
海風吹き抜ける堺駅と幕末の堺
大阪海風吹き抜ける堺駅と幕末の堺
まいどまいど! 日本万国博覧会の前身にあたる内国勧業博覧会が大阪府堺市と大阪市天王寺区と浪速区で開催され、連日、多くの見物客でにぎわってたっちゅうて、その偉業は現在も語り継がれてまして。 開催地の一つとなった大阪府堺市内の大浜公園では随所に、その名残を見ることができまんねん。 ほんでまた、周辺では、旧堺港、旧堺灯台、旧大浜水上飛行場が残ってまんねん。 かつて、南蛮貿易で栄えた堺港は大阪経済を栄え、東洋のベニスと呼ばれ、海外から訪れた宣教師も堺の繁栄ぶりに驚きはったんやで。 せや!この歴史も立派な功績やさかい、語り継いでいきまひょ! っちゅうことで、シンボルの龍女神像が建立されましてん。 今では多くの観光雑誌に取り上げられてまんねやけど、それ以外にも堺では、与謝野晶子氏の出身地として知られ、生誕地や居住跡、そして像が建立されてまんねん。 どや!?すごいでっしゃろ? ほんでから、現在の関西国際空港、大阪国際空港(伊丹空港)の前身にあたる旧大浜水上飛行場は大阪市大正区に移転される日まで、実際に使用されてたんやで~。 堺はまだまだおもろいとこがあるさかい、遊びに行きまひょ!
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明治時代初期、堺港の改修事業に伴って、灯台設置の必要性が高まり、堺の有力者によって建設に至った。 1877年、木製の六角形のある灯台は、高さ11.3mとして完成した。 1968年、臨海工業地帯の埋め立てにより、灯台としての役目を終えた。 1972年、現存する最古の木製洋式灯台のひとつとして、国の史跡に指定された。 灯台の建設にはイギリス人技師のほか、堺の大工や石工も関わったという。 旧堺灯台は現在、堺市のシンボルのひとつとして、話題となっている。
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1879年、陸軍の砲台跡として整備、南公園として開設。 遊園地も開設。 1903年、第5回内国勧業博覧会開催時に堺水族館が開園。 東洋一の水族館とも称され、「陸の竜宮城」とも。 1922年、国内初の民間による日本航空輸送研究所が開設。 1923年、大浜公会堂で大浜少女歌劇が創設、公演を開始。 1934年、堺大浜球場が開場(大浜公園野球場)。 1948年、 南海電気鉄道が大浜パークを開園。 1909年、浜寺公園で学生相撲大会を開催。 1919年、堺市の大浜相撲場で第1回全国学生相撲大会が開催。 会場は大阪府立体育館に移転したが、1974年の第52回大会から大浜に戻った。
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旧ラジオ塔
全国でも遺構が現存している20数基のうちの1つ。 2007年、調査により、ラジオ塔であることが判明した。 昭和初期、ラジオの普及のため、全国の公園など公共の場にラジオ塔を設置した。 1930年、当時、ラジオは高級品であったため、大阪中央放送局が天王寺公園にラジオ塔を設置した。 これを皮切りに、全国に約460基が設置された。 1933年、旧大浜水族館庭園内に設置。
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擁護璽
1854年6月14日、地震が発生。 1854年11月4日と5日、地震が発生。 地震によって津波が発生し、多くの船が流されて破損、8つの橋が崩れ落ち、多くの家屋が破損した他、多数の犠牲者が出た。 堺の人々は、産土神の神明宮、三村宮、天満宮にその喜びの幣を捧げ、後の世も災いが無いことを祈って賜った璽をここに祭ったという。
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大浜潮湯
1900年代、海水を利用した大浜潮湯は、美章園温泉(大阪市阿倍野区)、源ヶ橋温泉(大阪市生野区)とともに「大阪3大温泉」と称された。 大浜潮湯の建物は現在、河内長野市の天見温泉「南天苑」に移築。 「丸三楼」「丸万楼」「川芳楼」「八角萬」「芳海楼」「芦海楼」など観光料理旅館が相次いで開業し、行楽地として人気を博した。 料亭「一力楼」では阪田三吉と関根金次郎が将棋の対局を行った。
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大浜公園内にある山。 1879年、大浜公園開園時、大阪湾の展望のため、標高6.84mの築山として整備された。 堺市では、一等三角点がある山としては、「日本一低い」として広報活動を行っている。 1885年、一等三角点は当初、御蔭山に設置されていた。 1939年、御蔭山の解体に伴い、一等三角点を蘇鉄山に移設した。
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別名、猿山。 1896年、大浜遊園地が開園。 1903年、第五回内国勧業博覧会が開催された。 会場は、天王寺会場(大阪市)と堺会場(堺市)の2ヶ所。 堺水族館は、第五回内国勧業博覧会の会場の一部として建設され、日本最初の本格的水族館となった。 東京帝国大学理学部教授で魚類学者の飯島魁博士により設計。 和洋折衷木造一部2階建ての水族館本館として完成。 当時は東洋一の水族館とも。 1961年、博覧会終了後、堺水族館となり、営業を続けたが、第二室戸台風の甚大な被害により閉鎖。 動物園舎も猿島を残して廃園。 安西冬衛氏により「堺水族館の歌」が完成。
