宿場町・草津で楽しむかつての時代を偲ぶ
滋賀宿場町・草津で楽しむかつての時代を偲ぶ
まいどまいど! 江戸時代、武士たちによる参勤交代が活発になり、東京・江戸や京都・京、大阪・大坂など、行き来が活発でした。 今の時代のように乗用車や電車、新幹線の無い時代ですから、全国各地に宿場町が設けられ、宿場町の代表は格式高く本陣が置かれ、将軍ら武士のトップらが宿泊した場所も。 現在は参勤交代もなくなり、一般住宅などになっていますが、かつての時代をしのぶにはぴったりの町が草津におます。 大坂では守口や枚方などが有名でっしゃろか。 守口は宅地開発も進み、名残も少なくなっていますが、枚方では「くらわんか」など、町おこしも活発で、観光地としても人気がおます。 さて、草津には何がおますやろか。 ご近所には百貨店や大型商業施設もあるようですが、宿場町を訪ねつつ、おしゃれな施設でお買い物。 ご家族そろって楽しめる街・それが草津なのかもしれまへん。 ぜひ、皆さんで訪ねてみてください。
草津市内の観光案内や情報発信などを行っている。 案内所では、観光ボランティアガイドが常駐している。
西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(琵琶湖線)、草津線の停車駅の一つ。 1889年、官設鉄道の駅として開業。 1907年、関西鉄道は国有化。 1987年、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道となる。
西日本旅客鉄道東海道本線、草津線の停車駅の一つである草津駅前にある広場。 草津宿とは江戸時代、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場町。 周辺には本陣が現存し、国の史跡にも指定。
ちゃんぽんやラーメンなどを味わうことができる飲食店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューは近江ちゃんぽん、ラーメン、焼飯、肉汁餃子、鶏の唐揚げなど。 近江ちゃんぽんとは長崎のちゃんぽんがルーツではあるが、今では「滋賀県民のソウルフード」として知られている。 1963年、「麺類をかべ」がうどんやそばの専門店を出店、だし汁は削り節と昆布からとった「京風だし」であった。 その後、京風だしにアレンジを加え、野菜や豚肉などの具を入れて手鍋を使って煮込み、中華麺と一緒に盛り付けたところ、評判になった。
ビルの愛称は1987年、「エルティ932」に決定。 1989年、商業施設「エルティ932」として開業。 からくり時計の愛称は「エルカリヨン932」。 1999年、地下1階「昭和30年代の町並み」を模した飲食店街「ばんから横丁」を開業し、地下飲食店街「EKI-CHIKA DINING」に改称。 現在、スーパーマーケットや飲食店などが営業する。
近鉄百貨店が運営する滋賀県唯一の百貨店。 1997年、開業。 地上7階、地下1階。 施設内では食品売り場や婦人服・紳士服・子供服、レストランなどがある。
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案内板。 中山道は江戸時代、五街道の1つとして整備。 江戸の日本橋と京都の三条大橋を内陸経由で結ぶ街道として知られる。 別名、中仙道、仲仙道、木曾街道、木曽路。 東海道の南回り・太平洋沿岸経由に対して、中山道は北回り・内陸経由で江戸と京都を結ぶ。 草津追分以西は東海道と道を共にする。 江戸から草津まで約500km。 67箇所の宿場が置かれた。 宿場は江戸の日本橋から板橋宿、高崎宿、軽井沢宿、下諏訪宿、木曽路、関ヶ原を経て近江・草津までの67を数え、距離は東海道よりも40km長い。 比較的険しい山道が多いことに加え、冬場は雪・寒さも厳しい内陸の地域を通るため、宿場も16宿多い。
市民活動の場・にぎわい活動棟、イベント広場、ストリートファニチャー、ガーデンエリア、商業施設「クサツココリバ」などがある。 かつてここには淀川水系の一級河川・草津川が流れ、川床が民家の屋根よりも高い位置にあり、全国的にも珍しい天井川であった。 ヨハネス・デ・レーケが築堤に関わったとされるオランダ堰堤を経て北へ流れる。 治水事業として中流域から琵琶湖にかけての草津川放水路が開削されて廃川となり、川としての役目を終えた。 2017年、草津川跡地公園として整備。
草津は古くから東海道と中山道が通る交通の要衝として発展し、道しるべの道標が数多く現存。 東海道と中山道との分岐点に立つ道標は、京都・大阪・尾張・美濃などの定飛脚問屋や、播州・備前・江戸の日雇方など、人々の寄進によって建立。 「右東海道いせみち」「左中仙道みのぢ」と刻まれた。
滋賀県は古くから天井川が多く、川が山から流れ、土砂を運んで扇状地を成し、嵩上げして.土手の上に川を通したかのようになったのが天井川である。 明治時代、人々が往来できるように隧道を通した。
草津宿とは江戸時代、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場町。 古くから東海道、中山道が通る交通の要衝として栄えた。 当時、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は約78軒あった。 中山道は「守山宿」、東海道は「石部宿」、次は「大津宿」がある。
