錦天満宮
KYOTO SAMURAI & NINJA MUSEUM
近江屋跡
新京極商店街
黒豆茶庵・北尾 錦店
SNOOPY茶屋 京都錦店(スヌーピー茶屋)
茶和々 抹茶スイーツ処
伊藤若冲生家跡
菁々塾跡
八坂神社御手洗井
紫雲山頂法寺(六角堂)
梅しん 六角
坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡
お龍庵【十割そば】
寺町京極商店街
三条名店街商店街振興組合
矢田地蔵尊(矢田寺)
寺町専門店会商店街
弁慶石
家邊徳時計店(家邊家住宅)
SACRAビル
京都バスケットボール発祥の地
旧日本生命ビル
京都府京都文化博物館
京都万華鏡ミュージアム姉小路館
京都電信電話発祥の地
教諭所(宣教館)跡
中京郵便局
本能寺
龍馬とお龍の縁結び。錦市場と新京極商店街をめぐる
京都龍馬とお龍の縁結び。錦市場と新京極商店街をめぐる
まいどまいど! 今回は京都の中心地で、京都を代表する繁華街の一つ新京極を歩いていきまひょ。 ここには、にぎやかな商店街が形成され、その一角に錦天満宮。 錦天満宮は学問の神様として全国的に信仰を集める菅原道真公ゆかりの地として知られ、全国的にも知られてはりまんな。 ほんでまた、三条や寺町へと商店街が続き、 昼間ともなると、ぎょうさんの観光客でにぎわい、押すな押すなの大盛況ともなってまんねん。 また、一部の学校では修学旅行の観光ルートともなっていて、学生服姿の観光客の姿も。 さらに、近くには、ぎょうさんの博物館があり、京都を知る上での貴重な資料を保存、展示している他、織田信長と明智光秀ゆかりの本能寺、聖徳太子や小野妹子ゆかりの六角堂があるなど、歴史上の人物が続々と登場。 そんな続々でゾクゾクの京の街を皆さんも観光してみまへんか? どなたでも楽しめる甘味処もご紹介! ぜひ、休日に京都を観光しまひょ!
祭神は、天満天神(菅原道真)。 京の台所として知られる錦市場の東端に鎮座。 学業、商売繁盛の神様として信仰を集めている。 1003年、菅原道真の父・菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建。 その鎮守社として天満天神を祀って創建された。 目の前には、京の台所として平安時代より人気を集めている錦市場。 かつて京の都が日本の首都であったころ、京都御所に新鮮な食材を納めていたことが縁で、現在でも「ほんまもん(本物)」の新鮮な食材が揃う場所として、高い信頼を得てきた。
ロボットかみしばい
菅原道真公のこと、錦天満宮のこと、そして京都の歴史などがわかりやすいロボット紙芝居。 人力ではなくすべて全自動で動作する。
獅子舞
獅子舞が展示され、自動で動作する。
侍や忍者の体験ができる施設。 施設内では甲冑と本物の兜を着用しての写真撮影、刀剣体験や手裏剣投げ、忍者修行もできるとか。
江戸時代、名家・井口家が営む醤油屋「近江屋」があった。 昭和時代、近新商店として引き継ぐも廃業。 坂本龍馬が滞在した寺田屋で寺田屋事件が勃発。 井口新助の代に土佐藩の御用達となり、2階は龍馬らの滞在先となった。 1867年、御陵衛士の伊東甲子太郎と藤堂平助が近江屋を訪ねて国事を語り、新選組と見廻組が狙っていると告げた。 薩摩の吉井幸輔は土佐藩邸に入れないのであれば薩摩藩邸へ入るよう勧めたが、龍馬は近江屋に留まった。 以後、坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉が殺害された近江屋事件が勃発。
坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地
海援隊と陸援隊によって葬儀が執り行われ、墓碑銘は木戸準一郎(木戸孝允)が筆を執った。 現在、坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地となっている。
1872年、京都府参事槇村正直によって作られた通り。 かつて、広大な寺域を誇った時宗十二派の四条派の金蓮寺が寺域の切り売りをはじめ、以後、料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建っていた。 寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、寺町通のすぐ東側に新京極通を建設。 明治時代、見世物小屋や芝居小屋が建ち並んだ。 ほぼ水平な商店街に坂があり、「たらたら坂」と呼ばれているが、その一方で京の不思議として語られることもあるとか。
京都の甘味処として主に女性の間で人気を集めている場所が 名物・黒豆御膳 黒豆茶庵 北尾 京の台所錦店。 1862年に創業したこのお店では、丹波の黒豆を使用した黒豆御前が人気で他にも黒豆を使用したソフトクリーム、ぜんざい、そして、実際に石臼を使用した自分だけのオリジナルきな粉をつくって食べることもできる。 石臼で挽くのもよし、あらかじめ準備されたきな粉で食べるもよし。
