海風吹き抜ける堺駅と幕末の堺
まいどまいど! 日本万国博覧会の前身にあたる内国勧業博覧会が大阪府堺市と大阪市天王寺区と浪速区で開催され、連日、多くの見物客でにぎわってたっちゅうて、その偉業は現在も語り継がれてまして。 開催地の一つとなった大阪府堺市内の大浜公園では随所に、その名残を見ることができまんねん。 ほんでまた、周辺では、旧堺港、旧堺灯台、旧大浜水上飛行場が残ってまんねん。 かつて、南蛮貿易で栄えた堺港は大阪経済を栄え、東洋のベニスと呼ばれ、海外から訪れた宣教師も堺の繁栄ぶりに驚きはったんやで。 せや!この歴史も立派な功績やさかい、語り継いでいきまひょ! っちゅうことで、シンボルの龍女神像が建立されましてん。 今では多くの観光雑誌に取り上げられてまんねやけど、それ以外にも堺では、与謝野晶子氏の出身地として知られ、生誕地や居住跡、そして像が建立されてまんねん。 どや!?すごいでっしゃろ? ほんでから、現在の関西国際空港、大阪国際空港(伊丹空港)の前身にあたる旧大浜水上飛行場は大阪市大正区に移転される日まで、実際に使用されてたんやで~。 堺はまだまだおもろいとこがあるさかい、遊びに行きまひょ!
天ぷら てん助
天ぷら専門店。 店内はカウンター席とテーブル席がある。 メニューは玉ねぎ、なんきん、いんげん、紅しょうが、竹輪チーズ、えび、きす、あなご、野菜かき揚げ、雪見大福天などの天ぷら、名物あさり汁など。
呂宋助左衛門像
1500年代、堺の貿易商・納屋才助の子として生まれ育ち、和泉国堺の貿易商人として活躍。 本名、納屋助左衛門。 別名、菜屋助左衛門、魚屋助左衛門。 1594年、フィリピン諸島ルソン島に渡海、貿易商を営んで巨万の富を得た。 豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商となった。 1598年、華美な生活を好み、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしたとして邸宅没収の処分を受けることに。 ただ、事前に察知したため、邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出。
石銭場跡
石銭とは「船舶及び諸問屋の貨物取扱の石数に応じて入港料を徴収し、之を港湾浚渫費に充てた(堺市史)」。 1680年、堺奉行の水野元重は港に入津した船の積荷の石高に応じて金を徴収。 積荷100石につき60銭、廻船は100石につき年に銀10匁、課せられた。 1711年、廻船1石につき3銭、諸問屋売高1石につき3銭に変更。 1723年、戎島には石銭勘定場が設置、徴収高は銀34貫800匁。 その他、大坂や江戸、長崎、伏見でも設置された。
巨大壁画「浪漫やさかい~時代を越えて通じるロマン~」
2013年、堺の観光振興や堺旧港周辺の賑わい創出を図ることを目的に、堺の歴史文化と観光魅力を表現した日本最大級の壁画「浪漫やさかい~時代を越えて通じるロマン~」が設置。 壁画は日本ノボパン工業株式会社の工場壁面にあたり、凸版印刷株式会社西日本事業本部関西情報コミュニケーション事業部の協力を得て、南蛮貿易で栄えた堺旧港へのタイムトリップで、時を越えて通じるロマンを表現。
燈籠堂跡
大浜北公園内にある碑。 江戸時代、商品の流通が盛んになり、港への船の出入りが頻繁になり、海上交通の安全を図るため、全国各地の岬や港の出入口付近に燈籠堂が設置。 別名、燈明台とも呼ばれ、現在の灯台と同じ役割を果たした。 堺では江戸時代中期、戎島の整備に伴い、燈籠堂が設置。 建物の高さは約10m。 当時、植物油を燃料とする灯明のような僅かな光でも効果を発揮したという。 江戸時代後期、堺港の整備に伴い、燈籠堂が移転。 1877年、洋式灯台の旧堺燈台が設置されるに伴い、燈籠堂が姿を消した。
堺北台場跡
堺台場は旧堺港の南北に築造。 南台場は大浜公園内、北台場は大浜北公園内に位置。 南台場は造築当初、南北約36m、東西最大約183mの方形型、南北295m、東西195mの稜堡式台場に改築。 改修後、大砲18門を備えた。 北台場は南北約90m、東西約70m、36貫目の臼砲(モルチール砲)大砲8門を備えた。 当初、汐除けとして浜手に築いていた台場を再利用、これを基に増築・改修が行われた。 1864年、堺警備を担った彦根藩によって南台場を改築、彦根藩退役後は堺奉行が引き継いで完成。 明治時代、兵部省(陸軍省)の所管となり、堺市へ移管。 堺県によって大浜公園として整備、堺市によって大浜北公園として整備。
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