砂町銀座
東京砂町銀座
まいどまいど! 「日本経済新聞」の「訪れてみたい商店街」で巣鴨、横浜の元町に次いで3位に選ばれた砂町銀座っちゅう商店街を皆さんはご存じでっしゃろか。 場所は東京都江東区にあり、商店街を歩けば昔ながらの雰囲気が漂ってますねん。 ほんでまた、商店街の各店舗で販売されている総菜や弁当は低価格。 時間帯によっては割引もあり、地元では根強い人気であることがうなずけますねん。 そんな江東区もかつては干潟やったそうでんな。 1765年、平井満右衛門により州崎弁天から砂村新田まで広がっていた干潟が平井新田として埋め立てられ、塩浜が築かれ製塩が開始。 海から海水を導く水路「塩浜汐引ホリ」、鹹水(塩水)をつくる「汐溜」、海水を煮つめて塩をつくる「塩カマ(竈)」もあったそうですが、やがては衰退。 1891年、地名「塩浜」は「平井新田字塩浜耕地」として呼ばれたんやそうで。 スポーツの面では、洲崎球場。 東京府東京市城東区の木造の野球場として開場し、日本プロ野球草創期、東京都杉並区の上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つがあったといい、当時をしのぶ石碑が建立されてまんねん。 なんや歴史を感じまんな。
東京都品川区の戸越銀座商店街、東京都北区の十条銀座商店街と並ぶ三大銀座商店街の一つに数えられる商店街。 全長約670m。 店舗数約140店舗。 キャッチコピーは「砂銀へGO!」 1945年、約30軒であったが、東京大空襲で焦土と化した。 1963年、戦後に店舗数が増え始め、長さ670mに。 今もなお昭和の色影を色濃く残した下町の商店街。 8月上旬に七夕まつり、毎月10日には大安売り「ばか値市」も。 2005年、「日本経済新聞」の「訪れてみたい商店街」で巣鴨、横浜の元町に次いで3位に選ばれた。
総菜、弁当を中心に販売する専門店。 低価格と評判で、弁当は300円(税別)から。
東京都中央区に本社を置き、東京都と神奈川県を中心に展開する寿司専門店。 1959年、毎日食堂として創業。 1995年、ちよだ鮨に商号変更。 回転寿司店、本格すし店、立ち食い形式の寿司店などがあるが、ここでは持ち帰り専門。
手作りシュウマイーマイとギョーザの専門店。 他に総菜や弁当を中心に販売する。
1913年、愛媛県温泉郡垣生村生まれ。 本名は哲大。 中富正三(俳優・大友柳太朗)に勧められて俳句をはじめる。 俳号は山眠、二良。 同級生と句会「木耳会」を開設、教諭・渋柿派の俳人堀田北田に指導を受け、村上霽月主宰の今出吟社に出入り。 「ホトトギス」の五十崎古郷に「波郷」の号を与えられた。 高屋窓秋、石橋竹桜子(石橋辰之助)とともに「馬酔木」の三羽烏と呼ばれた。 水原秋桜子に師事、「馬酔木」に拠ったのち、「鶴」を創刊・主宰。 「俳句研究」座談会に加藤楸邨、中村草田男らと出席、難解派・人間探求派と呼ばれた。 昭和時代、新興俳句運動を批判、韻文精神の尊重を説いて切れ字を重視。
第6回読売文学賞受賞、第19回芸術選奨文部大臣賞受賞
病・結核に立ち向かっていく生活を題材とする境涯俳句を詠む。 1946年、上京し、葛西(江戸川区)にある義兄の吉田勲司(吉田登一)宅に仮寓。 江東区北砂町に転居。 綜合雑誌「現代俳句」を創刊、編集にあたり、西東三鬼らと協力し現代俳句協会設立に尽力。 第6回読売文学賞受賞、第19回芸術選奨文部大臣賞受賞。
かつて当地で製造された大砲をもとにモニュメントが設置。 三浦半島の砲台に備え付ける大砲を鋳造するため、長州藩では鋳物師郡司右平次(喜平次)を江戸に呼び寄せた。 かつて当地には長州藩主松平大膳太夫の屋敷があったといい、1854年に幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、この屋敷内で36門の大砲を鋳造。 攘夷戦の戦利品としてフランスに渡り、パリのアンヴァリッド(廃兵院)に保存されている長州藩毛利家の紋章の入った大砲には、「嘉永七歳次甲寅季春 十八封度砲 於江都葛飾別墅鋳之」と刻まれている。 「葛飾別墅」とはこの屋敷を意味。
