
大阪地方裁判所
大神神社
狭井神社
奈良ホテル
率川(いさがわ)神社
阿倍野筋
新開大神宮
錦山神社(現、加藤神社)
藤崎八旛宮
熊本城
金峰山
金峰山神社
桜山神社
國學院大學
霞町三番町 軍人相手の下宿屋
西片町会 靖献(せいけん)塾
明治神宮
靖国神社
白山神社 鬼頭中将の家
当時の麻布三連隊営庭があった場所に、今は国立新美術館などが建っている。
洞院宮家別邸のモデルとなっている貴賓館
國學院大學
大阪能楽殿の跡に建つ天王寺保育所
四方津駅
甲斐国北都留郡梁川(やながわ)の練成会
四谷警察署 四谷三丁目交番
白山公園
白山神社
警視庁四谷警察署
丸ビル
四谷刑務所跡に立つ刑死者慰霊塔
桜山神社にある神風連の阿部以幾子
東京地方裁判所
皇居
明治神宮
伊豆山稲村で勲は自決する
昭和7年、本多繁邦38歳のの近況から始まる。 28歳で利枝と結婚し大阪地方裁判所に勤めている。天王寺阿倍野筋の借家から通っている。 写真は、当時の赤レンガの建物である大阪地方裁判所。 本多は、窓から堂島川が南へ回って、土佐堀川と合する合流点がよく見えた、とある。詳しい風景が描かれている。三島由紀夫も昇ったようだ。 本多に、「俺は高みにいる。目のくらむほどの高みにいる。しかも権力や金力によって高みにいるのではなく、国家理性を代表するばかり、まるで鉄骨だけの建築のような高みにいるのだ」と、言わせている。
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号外 五・一五事件の第一報が届く Wikipediaに1932年(昭和7年)5月15日に起きた五・一五事件を伝える大阪朝日新聞の写真が記載されている。 本多は、この号外を見たことになる。 この号外を見た本多に、 「やれやれ。ついこの間血盟団事件が起ったばかりだというのに」 と三島由紀夫が言わせることにより、これからの流れを暗示させている。
大神(おほみわ)神社(三輪神社) 6月16日、本多は、剣道家でもある須川控訴院長に代わって、神前奉納剣道試合で祝辞を述べるために出かける。 大鳥居の下車の札のあるところで、本多は下車をする。
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玉砂利を敷きつめた参道は緩やかに迂回し、、、、と表現されている。
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本多は、石段をのぼり切って、汗を拭った。三輪山の山ふところに、威厳ある拝殿が聳えている、とある。
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その前の広庭の砂利が四角く拭き除かれて、やや赤い土の色が砂にまぶされて、その試合場の三方に椅子や床几が並べられ、、、と書かれている。 写真は、拝殿前の広庭を右から左に向けて眺めている。
剣道三段である19歳の飯沼勲との出会い。 神前奉納試合出場していた飯沼勲が、かつて松枝清顕に附いた書生であった飯沼茂之の息子であることを本多は知る。 神前奉納試合終了後、本多は、三輪山への入山と頂きの磐座を拝むことを勧められる。 入山のために狭井(さい)神社へ向かう。 写真は、狭井神社。
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本多は、狭井(さい)神社の拝殿を参拝し、案内人に従って入山する。 作品で 「杉木立ちに囲まれた簡素な檜皮葺の屋根の拝殿は、いかにも荒魂のしづまりりますお社の感があり、屋根の後ろ高く、赤い長脛(ながはぎ)の軽せふな古代の武人を思わせる数本の赤松が秀でていた」 と表現されている。
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お山の登り口のところで、はじめて野生の笹百合の花一輪を見た、とある。 そして、これが明日の三枝(さんさく)祭の百合であることが説明されている。 写真は、その登山口。
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笹百合 後に、三島由紀夫は、勲に「俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなもなくここにある。俺が自刀するときには、昇る朝日のなかに、朝露から身を起こして百合が花をひらき、俺の血の匂いを百合の薫で浄めてくれるに違いなひない。それでいいんだ。何を思ひ煩らふことがあろうか」 https://ja.wikipedia.org/wiki/ササユリ
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三輪山を拝登する。 登り終わりほっとした際に、本多は、19年前の夏、鎌倉にある松枝侯爵家夏の別荘で登った裏山の事を思い出す。あの時の木の間を透かして見えた大仏に跪いて拝む二人の王子の事を思い出している。 下山の途中、三光の滝で水垢離をする。滝に打たれている飯沼勲がいた。 本多は、清顕の別れの言葉を思い出していた。 「又、会うぜ。きっと会うぜ。滝の下で」
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狭井(さい)神社の鳥居を抜けると左手に三島由紀夫の記念碑がある。