黒豆みたらし団子とわらびもち
今回は食後のときにおすすめな黒豆みたらし団子とわらびもちをご紹介。 まずは、きな粉をつけずに食べて見る。 美味しい。 そして、きな粉をつけて食べる。 味の変化を楽しみながら、味わってみてはいかがでしょうか。
米国出身の漫画家チャールズ・モンロー・シュルツの漫画作品「ピーナッツ」に登場するビーグル犬「スヌーピー」と主人公であるチャーリー・ブラウンの他、スヌーピーの友達でカナリアのウッドストックなど世界的に知られるキャラクターに関連する和菓子やグッズなどが販売。 その他、店内でも饅頭やきんつば、だんご、ぜんざい、ケーキ、ドリンクのカフェラテ、ソフトクリーム、ハンバーグオムライス、煮込みハンバーグ、うどん、茶そば、彩り天ぷら御膳などを味わうことができる。
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日本三大茶の一つ「宇治抹茶」の専門店。 店内には厳選された一番茶を石臼で挽いた「挽きたて抹茶」、わらびもち、豆菓子、おかき、ケーキなどを販売。 また、店内で茶、コーヒー、ケーキ、パフェなどを味わうことができる。
宇治抹茶どら焼き
宇治抹茶を使用したどら焼き。
伊藤若冲は江戸時代に活躍した画家。 1716年、生まれ。 京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男。 名は汝鈞、字は景和。 別名、春教、斗米庵、米斗翁、心遠館、錦街居士。 4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名。 号「若冲」は「老子」の「大盈若沖(沖は「虚しい、空っぽ」の意、冲は沖の俗字)」から。 意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」。 「動植綵絵」を描き、鹿苑寺大書院障壁画を制作、金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。
江戸時代、西谷淇水が開設した私塾「菁々塾」。 西谷淇水は1824年生まれ、手跡指南所篤志軒を営む西谷家の8代目。 1868年、広沢真臣らと小学校の設立を建言。 1869年、京都には寺子屋などの私塾を基礎とした64の小学校が開設。 菁々塾は日彰小学校の前身にあたる下京第四番組小学校に発展。 以後、小学校の教員となった。
かつて当地には祇園社御旅所社務で藤井助正の屋敷があった。 庭前に牛頭天王社を建立して毎朝、霊水を奉供していたとか。 祇園社は現在の八坂神社のことを指し、八坂神社の御旅所とした。 1568年、上洛した織田信長は、御旅所の移転後も、井戸水を格別とし、施錠した。 毎年、祇園祭の期間中のみ開錠し、諸人へ神水を施行したとか。 東裏にあった竹藪から竹2本を伐り取り、山科から丈八の松2本を持参して井前の鳥居に結び付けて七五三縄を張ったことから、現在も鳥居には七五三縄が結ばれている。 また、御手洗は現在の地名の由来とも。
天台宗系単立の仏教寺院。 山号は、紫雲山。 本尊は、如意輪観音。 西国三十三所第十八番札所。 正式には頂法寺。 通称の六角堂は、本堂が平面六角形に因む。 また、華道、池坊の発祥の地としても知られている。 頂法寺の本坊・池坊が執行として経営・管理を行ってきた。 華道は、聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことから。 池坊は、池の畔に位置し、聖徳太子が沐浴したことから。 寺主は、小野妹子。 池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供え、花の生け方に妙技を見せる。 池坊12世専慶は立花(たてばな)の名手で、池坊13世専応が宮中に招かれて花を立て、「池坊専応口伝」を表現した。
境内
1877年に建立され、入母屋造、千鳥破風付きの礼堂があり、平面六角形の屋根が二重。 秘仏本尊如意輪観音像、毘沙門天立像、不動明王立像を安置。 太子堂では南無仏太子像(聖徳太子2歳像)を安置。 親鸞堂は、六角堂。 夢告を授かる姿の夢想之像と六角堂参篭の姿を自刻したとされる草鞋の御影の親鸞像(参籠から叡山に戻る姿も安置。 へそ石は、別名、要石(かなめいし)で、旧本堂の礎石とも。
いけばな発祥の地・六角堂
日本最古かつ最大の華道家元・池坊でいけばなの根源。 紫雲山頂法寺(京都市中京区・六角堂)の住職が家元を兼ねる。 池坊という名称は、聖徳太子が沐浴した池に由来。 池坊の僧は、頂法寺(六角堂)の執行として六角堂の本尊如意輪観音に花を供える。
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から揚げやコロッケ、ホルモンなどを販売する専門店。 1978年、創業。