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猿飼育舎内
堺水族館の閉鎖後、猿飼育舎のみを残した。 現在、約50匹のアカゲザルが飼育。 2009年、建て替えられた。
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かつて、自由都市として栄えた堺の町は、国内を始め、ヨーロッパとの貿易も盛んであった。 1549年に訪れたフランシスコ・ザビエル氏のように、海外の人との交流も盛んであった。 国内における重要な港として数えられた堺港は、応仁の乱以降、南蛮貿易の一大拠点へと発展。 その後、大坂の役によって堺市街は衰退の一途をたどるようになった。 江戸時代、鎖国政策と大和川の付け替え工事により、港湾機能は衰退。 旧堺港に設置された龍女神像は、海の安全を見守っている。 明治時代、龍女神像が高さ、26mとして大浜水族館前に設置後、水族館の閉鎖とともに撤去された。 平成時代に復元され、乙姫さんとの愛称で親しまれている。
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1837年、連年の凶作と商人・酒造人による買い占めによって米価は大幅に高騰した。 元大阪町与力の大塩平八郎らが中心となって「大塩平八郎の乱」が勃発した。 中之町から南半町浜に通じる堀川を開削した。 これによって南を流れる土居川と接続し、内川が南北に全通、堺の環濠は四周した。 開削時の土砂を積み上げてできた山が、御蔭山(御影山)である。 大飢饉にあえぐ堺のまちの人々が、この開発事業の賃稼ぎ労働で、生活をしのぐことができた。 この気持ちがこの山の名前の由来となった。 現在、御蔭山は削平されて残っておらず、碑のみが当時を物語る。
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祭神は、稲荷大神、天照皇太神、豊受大人、住吉大神、金山彦大神など。 1841年、当時の堺町奉行水野若狭守氏は、この町の繁栄、発展を祈って創建した。 わずか9日で社殿が竣工したことから、九と日を1字にまとめて、旭宮と称した。 1855年、現在地に遷座し、旭神明神社と改称した。 1871年、新地新明神社、神明神社へと改称した。
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天然の良港で海外貿易港として発展、自由貿易都市の玄関口として繁栄。 1704年、大和川の付け替えによる大量の土砂が堆積(現在の南島町、松屋町、山本町などが新田開発)。 1730年、堺沖に石堤が完成、港湾機能が衰退。 1792年、江戸の材木商・吉川俵右衛門らによって市之町沖に大波止(大浜北町)と小波止(北波止町)を整備、市之町から中之町(堺市堺区南半町南半町)まで内川(濠)を掘削するなど堺旧港を復元、環濠都市としての礎を築いた。
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明治時代以降
明治時代、難波と堺間を結ぶ阪堺鉄道(南海電鉄南海本線)が敷設、大浜公園周辺では東洋一の堺水族館、大浜公会堂、大浜潮湯、料亭、大魚夜市などが開業して賑わったが、室戸台風や第二次世界大戦の戦災、昭和時代の臨海工業地帯造成により衰退。
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別名、天誅組の変、大和義挙、大和の乱。 1863年、吉村寅太郎ら尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)は公卿中山忠光を主将として大和国で決起、幕府軍の討伐を受けて壊滅。 長州藩など各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い影響力を持っていた。 尊攘派の主張で、朝廷は直接各藩に攘夷を命じるほか、畿内を朝廷の直轄領とするなどの意見があったが、天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであった。 天誅組の挙兵によって幕府領支配の拠点である陣屋や居城が公然と襲撃された。
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1868年、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入り、同時に港内の測量を行った。 士官以下数十名のフランス水兵が上陸して市内で遊んでいたが、夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章(猪之吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉が通じず、土佐藩兵は仏水兵の捕縛を試みた。 仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪って逃亡し、土佐藩兵側は発砲。 双方銃撃戦の末、仏水兵を射殺、溺死させ、遺体は16日に引き渡した。
