
八重洲・日本橋
東京八重洲・日本橋
まいどまいど! 東京を代表する繁華街といえば八重洲・日本橋。 名は日本橋でも「にほんばし」と読み、大阪・日本橋の「にっぽんばし」とは読み方がちゃいまんねん。 また東京の日本橋は経済の中心地としても知られ、中心部には日本銀行本館、日本銀行金融研究所貨幣博物館、そして東京証券取引所などがおまして、ビジネスマンの姿が絶えへん界隈ともなってまんねん。 周辺には厳かな雰囲気を持つ三越百貨店があり、日本初の店前現銀売りや現銀掛値無し、小裂何程にても売ります(切り売り)を行った場所としても知られてまんねん。 最近では日本初のファッションショー、日本初の自動車(配達用)、デパートのバーゲンセール、第一回無形文化財日本伝統工芸展を開催。 その他、第一国立銀行跡・銀行発祥の地としても知られておまして、日本初の民間資本による銀行の発足ならびに株式会社が設立。 ここにも渋沢栄一氏の足跡を感じることができまんねん。 また、郵便局発祥の地としても知られ、郵便局を発足させた前島密氏の銅像も建立。 日本初・世界初がぎょうさん詰まった八重洲・日本橋界隈を闊歩しまひょ。
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日本銀行の当座預金を使用し、銀行などの金融機関同士の取引の決済を行う「銀行の銀行」で、国庫金の出納を行う「政府の銀行」、日本の中央銀行。 略称は、日銀。 日本で唯一の発券銀行として日本銀行券の発行および管理を行う。 1882年、日本銀行法に基づき、日本国政府から独立した財務省所管の認可法人として設立。 資本金は1億円(政府が55%、それ以外が45%で出資)。 1998年、日本銀行法が全面改正され、二つの目的「物価の安定」と「金融システムの安定」が示された。
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1985年、日本銀行創立100周年を記念して日本銀行金融研究所内で開館。 田中啓文から寄贈された「銭幣館コレクション」をもとに、古代から現在に至るまでの「日本の貨幣史」、世界の貨幣・紙幣を紹介する「さまざまな貨幣」、「テーマ展示コーナー」から構成。 発掘された貨幣や軍票、記念硬貨などが展示され、1億円分の紙幣の重さを体験できるコーナーも。
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東京都港区新橋一丁目と新橋二丁目とを結ぶ東京都道405号外濠環状線(通称、外堀通り)の一部。 皇居(旧江戸城)外濠(外濠川)と日本橋川の分岐点に架橋。 日本橋川に架かる橋では最も低い。 2000年、竣工。 江戸時代、北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、橋が破損、これらの両後藤の援助により再建。 そのため後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋(別名、後藤橋)と名付けられた。 1963年、首都高速都心環状線が開通した際、親柱を撤去。 1973年、鈑桁橋に改修される際に袖柱を撤去、上流側に親柱2本が残るのみ。
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都内最古の親柱
関東大震災以前のRCアーチ橋のものとして、都内最古の親柱として区民有形文化財建造物に指定。 一石橋は、橋上に立つと八つの橋(外濠の常磐橋 (日本橋川)・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋)が見渡せたことが由来で「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれ、江戸の名所の一つになった。
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江戸時代、繁華街として発展し、迷い子が多く出た。 1857年、地元西河岸町の人々によって「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。 しるべの右側には「志(知)らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪み。 使用法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。
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日本の画家・詩人として活躍。 1884年、酒造業を営む岡山県瀬戸内市邑久町で生まれた。 本名、竹久 茂次郎。 大正ロマンを代表する画家で多くの美人画や風景画を残し、日本画の技法や洋画(キャンバスに油彩)技法によるその抒情的な作品は「夢二式美人」「大正の浮世絵師」とも。 文筆の分野では詩、歌謡、童話など創作、詩「宵待草」は大衆歌として人気を集め、全国的な愛唱曲となった。 生活と結びついた美術を目指し、産業と融合すべきとの理念を持って商業美術(グラフィック・デザイン)の概念を描いたとも。 1899年、兵庫県神戸市の兵庫県神戸尋常中学校(兵庫県立神戸高等学校)に入学。
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港屋絵草紙店