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狭井(さい)神社の鳥居を抜けると左手に三島由紀夫の記念碑がある。
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狭井(さい)神社の鳥居を抜けると左手に三島由紀夫の記念碑がある。
清顕の天性の奇跡に触れた本多の思い 本多は、その晩、奈良ホテルに泊まり、興奮した一夜を過ごす。
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窓の外からは、猿沢の池の蛙の声しか聞こえぬ静かな奈良ホテルの一室、とある。 なお、奈良ホテルが建つのは猿沢の池ではなく荒池です。 写真は、奈良ホテルの北側にある荒池越しに興福寺の塔を遠望している。 池の左側にホテルがある。
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本多は、一室に一人になると、飯沼勲との出会いのために興奮し不安になり、すぐ部屋を出て食堂に行っている。
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部屋に戻ると、メイク・ベッドされたシーツが、スタンド・ランプの薄明かりの中に浮かんでいる、と記されている。
率川(いさがは)神社 ここで行われる三枝祭りに来賓の代理として本多は参加する。 写真は、奈良ホテルから西に歩いて10分ほどのところにある率川(いさがは)神社。
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率川(いさがは)神社の三枝祭り 6月17日にある本多が来賓の代理として参加した三枝祭りの美しい風景が作品に描かれている。 三島由紀夫が感動したことが分かる。 このYouTubeの映像でその祭りの様子がわかる。 https://www.youtube.com/watch?v=eQi-LVVfGcY
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率川(いさがは)神社 拝殿 本多は、ここで飯沼勲、そして勲の父である飯沼茂之と再会する。 そして、飯沼茂之から、歌人であり、退役軍人中将である鬼頭謙輔とその娘である槙子(まきこ)を紹介される。
飯沼父子を天王寺阿倍野筋にある本多宅に招く 率川(いさがは)神社で会った日の夕食に飯沼父子を本多は宅に招待している。 そこから直接電車で東京に帰る際に、本多は、飯沼勲から冊子「神風連史話 山尾網紀著」という勲の座右の書を、本多の厚意に報いるために差し出され、本多は受けとている。 三島由紀夫は、書物の内容を続く40ページ以上に渡って詳しく内容を記している。https://ja.wikipedia.org/wiki/神風連の乱
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その1 宇気比(うけひ) 太田黒伴雄ら四人が神拝し、太田黒が宇気比を新開大神宮で行っている。 新開大神宮のWebによると、 太田黒伴雄肥後国学の祖「林櫻園(はやしさくらその)翁」との縁により新開大神宮の第17代宮司として奉仕され、その人望から神風連首領として明治9年(1876)を迎えられる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/新開大神宮
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作品に神風連と呼ばれた訳が書かれている。 「人心が正され、皇道が興隆すれば、弘安元寇の如く、忽ち神風吹き起って、夷狄を掃攘するであろう」 と彼らが説いたことによる、とある。 写真は、新開大神宮のWebにある絵馬。神風連が明治9年に奉納された蒙古襲来の絵図。 http://isemiyasan.jp/special.html
1876年(明治9年)廃刀令により一党の敬ふ神を護る手段がなくなると嘆く。 加屋 霽堅(かや はるかた)が、佩刀奏議を書き県令に送る。日本刀を讃える千古の名詩文であると三島由紀夫は表現している。 太田黒は、3度目の宇気比を大神神社で行い、神の御嘉納となり一党は正しく神軍となった、と記している。 加屋 霽堅は、錦山神社で宇気比を行い、「進め」と出た、とある。
その2 受日(うけひ)の戦 一党が挙兵当夜の総集所に宛てたのが長老の家であり、それが藤崎八幡宮真後ろであった、とある。
熊本城 200人ほどが集まった黄昏の総集所から熊本城が望まれた、とある。
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熊本城 二の丸 太田黒や加屋などが加わる第二隊およそ70人が砲兵営がある二の丸の西端に向かっている。 やはり70人ほどの第三隊は、歩兵営のある二の丸東端に奇襲を仕掛けている。 写真は、二の丸。 神風連の碑には、ここで加屋 霽堅(かや はるかた)や斎藤求三郎などが戦死したと記されている。
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熊本城 二の丸 二の丸から観る熊本城。
熊本城 慶宅坂