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堺事件のその後
土佐藩は発砲を認め、隊長の箕浦、西村ら指揮官4名と隊士16名は責任を取って死刑が決定。 大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺で土佐藩士の刑の執行が行われた。 立ち会ったフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、11人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請、結果として9人が助命。
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鎌倉時代から魚介類の市場として栄え、堺の一大名物となっている。 当初は、英彰小学校付近で市場としての機能を果たしていたが、明治時代には、現在地に移転したと言う。 近海で獲れた魚介類を中心に、遠洋のものまで幅広く、取り揃う。 深夜から早朝になると、天ぷら屋やすし屋などで、新鮮な魚介類の料理が楽しめる。
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堺を代表する堺魚市場内にある天ぷら専門店。 紅生姜、玉葱、南瓜、茄子などの野菜類、海老、穴子、烏賊などの魚介類などの単品の他、てんぷら盛り合わせ、日替わり定食などを味わうことができる。
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日替わり定食
日替わり定食では、海老、竹輪など5種の天ぷら、小鉢2品、あさり汁があり、ご飯はおかわり自由。 また、あさり汁などの汁物を味わった時に出る貝殻は足元に捨てるのが伝統として知られ、足場は貝殻で敷き詰められ、歩くたびに貝殻の音が鳴り響いていた。
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天ぷら専門店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューは玉ねぎ、なんきん、いんげん、紅しょうが、竹輪チーズ、えび、きす、あなご、野菜かき揚げ、雪見大福天などの天ぷら、名物あさり汁など。
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天ぷらの盛り合わせ
ランチタイムには天ぷらの盛り合わせや一品が一つになった定食も。
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1888年、堺市最古の駅「堺駅」が開業。 1912年、阪堺電軌阪堺線 宿院停留場が開業。 阪堺線と南海本線との乗換駅として龍神駅が開業。 龍神駅は、開業当初、堺市内では最多の乗降客数を誇っていた。 1945年、堺大空襲によって、ほとんどが焼失し、龍神駅が営業を再開した。 1955年、線形の改良工事に伴い、龍神駅と堺駅が統合し、新生「堺駅」として開業した。 観光案内所は、大浜公園、与謝野晶子生誕地、妙国寺などを含む周辺の観光案内を行っている。 その他、自転車の貸し出しも行っている。
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南蛮橋
堅川にかかる橋。 橋の中央部分に設置された南蛮人の銅像が話題を集めている。 かつて、堺市は、堺港があり、海外との貿易が盛んな地域であった。 世界的に有名なカトリック教の宣教師、フランシスコ・ザビエル氏が訪れた場所としても知られる。 そんな時代背景からか、川に面した設置された銅像は、過去の堺市の繁栄を物語る。
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与謝野晶子銅像
与謝野晶子生誕120周年を記念して建立。 1904年、実の弟が日露戦争に招集された際、「君死にたまふことなかれ」を発表したことなどで知られている。
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龍神橋付近には龍神に関する碑が建立。 1704年、大和川の付け替えによる大量の土砂が堆積(現在の南島町、松屋町、山本町などが新田開発)。 1730年、堺沖に石堤が完成したことによって港湾機能が衰退。 浜の人をはじめ、付近住民は港湾復興を願い、越後の国の龍沢山善法寺の僧に祈祷を依頼。 祈祷が終了し、日没後、海面一面には明かりが灯った。 これは龍神の霊験なりと評判となり、この新地を龍神と名付け、龍神橋となった。 新地とは1800年代に存在した龍神遊郭のことで、付近には高須遊郭、乳守遊郭、栄橋遊郭も存在した。 第二次世界大戦中の堺大空襲で戦災に遭い、衰退。
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そば居酒屋「湖中」。
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そばとカツ丼の定食!
