
“びっくりポン!”な大阪。「あさが来た」のモデル広岡浅子氏、五代友厚氏ゆかりの地を歩く
大阪“びっくりポン!”な大阪。「あさが来た」のモデル広岡浅子氏、五代友厚氏ゆかりの地を歩く
まいど! NHK連続テレビ小説「あさが来た」で注目を集める大同生命創業者の広岡浅子氏。 京都府京都市で生まれ、大阪で世界最大規模の経済都市「大大阪」への礎を築き、ともに同じ時代を歩んできた福沢諭吉、五代友厚、淀屋家らは今もなお、それら過去の功績をたたえ、語り継がれています。 2016年、ボランティアガイドによる「舞台地かいわいウォーク」が人気で、定員200人を超える1200通以上の応募があったとか。 今回は、「舞台地かいわいウォーク」で巡るスポットを中心に、五代友厚氏らが創設に携わった堂島米会所、天満青物市場、大阪証券取引所、福沢諭吉が通った学校・適塾、自費で橋を建設した豪商・淀屋家やそのゆかりの地をまとめましてん。 また、これら大阪の発展に貢献した人物や歴史は、大阪市内にある大阪歴史博物館、大阪企業家ミュージアムで知ることができまっせ。 他「おでかけブラン」やウォーキングプランでも掲載されてへんような、ここだけの”大阪”をあんさんの目で確かめてみまへんか。 「大阪が好きやねん!」やからこそできる”大阪のホンマ”をご案内いたしまっさ~。
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NHKの連続テレビ小説「あさが来た」で再び注目を集め、2015年に大同生命大阪本社内にあるメモリアルホールにて特別展示「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」を開催した。
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広岡浅子氏の結婚
1849年、大同生命創業者の一人、広岡浅子氏が誕生。 ペンネームは、九転十起生。 「一代の女傑」として知られている。 京都府京都市の油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の4女として育つ。 「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられるも、簿記や算術などを独学。 第8代加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。
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創業者として
第9代広岡久右衛門正秋らと共に、加島屋の経営を再建。 潤野炭鉱を買収、加島銀行を設立、大同生命創業に参画。 1896年、日本女子大学校( 日本女子大学)設立。 愛国婦人会、婦人運動や廃娼運動に参加し、女性雑誌に多くの論説を執筆。 大阪YWCA創立準備委員長を務めた。 御殿場・二の岡で女性を中心とする合宿勉強会を主宰し、市川房枝や村岡花子らとの交流を深めた。
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1878年、大阪で初めての府知事認可により、 澤山保羅が設立したという。 梅花学園は、幼稚園、中学校、高等学校、短期大学、大学及び大学院を有するキリスト教主義学校。 梅本町教会(現在、大阪教会)と浪花教会、両教会の頭文字をとって梅花女学校と名付けられた。
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加賀屋当主の広岡九右衛門が蔵元を務めた。
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1835年、大阪市福島区(大坂堂島浜)にあった中津藩蔵屋敷で、下級藩士福澤百助・於順の次男として生まれた。 日本の武士、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。 また、専修大学(当時の専修学校)の創設にも尽力した、明治の六大教育家の一人である。 1855年、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵が大阪市・船場に開いた蘭学の私塾である適塾に通うこととなる。
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1835年、鹿児島県で五代友厚が生まれる。 明治時代初期、大阪の経済が低迷していた。 1865年、ヨーロッパ諸国を視察し、貿易に関心をもった。 大阪に戻り、鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 当時、国産の藍は質が悪かったので、インドからの大量輸入に頼っていたと言う。 それに対抗するため製法に研究努力を重ね、従業員300名を越す近代的製藍所を建設した。 1883年、製品は欧米各地に輸出されたが、後に閉鎖された。
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近代建築として知られ、1903年に国立銀行(ベルギー)をモデルに建設された。 設計は、辰野金吾らによるもの。 周辺には、島原藩大阪内屋敷や五代友厚の別邸があったと言う。 見学する場合は、予約が必要である。
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1911年、株式仲買人だった岩本栄之助らの寄付により、旧中之島公会堂の建設案が出された。 設計は、岡田信一郎氏の原案に基づいて、辰野金吾・片岡安が実施設計を行った。 1913年、地上3階、地下1階建として着工。 1918年、オープン。 各種の講演や会合などが催されている。 2002年、国の重要文化財に指定された。 2006年、大阪フィルハーモニー交響楽団「大阪クラシック」のコンサートの会場なった。