太田黒や加屋などが加わる第二隊は慶宅坂をのぼった所で二手に分かれ、二の丸西端にある砲兵営の東門と北門から攻め寄せた。 二の丸西端にある砲兵営への奇襲はうまく行ったが、東端にある歩兵営への攻撃が失敗している。第二隊が、第三隊の応援に行くが破れている。 加屋は、その場で急所を打たれた絶命し、太田黒は傷を負って、背負られて退散する。加屋 霽堅は、錦山神社で宇気比を行い、「進め」と出た、とある。
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熊本城 二の丸 二の丸への討ち入りの箇所に碑が建つ。
熊本城 法華坂
太田黒は、法華坂まで来たが早く首を得て、と願い、義弟である大野にここで介錯されている。 写真は、法華坂にある太田黒が切腹した場所に建つ碑。
その3 昇天 金峰山 一挙の翌朝、金峰山神社の周りに46人の敗軍の同志がいた、とある。
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金峰山神社 船で逃げる計画であったが、引き潮で船が泥にはまり動かないために、ここ金峰山頂に集まった、とある。 写真は、金峰山神社。
金峰山神社からの風景
対岸の島原半島は、雲仙を中心に左右へのびのびと裾野を引き、その山々の襞、家並みの精細もよく望まれる、と書かれている。 45人は、その後下山し近津海岸で解散している。 その後の一人一人の割腹の風景が述べられ、一人自首し終身懲役となった緒方小太郎の言葉「・・・いかで手弱女のごときふるまひあらやん」で三島由紀夫は話を終えている。
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金峰山神社からの風景 山頂から昨夜の戦いで残った煙にまぶされている熊本城と町の風景も記されている。 ここに集まった45人は、その後下山し近津海岸で解散している。 その後の一人一人の割腹の風景が述べられ、一人自首し終身懲役となった緒方小太郎の言葉「・・・いかで手弱女のごときふるまひあらやん」で三島由紀夫は話を終えている。 写真は、金峰山神社から熊本城を眼下に望む熊本市内の風景を望む。
桜山神社にある百二十三士の墓 林櫻園(はやしさくらその)の墓を中心に神風連士などの墓が両脇に並ぶ。
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飯沼勲への手紙 「神風連史話」と手紙が本多から届く。 それを飯沼勲は、学校の授業中に読む。 当時の国学院大学の玄関口に大学らしい大太鼓が据えられている、とある。 (宇都宮)伝場町御太鼓師小野崎弥八の名が入った由緒ありげな大太鼓、と作品では詳しい。 写真は、今でも子孫が宇都宮で和太鼓の製造販売をしているから借用したしたものです。
飯沼勲は、二人の友人に連れられて掘陸軍中尉に会いに行く。 霞町三番地あたりから、三連隊の正門のほうへ廻って下りてゆく坂道の下にある清顕と聡子が逢瀬した軍人相手の下宿先であった。 掘中尉から飯沼勲に、お前のもっとも望むことは何か、と尋ねられる。 飯沼は、「太陽の、日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝みながら、かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、自刃することです」 とこたえている。
飯沼勲の父が運営する靖献塾が駒込西片町の一角にあったとしている。飯沼親子の住居も同じ敷地内にある。 現在の文京区西片町に当たるが、どの辺であるかは地図を見ても判別できない。 靖献塾は、月例行事に明治神宮や靖国神社への参拝をしているとのこと。 写真は、当時の地図。駒込西片町と白山神社をピンで示している。
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明治神宮
靖国神社
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鬼頭中将は、靖献塾支援者の一人であった。 飯沼勲の自宅からも近いので度々、勲は顔を出し夕飯などをご馳走になっている。 歌人であり、退役軍人中将である鬼頭謙輔とその娘である槙子(まきこ)の家は、白山(しろやま)前町にあり、36段の階段を上った山頂の家、とある。白山神社は高台にあり、その同じ高台に鬼頭中将の家があったようである。 鬼頭宅は、その白山公園の東側にあったのではないかと思われる。
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白山神社裏にある白山公園。
勲は、ある午後、麻布の三聨隊に掘中尉を訪ねる。 営門から右方に有名な近代兵舎のビルが目立つ、とある。 写真は、その姿をよく表している。 当時の麻布三連隊営庭があった場所に、今は国立新美術館などが建っている。国立新美術館別館の一部に当時の姿が残されている。
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飯沼勲は、営門から掘中尉が初年兵教育をしている場へ案内されている。 教練が行われていたのが、写真にある左下の営庭であろう。 教練を見学している勲が、 「中尉はいはば孤独な代理人にすぎなかった。その号令の大音声も、さう思ふときには虚しくきこえた。盤上の駒を動かす巨大な不可視の指、その指の力の根源こそ頭上の太陽、存分に死を含んだかくやくたる太陽にあった。あれこそは天皇だった」、と言う。