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別名、洲崎大東京球場。 1936年、東京府東京市城東区の木造の野球場として開場。 日本プロ野球草創期、東京都杉並区の上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つ。 大東京軍の本拠地球場として建設、東京巨人軍も試合を行い、「打撃の神様」と呼ばれた巨人・川上哲治氏のプロデビュー戦、巨人対阪神の沢村栄治、景浦将が出場した優勝決定戦は伝説となった。 1937年、92試合が開催。 海に近く、カニが這いずり回った満潮時にはグラウンドが海水に浸かってコールドゲームになることもしばしば。 イーグルス対金鯱戦は観客90人、ワースト記録としてプロ野球史に残るとか。
解体
1938年には3試合に激減、1943年に解体。 1945年、材木置場となり、敷地の一部が帝都高速度交通営団(東京地下鉄)に譲渡。
マグロを中心とした海鮮料理が味わえる居酒屋。 メニューは中トロ刺身をはじめ、まぐろほほ肉ステーキ、まぐろざんまい握りなど。 店内はテーブル席のみ。 また、東京・深川の名物料理の一つとして知られる深川飯も著書区バイキング限定で味わうことができる。
1765年、平井満右衛門により州崎弁天から砂村新田まで広がっていた干潟が平井新田として埋め立てられた。 1766年、平井新田を塩浜とする計画により、塩浜が築かれ製塩が開始。 海から海水を導く水路「塩浜汐引ホリ」、鹹水(塩水)をつくる「汐溜」、海水を煮つめて塩をつくる「塩カマ(竈)」も。 潮の便が悪く廃止され、衰退。 1891年、地名「塩浜」は「平井新田字塩浜耕地」として呼ばれた。
焼鳥を中心とする鶏肉の専門店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューは馬刺しや焼鳥弁当、牛タン炭焼き、牛タン弁当、マグロユッケなど。
左行秀は江戸時代、復古調の刀工として活躍した一人。 1813年、筑前国(福岡県)生まれ。 別名、豊永久兵衛、久左衛門。 南北朝時代の名工「左門字」の流れを汲む意から「左」の号を用いた。 江戸時代、江戸(東京都)の刀工清水久義に入門。 土佐(高知県)に移住し、土佐藩の下で鍛刀を始め、三人扶持で刀工・鍛冶職として活躍。 1860年、江戸出府が命じられ、当地付近に位置した土佐藩下屋敷に滞在し、鍛錬場を築き刀剣を製造。 1868年、土佐に戻り、作刀を続けた。
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江戸時代、小名木川は隅田川と旧中川を結ぶ運河として建設。 途中、横十間川、大横川と交差。 小松橋と新扇橋の間には扇橋閘門を設置、閘門より東側は地盤沈下が著しく0m地帯のため水位を1m下げている。 1590年頃、江戸城主の徳川家康は兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(千葉県)に着目。 小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削、河川の名称の由来に。 完成後、塩の運搬が安全で容易となり、近郊の農村で採れた野菜、東北地方の年貢米など塩以外の品物や客も運搬。 1629年、江戸物流の重要河川となり、利根川東遷事業と併せて拡幅、小名木川と旧中川、新川の合流地点には「中川船番所」が設置。
小名木川
川の北側は深川八郎右衛門により開拓され深川村に、川の南側は海辺新田で、小名木川を中心に竪川や大横川、横十間川、仙台堀川などが整備。 明治時代、小名木川沿岸一帯は、工業地帯に発展。 1930年、荒川放水路が完成、荒川や旧中川、新川の合流地点には小名木川閘門、小松川閘門、船堀閘門が設置。 地盤沈下を理由に閉鎖。 2005年、荒川ロックゲートが完成、旧中川を経由して荒川への通行が可能となった。