました😢✨
金堂
【両脇侍の日光・月光菩薩立像(重要文化財)】 日光像・月光像共に、上半分は後補。 ご本尊の両側には室町時代に作られた十二神将像が、正面右上⇒右下⇒左上⇒左下の順(∞の形)で立ち並ぶ。焼け跡が残るもの、修復されたものが混在している。 【紫綾金銀泥絵 両界曼荼羅図】(国宝) 縦横4m超えの巨大な曼荼羅図。 寺宝のほとんどは博物館での保管をしており、毎年5/1~5/5の「宝物虫払い」で展示される。
竜王堂
【竜王堂】 金堂の西隣に位置する。
多宝塔
【多宝塔】 竜王堂から、さらに石段を上った高みに建つ。 金堂と同様、昭和9年(1934年)実業家山口玄洞の寄進で建てられたもの。 内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する。 🌱春季御開帳…5/13-5/15 🌱秋季御開帳…10月 第2月曜・祝日を含む三連休
毘沙門堂(奥)と五大堂(手前)
紅葉シーズンは以外は空いていて穴場です! スタッフさんが金堂を説明してくれたし、御本尊の目の前まで入れてくださるし、冬に来て良かったー!!って感じでした♡ スタッフさんありがとうございます!! 護王神社に行ったことがあるし、「鎌倉伝の13人」を見たばかりだった私には、説明がするする頭に入ってきました!奇跡(笑) その代わり、シーズン以外、神護寺までの石段の中腹にあるお茶屋などは空いてません!
石段
金堂前の石段は、下りる時が見えづらくて恐い(笑) 気をつけてくださいね!