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掘中尉の部屋が3階にあった。 掘中尉から勲に「神風連史話」を返される。 中尉は、勲に 「お前はこの神風連のように、軍を相手にして戦ふつもりか」 勲は、 「神風連が戦ったのは、ただ軍隊を相手といふわけではありません。鎮台兵の背後にあったものは、軍閥の芽だったのです。かれらは軍閥を敵として戦ったのです。軍閥は神の軍隊ではなく、神風連こそ陛下の軍隊だという自信を持っていたからです」
洞院宮治典王殿下を勲は掘中尉と共に訪問 洞院宮邸は芝にある。 聡子が洞院宮家への縁談を受け入れる際に訪れた横浜にある洞院宮家別邸は洋風、芝の御殿は和風。 洞院宮家の別邸は、「海を見下ろす高い崖上にあり、御殿風の外観を持った洋館」とある。 この邸宅のモデルとされるのが旧東伏見宮家別邸であり、のちに横浜プリンスホテルの貴賓館として使われていました。その建物は現在、貴賓館として残る。
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殿下のお尋ねに勲が応えている。 「はい、忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握って、ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作って、御前に捧げることだと思います。その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになったり、あるひは、『こんな不味いものを喰えるか』と仰言って、(中略)勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作った握り飯を献上することであります」
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勲の同志20人が国学院大学内の神社前に集まる。 写真は、国学院大学にある現在の社殿。
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勲は、井筒や相良と、一時間ほど前に國學院大學内にある神社の裏の林の中で待ち合わせている。 そこから、大學の横にある氷川神社の境内を通して見える渋谷桜ヶ丘の高台へ傾きかける西日に照り疲れている。 写真は、国学院大学側から氷川神社を眺めた風景。
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大學の正門に立つ鬼頭槙子に向かって勲が走って行く。 写真は、当時の正門。
本多は、天王寺堂ヶ芝町にある大阪能楽殿で野口兼資(かねすけ)の演ずる「松風」を見る。 大阪能楽殿は、戦時中の空襲で焼けそれ以後再建されていません。当時の写真もないようです。現在、天王寺保育所がある。 https://www.manabi.city.osaka.lg.jp/www/contents/lll/ityou04/buckup/201406_p22.pdf
甲斐国北都留郡梁川(やながわ)の練成会へ 梁川で開催されているに真杉先生の禊の練成会に参加している勲に会うために、本多は、大阪から東京への出張の機会を利用して勲の父である飯沼と一緒に出かける。 中央線四方津駅(しおつえき)を降り、桂川沿いに4キロほどの場所にある甲斐国北都留郡梁川の、丁度桂川が直角をなして瀬走る本沢にある道場と神社がある風景が描かれている。
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四方津駅から練成会道場への道 本多は、中央線四方津駅(しおつえき)を降り、桂川沿いに4キロほどの場所にある甲斐国北都留郡梁川の、丁度桂川が直角をなして瀬走る本沢にある道場と神社がある場所へ出かけている。 私も四方津駅を降りて駅の北側を走る甲州街道を梁川町に向かって歩き始める。 戦前、梁川駅はまだなく、当時は四方津駅から歩いたとのこと。
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四方津駅から練成会道場への道
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四方津駅から練成会道場への道
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四方津駅から練成会道場への道
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四方津駅から練成会道場への道 橋からの眺め。 正面に御前山、足元に大沢が見える。 勲は、河原に降り古い吊り橋を渡った御前山の麓で村田銃で雉を撃ち落としている。
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練成会道場 大橋を渡って数十メートル先を右に曲がる。その先、100メートルほどの場所に練成会道場があったと思われる。 写真の傍に神社(貴船神社)があったとの事。
練成会道場 大橋を渡って数十メートル先を右に曲がる。その先、100メートルほどの場所に練成会道場があったと思われる。 写真の傍に神社(貴船神社)があったとの事。その神社は近くの小山の麓に移されている。