カツ丼は並、そばはミニ。 食が進み、気づけば、完食。 ごちそうさま。 ランチの予算は、~1000円。 広告には、ビール類100円(時間限定)と書かれていた。 堺市に在住、通勤の皆様。 ぜひ一度、寄ってみてはいかがでしょうか。
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大阪府堺市内を流れる竪川にある橋梁跡。 1983年、南海電気鉄道の本線が高架化。 高架化の完成に伴い、地上を走行していた旧本線は廃止され、かつての遺構が現存。
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1500年代、堺の貿易商・納屋才助の子として生まれ育ち、和泉国堺の貿易商人として活躍。 本名、納屋助左衛門。 別名、菜屋助左衛門、魚屋助左衛門。 1594年、フィリピン諸島ルソン島に渡海、貿易商を営んで巨万の富を得た。 豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商となった。 1598年、華美な生活を好み、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしたとして邸宅没収の処分を受けることに。 ただ、事前に察知したため、邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出。
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呂宋助左衛門像
献上したルソン壺は一般に売られていた物(現地人の便器)であると発覚し、秀吉の怒りを買ったとも。 1607年、スペインがカンボジアに介入した後、ルソンからカンボジアに渡海、カンボジア国王の信任を得て、再び豪商に。
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別名、戎島紡績所。 1866年、薩摩藩は殖産興業を推進するため、堺に蔵屋敷の建設を名目に用地を獲得。 薩摩藩士石河確太郎(正龍)が責任者となってイギリスのミュール紡績機(ビギンズ商会製)が運び込まれた。 1870年、日本で2番目の機械紡績工場が建設、蒸気機関の試運転を開始。 1872年、五代友厚が営業担当にあたったが、業績は不振で廃藩置県を機に大蔵省勧農寮に買収(内務省に移管)。 石河は明治政府に登用、責任者に。 1877年、明治天皇は関西行幸の折に視察に訪れた。 1878年、浜崎太平次・肥後孫左衛門に払い下げられ、川崎正蔵の代理人の川崎正左衛門の所有となり「川崎紡績所」と改称。
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鉄道車両も
1889年、川崎愛之輔(正左衛門の妹婿)らによって泉州紡績会社を設立。 泉州紡績は工場所在地に因んだ商標「戎印」を採用してブランド化、中国・香港市場に進出。 1903年、泉州紡績が岸和田紡績に買収・合併後も「戎印」ブランド商品を生産。 1933年、施設の老朽化により取り壊された。 1939年、かつて日本に存在した鉄道車両メーカーの木南車輌製造の工場が稼働したが1954年に廃業。
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石銭とは「船舶及び諸問屋の貨物取扱の石数に応じて入港料を徴収し、之を港湾浚渫費に充てた(堺市史)」。 1680年、堺奉行の水野元重は港に入津した船の積荷の石高に応じて金を徴収。 積荷100石につき60銭、廻船は100石につき年に銀10匁、課せられた。 1711年、廻船1石につき3銭、諸問屋売高1石につき3銭に変更。 1723年、戎島には石銭勘定場が設置、徴収高は銀34貫800匁。 その他、大坂や江戸、長崎、伏見でも設置された。
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2013年、堺の観光振興や堺旧港周辺の賑わい創出を図ることを目的に、堺の歴史文化と観光魅力を表現した日本最大級の壁画「浪漫やさかい~時代を越えて通じるロマン~」が設置。 壁画は日本ノボパン工業株式会社の工場壁面にあたり、凸版印刷株式会社西日本事業本部関西情報コミュニケーション事業部の協力を得て、南蛮貿易で栄えた堺旧港へのタイムトリップで、時を越えて通じるロマンを表現。