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この地は、世界初の「為替」や「先物取引」が誕生した。 江戸との取引が多かった。 そのため、お米などの代金決済のため、「為替」が発達した。 また天候などによって出来高の値が変動するため、予め価格を決めておくルールができた。 これにより、「先物取引」が発達した。 当時、手旗と望遠鏡によって岡山まで見えていたという。 それにより、約20分で米価の伝達を可能にした世界最高水準の金融システムとなった。 また、世界を代表する大阪証券取引所(通称、大証)は、株式関連デリバティブ市場で中心的な役割を果たしている。 一時、世界一のシカゴ証券取引所を抜いて、世界トップとなったこともある。
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南天満公園内にある碑。 青物市場は、天満橋北詰めから天神橋までの間にあったとされる。 石山本願寺で次第に繁盛し始め、京橋北詰め付近へ移動した。 その後、当地に移動し、主に野菜や果物を販売していた。 1931年、中央卸売市場に吸収されるまでにぎわっていたと言う。
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大阪を代表する淀屋が最大の豪商である。 本姓は、岡本氏。 通称、三郎右衛門とも呼ばれ、城州岡本の出身である。 豊臣時代、十三人町(大阪市北区大川町)で、材木を扱った。 1615年、京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開いた。 中之島を発展させ、常安請地を開いた。 現在でも当時の名である常安橋や常安町が残っている。 心斎橋筋から西肥後橋の周辺に宅地があったと言う。 その宅地内の小路は淀屋小路と呼ばれている。 町人蔵元の元祖と言われていた。 また、天満青物市場、堂島米市場を創設し、近代の大阪発展に寄与したと言う。
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造幣局内にある施設。 1969年、開館した。 1911年、旧造幣局火力発電所の施設として建設された。 館内では実際に製造された大判、小判、丁銀、貿易銀、皇朝十二銭などが展示されている。 また、そのほかにも外国貨幣、勲章、メダル、工芸品など約4000点。 貨幣の歴史や種類、人物紹介など幅広い展示がされている。
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1838年、洪庵が瓦町に蘭学塾を開く。 1845年、大阪市中央区北浜へ移転。 福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など、幕末から明治維新にかけて活躍した多くの人材を輩出。 漫画家、手塚治虫の曽祖父にあたる手塚良仙も門下生の一人であった。 塾は、明治維新後、大阪医学校の開校にあたり、教師・塾生とも移籍する事によって、その歴史を閉じた。 大阪医学校の後身が、大阪大学医学部である。 適塾と大阪大学との繋がりは、適塾の教師・塾生がともに大阪医学校に移籍することによる。 1822年、仙台藩学校蘭科が開設されて日本初の西洋医学講座を実施。
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金融商品取引所「大阪証券取引所」は、東京証券取引所や名古屋証券取引所と並び、日本の三市場の一つ。 略称は、大証である。 江戸時代、中之島周辺には全国から集まった蔵屋敷が建てられていた。 また、堂島米会所で「帳合米取引」が行われ、世界初の「公設の商品先物取引」と言われる。 大阪株式取引所設立が売買取引開始した。 長谷部竹腰建築事務所が設計して、市場館を竣工した。 2004年、三菱地所や日建設計が設計し、現在の大阪証券取引所ビルが竣工した。 地上24階、地下2階建。
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大阪証券取引所と五代友厚氏
大阪証券取引所の正面には、五代友厚氏の銅像が建立。 米穀取引所が起源となり、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身となる。
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1912年、証券会社仲買業者の社屋として竣工した。 また、国の登録有形文化財に指定された。
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1875年、料亭「加賀伊」で、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが会議を行った。 その会議を大阪会議と呼ぶ。 大阪会議の際、「加賀伊」の名称を木戸孝允が「花外楼」に変えさせたと言われている。 現在でも木戸孝允の筆による「花外楼」の額が保存されている。
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1914年、住友本社営繕課建築係が設計し、竣工した。 その後、焼失した。 1924年、安井武雄が設計し、再び竣工した。 1997年、国の登録有形文化財に指定された。 毎月、古楽器演奏団体によるバロック音楽のコンサートが開催される。 施設内には、理髪室やロビー、食堂、図書室、ホールなどがある。
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1925年、地上3階として建てられた。 設計者など詳細は不明である。 かつて、大阪市消防局の東消防署の今橋出張所として使用されていた。 現在は、イタリアレストランが入居する。