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練成会道場から大沢へ降りる道 練成会道場跡から北に100メートルほど行った場所に川へ降りる道があったが危険なために通行止めにしてあると、住人の方に教わりました。 勲は、練成会道場での課業が終わると同志を率いて、毎日秘密の会合を大沢に降りる途中にある大岩の陰に集まって決行に向けた準備を決めていった。
貴松神社
練成会道場の傍にあった神社 大切に保存されている。
貴松神社
貴松神社
四谷左門町の隠れ家 四谷警察署近くに勲たちの隠れ家としてアパートの2階を借りている。 軍人相手の下宿屋に住む堀中尉から薫1人が呼ばれる。そこで堀中尉の協力を得られなくなったことを告げられる。 その帰り、勲は、同志達が待つ隠れ家に出向く。 堀中尉等の協力なしで現状で暗殺計画をどの様に遂行するかを隠れ家で毎日の様に集まり議論を進めている。
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鬼頭槙子への別れの挨拶 勲は、白山神社そばにある鬼頭宅へ広島からの牡蠣のお裾分けを口実に槙子に会いに行く。 勲は、早々に玄関先から鬼頭宅を出る。白山前町の小路を白山神社の方へ曲がる。白山公園に沿う道だと書かれている。 写真は、その白山公園。公園に沿う道の北側には東洋大学がある。 2人は、公園内でお互いの気持ちを確認し合う。
白山公園に沿った道から神社の表へ抜けるには、丁度つきあたりに、拝殿と社務所をつなぐ廊下橋が道に跨っている、その暗い灯影の射した千本格子の下を、身をかがめて通ればよいのである、とある。 写真は、その廊下橋。
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勲に追いついた槙子に決行日を教える。 二人は社前の灯の下へ出たが、広前にはやはり人影がなかった、と書かれている。 灯と言っても、白山下の写真館の献じた五蜀光の常夜灯があるだけである。それが石の狛犬や、金字の扁額や、炎を吹く竜の浮彫や、拝殿の木の階段ににぶい照りを与えている。白く浮かんでいるのは、社前の七五三縄の四手だけである、と書かれている。 写真は、拝殿と拝殿前。
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勲と槙子は、おのがじし黙礼して、鳥居をくぐって、長い階段の上で別れた、とある。 写真は、その階段の上から見下ろしている。
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階段を降りたところから階段の上を見上げている。
12月1日の朝、決起3日前、隠れ家にて勲と同志は、四谷左門町の隠れ家で捕らえられる。 勲の顔写真が載った記事を本多は読む。 本多はかつて少年時代に、月修院門跡の法話を聴いた時から、ヨーロッパの自然法思想にあきたりぬものを感じ、輪廻転生をすら法の条文に入れている古代印度の、「マヌの法典」に心を動かされたことを思い出した、と三島由紀夫は書いている。
丸ビル5階 本多は、友人の事務所に間借りして丸ビル5階に看板をかけている。 事務所に洞院宮治典(とうのいんみやはるのり)殿下が薫の弁護士を探し出し本多を芝の御殿に招待している。 宮と本多とで薫について話が進められる。薫が清顕の転生であると信じている本多が、清顕の死に関わる宮との思いが作品に描かれている。
勲は、四谷刑務所に移されている。 権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があった、と三島由紀夫は記す。 続けて、勲に、「(純粋性を)一寸やはらぜれば別物になってしまいます。その『一寸』が問題なのです。純粋性には、一寸ゆるめるといふことはありえません。ほんの一寸やはらげれば、それは全然別の思想になり、もはや私たちの思想ではなくなるのです」、と尋問する警部補に言わせている。 写真は、四谷刑務所跡
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四谷刑務所二いる勲は槙子からの手紙を受け取る。 勲は、槙子からの手紙の文面から神風連の阿部以幾子とを対比している。 三島由紀夫は、阿部以幾子の生き方に興味があったようである。 写真は、桜山神社にある阿部以幾子の墓碑。
勲とその同志たちの第一回公判が6月25日、第二回が7月19日に行われている。 作品で本多に、「お前もそろそろ身を守る術を知るべき年齢だ。何もかも言うことによって、最後にお前は、真実が誰によっても信じてもらえない、という、人生にとってもっとも大切な教訓を知るだろう。そんな美しい目に対して、それが私が施すことのできる唯一の教育だ」、と言わせている。
昭和8年12月26日に判決が下り、勲は、釈放される。 勲は、帰宅の道すがら宮城前と明治神宮へのお礼の参拝をする。
勲は、帰宅の道すがら宮城前と明治神宮へのお礼の参拝をする。
勲は、帰宅後、決起を警察に直接密告したのが父であることを知る。 また、父へ教えたのが鬼頭槙子であることも伝えられる。 そして、靖献塾の経営が勲たちが命を狙っていた財界人からの金に頼っていたことの現実を知る。 勲は、政財界大物である蔵原武介が年末年始を過ごす熱海伊豆山稲村へ一人出かけ、蔵原武介を殺害する。 そして、近くの海に面した場所まで逃げて刀を腹に突き立て自害する。
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