コロッケ
コロッケ。
から揚げ
から揚げには、マヨネーズ、明太マヨネーズ、ポン酢、カレー、宇治抹茶塩、梅塩、パクチー、チーズなどから選ぶことができる。
江戸時代に活躍した土佐藩郷士の坂本龍馬と結婚した楢崎龍の実家跡。 1841年生まれ。 別名、お龍。 楢崎家は長州の士分であったが、お龍の曽祖父の代、主君の怒りを受けて浪人になった。 父の将作は日本の皇族である久邇宮朝彦親王(中川宮)の侍医で暮らしは裕福であったが安政の大獄で捕獲され、没後、困窮。 生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手であったとか。 母は悪者に騙され、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知り、お龍は着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に啖呵を切って妹を取り返した。
実家跡
お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、龍馬と出会う。 初めて会った時に名前を聞かれ、紙に書くと名前が似ていたことから笑っていたとか。 龍馬は結婚を決意し、母に申し入れて快諾。 寺田屋事件で龍馬は両手指に重傷を負い、西郷隆盛の勧めもあって、刀傷治療のために薩摩へ下ることを決意し、薩摩藩船「三国丸」が就航する大坂に出向いた。 これが後の「日本で初めてとなる新婚旅行」として知られ、大阪市港区には碑が建立。
十割蕎麦専門店。 店内にはテーブル席がある。
メニュー
メニューは、ざるそば、かけそば、かも南蛮そば、九条ネギそば季節の天ぷら、板わさなど。
メニュー
メニューは、ざるそば、かけそば、かも南蛮そば、九条ネギそば季節の天ぷら、板わさなど。
メニュー
メニューは、ざるそば、かけそば、かも南蛮そば、九条ネギそば季節の天ぷら、板わさなど。
坂本龍馬も
店舗は坂本龍馬 妻 お龍の実家 楢崎家跡に位置しているため、店内には実家跡で使用されていたとされる瓦屋根の一部の瓦や坂本龍馬・楢崎龍夫婦の写真、その他、坂本龍馬・楢崎龍夫婦に関するグッズなどが展示。
寺町京極商店街で活躍するマスコットキャラクター。 寺町京極商店街にとって座敷童的な存在。 トレードマークは「て」の字の「ちょんまげ」。 「てらぼん」を見た人は幸せになるとも言われている。
京都府内でも最も古い歴史を持つ商店街の一つとして知られ、商店街内には創業300年以上とも言われている「ぬい針」で有名な「福井みすや針」、京扇子が揃う「大西京扇堂」などの老舗や数多くの店舗が軒を連ねている。
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西山浄土宗の寺院。 平安時代、奈良県大和郡山市の矢田寺(矢田寺)の別院として創建。 以後、遷座を繰り返し、1579年に現在地に遷座。 当寺の梵鐘は六道珍皇寺の「迎え鐘」に対して「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰される。
創業400年を超える老舗を筆頭に、約60の店舗が軒を連ねている。 商店街やその周辺では本能寺の変の舞台となった本能寺、天性寺、送り鐘の矢田地蔵尊で知られる矢田寺があり、古くから参詣道としてのにぎわいも見せてきた。 また、寺町通り四条上ルは四条通りと寺町通りの交差点を北に入ったところで、桃山時代以来、繁華街として発展した。 四条通りは平安京の四条大路に該当し、中世以降、祇園祭など芸能の巷として有名であった。 寺町通りは、平安京の東、京極大路にあたり、南北を通貫していた。 中世には戦乱によって衰退したが、豊臣秀吉の京都大改造によって再生され、洛中に散在していた諸寺院が遷座し、寺町の名がつけられた。
武蔵坊弁慶(辨慶)が愛した石で、触ると力持ちになれるという言い伝えも。 武蔵坊弁慶(辨慶)は、平安時代に活躍した僧衆(僧兵)。 弁慶は京で千本の太刀を奪おうと悲願を立て、道行く帯刀の武者を襲い、決闘して999本まで集めたが、牛若丸(源義経)と決闘して降参。 以後、源義経の家来となり、平家討伐で活躍、義経の兄・源頼朝と対立し、奥州平泉の藤原秀衡のもとにたどりついた。 藤原泰衡は頼朝による再三の圧力に屈し、義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)。 敵勢を相手に弁慶は、堂の入口に立って薙刀を振るって孤軍奮闘するも、雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命、その最期は「弁慶の立往生」とも。
1890年、建築。 かつて、1871年に創業した家辺時計店があった。 創業当時、店舗は和風で、屋根には時計塔を置いていたとか。