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江戸時代、経済制度の発展に伴い、銀行のような業務をこなす必要があった。 1628年、両替商を天王寺屋五兵衛が始めた。 1670年、幕府により十人両替が誕生した。 かつて、この地には、最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていた。 このことから天五に平五と呼ばれた。
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1877年に創立された日本初の自給教会「浪花公会」である。 アメリカのノースウェスタン大学で神学を学んだ澤山保羅が日本初の按手札を受けて初代牧師となる。 1930年に竣工した歴史ある建物として知られるキリスト教教会である浪花協会。 ゴシック様式の尖塔窓と黄色や緑色の色ガラスで飾られ、意匠性の高い塔屋を持つ地上3階の建物。 明治中期、八幡商業高等学校の英語教師として来日したウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した。
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1931年、東洋紡績による寄付を基に日本綿業倶楽部の施設として竣工した。 2003年、国の重要文化財に指定されたジャコビアン様式の歴史的建造物である。 2007年、近代化産業遺産に認定。 1932年、リットン卿を団長とする国際連盟日華紛争調査委員会メンバーが来館するなど、戦前の日本外交の舞台にもなっている。
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ミュージアムは、大阪産業創造館の地下1階にある。 社会・経済の発展、生活向上の原動力である企業家たちのチャレンジとイノベーションをテーマに展示物をとりそろえている。
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写真より、左から五代友厚、土居通夫、稲畑勝太郎である。 五代友厚をはじめとする3人は、大阪商工会議所に尽力した人物とされ、今でも銅像として設置されている。 五代友厚は、現在の大阪商工会議所の前身である大阪商法会議所を設立した。 設立後、初代会頭を務めた。 その後、土居通夫は7代を稲畑勝太郎は10代の会頭をそれぞれ務め、関西や西日本を含めた経済の中心を担っている。
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2001年、NHK大阪放送局に隣接した場所に、地上13階、塔屋2階、地下3階として開館した。 1960年、前身は大阪城公園内にある旧陸軍第四師団司令部庁舎跡にあった大阪市立博物館である。 歴史系博物館の先駆的な存在として親しまれ、現在、資料は10万点を超えている。 博物館の展示構成は、常設展示と特別展示に大別される。 地下1階は、日本最初の首都である難波宮の遺構が保存されている。
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1878年、明治維新後、大阪の経済発展を願って、大阪商法会議所が開設された。 初代会頭は、五代友厚(ごだいともあつ)氏。 1928年、「大阪商工会議所」となり、現在に至る。
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江戸時代、料亭「三橋楼」が開業。 高台に位置し、天神橋、天満橋、難波橋または京橋、天満橋、天神橋の3つの橋が眺望できたとか。 新選組の近藤勇氏による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。 大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝うため、小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所篤を招き、祝宴をあげる。 井上馨、伊藤博文の働きかけにより、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らによる大阪会議が行われた。 木戸孝允氏、囲碁会を開催。 大久保利通氏、五代友厚氏、税所篤氏(堺県知事)、内海忠勝氏(大阪府参事)、渡邊昇氏(大阪府知事)、伊藤博文氏らが参加。
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大阪市住吉区にある公立大学。 1949年、大阪市立大学の前身にあたる大阪商科大学は日本で初めてとなる市立大学として創立された。 2011年、公立大学としては最大規模となる8学部10研 究科を設置。 理念は、当時の關一・大阪市長の発言「大学は都市とともにあり、都市は大学とともにある」および「国立大学の"コッピー"であってはならぬ」が由来。
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大阪市立大学と五代友厚氏
1880年、五代友厚らによって創設された「大阪商業講習所」及び「市立大阪商業学校」が源流。 1901年、市立大阪商業学校を源流とする大阪高等商業学校を設立した。 1928年、一橋大学、神戸大学との交流を深め、旧制大阪商科大学が誕生した。 1949年、大阪商科大学、大阪市立都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校を統合して新制大阪市立大学が発足した。
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