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大浜北公園内にある碑。 江戸時代、商品の流通が盛んになり、港への船の出入りが頻繁になり、海上交通の安全を図るため、全国各地の岬や港の出入口付近に燈籠堂が設置。 別名、燈明台とも呼ばれ、現在の灯台と同じ役割を果たした。 堺では江戸時代中期、戎島の整備に伴い、燈籠堂が設置。 建物の高さは約10m。 当時、植物油を燃料とする灯明のような僅かな光でも効果を発揮したという。 江戸時代後期、堺港の整備に伴い、燈籠堂が移転。 1877年、洋式灯台の旧堺燈台が設置されるに伴い、燈籠堂が姿を消した。
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堺台場は旧堺港の南北に築造。 南台場は大浜公園内、北台場は大浜北公園内に位置。 南台場は造築当初、南北約36m、東西最大約183mの方形型、南北295m、東西195mの稜堡式台場に改築。 改修後、大砲18門を備えた。 北台場は南北約90m、東西約70m、36貫目の臼砲(モルチール砲)大砲8門を備えた。 当初、汐除けとして浜手に築いていた台場を再利用、これを基に増築・改修が行われた。 1864年、堺警備を担った彦根藩によって南台場を改築、彦根藩退役後は堺奉行が引き継いで完成。 明治時代、兵部省(陸軍省)の所管となり、堺市へ移管。 堺県によって大浜公園として整備、堺市によって大浜北公園として整備。
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船待神社御旅所付近にある碑。 1922年、日本の民間航空輸送会社として初めて日本航空輸送研究所が設立された。 設立には、徳島県出身のタクシー会社経営の井上長一氏が携わった。 日本航空輸送研究所は、堺市の大浜水上飛行場を拠点とした。 小松島、高松、大分、白浜など全国各地を結び、乗客・貨物・郵便の輸送業務を行っていた。 海軍から払い下げられた横廠式イ号甲型水上練習機、一四式水上偵察機、愛知AB-4飛行艇、スーパーマリン サザンプトンなどを運用し、「空飛ぶホテル」として人気を集めた。 後に、拠点を大阪市大正区の木津川河口の木津川飛行場に移転させた。
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出島漁港と堺出島ヨットハーバー
1939年、第二次世界大戦の本格化に伴い、国策会社の大日本航空株式会社が設立され、日本航空輸送研究所は業務を停止した。 戦後、井上長一氏元社長は関西汽船と共に極東航空を立ち上げ、日本ヘリコプター輸送と合併し、全日本空輸となった。 現在、大浜水上飛行場の跡地は出島漁港と堺出島ヨットハーバーとなっている。 格納庫跡には堺市消防局本庁舎が建てられた。
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魚貝海虫慰霊碑
船待神社御旅所付近にある碑。 大阪府に面した大阪湾の埋め立てに伴い、それまで住んでいた生物の犠牲・供養を目的に建立されたとか。
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1704年、吉川俵右衛門は大和川の付替え以来、土砂がたまり船の出入りに支障をきたしていた堺港の修築に尽力。 江戸浅草の商人俵右衛門は商用で訪れた港の様子に一念発起し、堺商人の協力を得て1790年に修築を開始。 1810年、工事は完成し、現在の堺旧港の原型がつくられた。
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北波止の突堤付近から出土。 1865年、港に出入りする船に対し、運行上の注意を促すため、新地方(港の管理にあたる役所)が建立。 当初、石の上部が損失していたが、発掘調査により、上部も出土し、当地に復元。
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