1916年、旧不動貯金銀行京都支店として建設。 1階はレンガ造り、2・3階は木骨レンガ造り。 現在、雑貨店やカフェなどが入居する。 国の登録有形文化財に登録。
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1891年、バスケットボールはアメリカ・マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールでジェームズ・ネイスミスによって考案。 1908年、米YMCAでトレーニングを受けた大森兵蔵氏が東京YMCAで紹介したことにより、バスケットボールが日本に上陸。 1913年、米YMCAから派遣されたF.H.ブラウン氏が競技指導にあたる。 1915年、旧制京都一中(洛北高校)教諭の佐藤金一氏が京都YMCAで日本初のチームを作った。 1925年、京都バスケットボール協会の前身にあたる京都籃球協会が発足。 2014年、日本初のバスケットチーム発足から100年目に当たり、モニュメントが建立。
1914年、旧日本生命京都支店として建設。 設計は、辰野金吾氏と片岡安氏による辰野片岡事務所。
1988年、京都の歴史と文化の紹介を目的に、平安建都1200年記念事業の一環として開館。 1968年、平安博物館として設立された私立博物館が前身。 また、平安博物館の建物は重要文化財に指定された旧日本銀行京都支店。 2011年、「国民文化祭・京都2011」が開催され、全面リニューアルされた。 施設内では、江戸時代の京の町家の町並みが再現されている他、京の伝統工芸品・名産品の店舗がある。 特に「京の歴史」「京のまつり」「京の至宝と文化」という3つのゾーンに分け、平安時代から明治時代、大正時代までの歴史、祇園祭で登場する山鉾の豪華絢爛な縣装品など山鉾町に伝わる数々の名品などが紹介されている。
2004年、万華鏡を専門に収集・展示しているミュージアムとして開館。 施設内では、オルゴール万華鏡、ジオラマ万華鏡、大型京焼万華鏡、投影式万華鏡など国内外の作家作品を含む約300点の所蔵品コレクションの中から季節ごとに展示している。 万華鏡とは、スコットランドの玩具の一つとして知られ、鏡を利用して筒の中に反復する模様を作り出し、動かすことにより模様の変化を楽しむことができる。 万華鏡の手作り体験教室も参加できる。
1872年、明治政府は郵便事業開始に続いて全国的な電信網敷設に着手。 京都では当地に西京電信局を設置。 1877年、電話が輸入され、1888年に官営の方針を決定し、公衆電話事業を開始。 1896年、京都電話交換局が設置され、交換業務を開始。
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皆川淇園門下の北小路寵(竹窓)は京都の庶民教育機関となる教諭所。 「室町竹屋町上る」の町家に開校、数年後に衰退。 1830年代、天保の大飢饉で救済活動に従事した心学関係篤志家グループの援助を得、東洞院三条下る住心院地内に開講。 京都を中心とする豪商などからの基金積立てにより、所司代間部詮勝は「宣教館」の自筆額(現日彰校保存)を与えた。 授業は毎月1、6の日は経書講釈、3、8の日は心学道話と定め、午後6時から10時まで。 授業の他、飢民救助などの社会事業に参加したのが、教諭所の教育運動の特徴。 1864年、蛤門の戦いで勃発した大火で教諭所も焼失、再建。 1869年、下京四番組中の小学校となった。
1871年、東京・大阪と共に設けられた郵便役所を前身とする郵便制度が発足し、西京郵便役所として開設。 1887年、京都郵便局と京都電信局が合併し、京都郵便電信局となる。 1902年、逓信省設計によるネオルネサンス様式、赤レンガ造りの外観が特徴の局舎が建設。 1903年、京都電話交換局と合併し、京都郵便局となる。 1949年、中京郵便局に改称。 1974年、改築計画が発表され、外壁を残したまま内部のみを新築する建築手法(ファサード保存)を採用し、日本で初めて改築。 建設省により公共建築百選に選定、京都市「歴史的界隈景観地区」の一部に指定、京都市登録有形文化財「景観重要建築物」に指定。
法華宗本門流の大本山。 1415年、日隆により本応寺として創建したが破却され、河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。 1433年、再建して本能寺に改称。 題目の巷と呼ばれた。 1536年、天文法華の乱が勃発して焼失。 大阪・堺の顕本寺に避難したが帰洛し、伏見宮第5代邦高親王の子・日承上人が本能寺8世となった。 織田信長は日承に帰依し、上洛中の宿所とした。 1582年、明智光秀の率いる軍勢に包囲される本能寺の変により焼失、織田信長は自刃。 織田信孝は信長の元御屋敷を墓所とした。 1591年、現在地に移転。 天明の大火で焼失後、再建。 禁門の変(蛤御門の変)に伴い、焼失。 1928年、再建。