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草津まちづくりセンター前に設置された書状集箱。 日本郵政が設置した郵便ポストの前身にあたる。
草津まちづくりセンター前に設置された案内板。 東海道は五畿七道の一つ。 1601年、徳川家康は「五街道整備」により、五つの街道と「宿」を制定、街道としての「東海道」が完成。 日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る宿駅は、53箇所あり、東海道五十三次とも。
江戸時代、常設の掲示場として使用されていた。 村や宿場など、目立ちやすい場所に設置する。
草津宿とは江戸時代、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場町。 古くから東海道、中山道が通る交通の要衝として栄えた。 当時、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は約78軒あった。 中山道は「守山宿」、東海道は「石部宿」、次は「大津宿」がある。
草津宿に数件存在した脇本陣のうち、藤屋与左衛門家にあたる。 近江の地は最澄が中国の地より茶樹を持ち帰った日本最古の地であるとも。 ここでは煎茶・雁ヶ音・焙じ茶・玄米茶・京番茶・玉露・抹茶・かぶせ茶等が揃う。
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草津宿とは江戸時代、近江国栗太郡にあった東海道五十三次の52番目の宿場町。 古くから東海道、中山道が通る交通の要衝として栄えた。 当時、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠は約78軒あった。 中山道は「守山宿」、東海道は「石部宿」、次は「大津宿」がある。
草津市内の観光案内や情報発信などを行っている施設。 草津市まちなか交流施設として知られ、出会いと交流の文化を継承する憩いの場。 コミュニティFM放送局が併設。
たび丸
草津市で活躍するマスコットキャラクター。 性別は男の子。 誕生日は2001年8月24日(草津宿場400年祭の時のイメージキャラクター)。 特技はじゃんけん、友達を作ること。 好物はうばがもち、パインアメ、あわ玉。 趣味は旅をしながら草津市のことをたくさんの人に知ってもらうこと。 たび丸が訪れたところは度々、人が訪れるという。 英語も勉強中であるとか。
1999年、往時の草津宿のにぎわいの再生を目指した地域づくりの拠点、歴史史料館として開館。 草津には東海道と中山道が合流・分岐する宿場町「草津宿」があり、街道交流館も江戸時代の町家を模している。 モットーは「良き思い出作りの場所」「誇れるふるさとづくりの場」。 施設内では江戸時代の旅籠の再現模型や草津宿旅籠の食事、草津宿まちなみ模型も。
日本酒「道灌」などの製造で知られる酒造会社。 栗東市のブルワリーではワインも製造、兵庫県神戸市東灘区の魚崎郷でも日本酒を製造。 1874年、創業。 酒銘は遠祖の名にちなんで道灌正宗と名付けた。
宗派は真宗仏光寺派。 本尊は阿弥陀如来。 また草津界隈の七福神の一つ布袋尊としての一面も。
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日本のジャーナリズム研究、マスコミュニケーション研究の先駆者として活躍し、「新聞学」の名による斯学の確立に貢献。 1885年、立木神社の神官の家で生まれた。 新聞記者を経験した後、大学院に進学。 東京帝国大学・東京大学新聞研究所(現在の東京大学大学院情報学環・学際情報学府の前身の一つ)、上智大学に所属。 同研究所の初代所長に就任。 日本新聞学会(日本マス・コミュニケーション学会)を設立し、初代会長、名誉会長を歴任。
767年、武甕槌命は常陸国(茨城県)の鹿島神宮より白鹿に乗って大和国(奈良県)春日神社(春日大社)への勧請の旅の途中、当地に到着。 武甕槌命は持っていた柿の鞭を地面に刺すと柿の木が生成。 それを見た里人はこの木を崇めて社殿を建立、武甕槌命を祀り、社名を立木神社と称したのが始まり。 春日大社の創建は768年。 大旱魃になった際、光仁天皇が中臣諸魚へ勅し当社に雨乞いの祈願をさせたところ見事に大雨が降った。 光仁天皇はそのお礼として新たな社殿を造営、「立木大明神」の勅額を賜わった。 801年、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討に出陣、道中安全と厄除開運を祈願し、大般若経一部を寄進。
草津界隈の七福神
1487年、室町幕府将軍足利義尚が近江守護六角高頼を征伐するために栗太郡鈎に陣を敷いた(鈎の陣)時、当社に武運長久を祈願して四脚門(現・神門)を寄進。 1645年、膳所藩主石川忠総が社領を寄進。 草津宿に鎮座し、東海道と中山道の分岐点でもあったため、参勤交代のおりに諸国の大名が草津宿を通過する度、必ず当社に道中安全を祈願。 また草津界隈の七福神の一つ弁財天としての一面も。
大型ショッピングモール。 コンセプトは「新しいトキメキが待ついつもの広場。」。 1996年、開業。 エントランスには専門店街SARA、ディオワールド、アルプラザ草津が立地。 専門店街の「SARA」は「Shopping Amusement & Restaurant Avenue」の頭文字を取ったもの。 かつて当地には地方競馬場があり、1957年には綾羽が紡績工場を建設。