1900年、酒造業を廃業、八幡製鉄所に職を求め、福岡県北九州市に転居。 1901年、早稲田実業学校専攻科に入学。 友人・荒畑寒村の紹介で平民社発行「直言」にコマ絵が掲載。「中学世界」に「筒井筒」が第一賞入選、童話雑誌「少年文庫」の挿絵を描く。 著書「夢二画集-春の巻」発刊、ベストセラーに。 1914年、日本橋呉服町で「港屋絵草紙店」を開店。
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各地で展覧会を開催
1916年、セノオ楽譜「お江戸日本橋」の表紙画などを作画。 1917年、京都府京都市の高台寺付近に転居。 「夢二抒情小品展覧会」を開く。 セノオ楽譜「宵待草」が発刊、全国的なヒット。 1921年、東京都の渋谷に転居。 1923年、恩地孝四郎らと「どんたく図案社」を発足、関東大震災(大正関東地震)で被災。 その他、国内旅行、海外旅行を重ね、各地で展覧会を開催。
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東京都中央区内を流れる日本橋川に架かる橋の一つ。 水系は一級水系 荒川。 水源は神田川で隅田川と合流。 徳川家康が東京に移封、江戸幕府が開幕。 平川(神田川上中流)に流れる神田川開削の天下普請が行われた。 このとき、三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となり、飯田堀、飯田川とも。 徳川家康は全国の道路網(街道)整備計画に際し、初代の橋(木造の太鼓橋)を架橋、公儀橋とした。 以降、流域は経済・運輸・文化の中心として発展、堀の両側には河岸が点在、全国から集められた物資で賑わい、鎌倉河岸、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、兜河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸があった。
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明治時代へ
1604年、五街道の基点となり、江戸の中で最も賑わう場所となった。 明治時代、道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられ、飯田堀は開通した鉄道の飯田町駅との運河としても使用。 1903年、日本橋川を開削、神田川の派川となった。
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路面電車も
橋上を路面電車(東京電車鉄道)が初めて運行。 1911年、橋梁の日本橋が完成し、国道の一部となった。 現在の橋は20代目に当たるとされ、江戸時代より日本橋という名称がつけられていたとか。 石造二連アーチ橋、橋の長さ49m、設計は米本晋一。 橋柱の銘板にある「日本橋」の揮毫は徳川慶喜のもの。 橋脚と橋台は山口県産の名石、側面は真壁石、アーチ部分と道路の表面は稲田石を使用。
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獅子像と麒麟像
装飾顧問は妻木頼黄、装飾制作は東京美術学校、青銅像の原型製作は渡辺長男が担当。 西洋的な基本デザインに、麒麟と獅子の青銅像や一里塚を表す松や榎木を取り入れた柱模様などを装飾。 麒麟像は日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから翼が付けられ、奈良県手向山八幡宮の狛犬やヨーロッパのライオン像などを参考にした獅子像は東京市の紋章を手にしている。
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オムライスやオムレツ、カレーライス、カツカレーなどが味わえるレストラン。 1931年、洋食屋として創業。 初代畑安之助氏は当初、彫金師を目指して弟子入りしたが、明治時代、西洋料理や中華料理などを中心とする「西支御料理処」泰明軒本店を出店し、江戸で初めてシューマイを販売したとか。 三代目たいめいけん監修のビーフハンバーグ弁当が販売。
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戦前、道路法では各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付け、東京府東京市では日本橋を道路元標とした。 このため、日本の道路元標が設置され、日本の道路網の始点となった。 1604年、道路元標は徳川幕府を開いた徳川家康公が日本橋を五街道の起点と定め、全国の里程の起点とした。 1873年、日本橋は諸街道の起点と定め、橋の中央をもって国内諸街道の元標とされた。 1911年、現在の日本橋に架け替えられた際、橋の中央に「東京市道路元標」が設置。 1972年、道路改修が行われ、「東京市道路元標」が移設。 当時の佐藤栄作内閣総理大臣の名前が刻まれた。
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三越は三越伊勢丹が運営する日本の老舗百貨店で日本初の百貨店。 商号の三越は、三井家と創業当時の呉服屋「越後屋三井八郎右衛門」からとったもの。 1673年、呉服店「越後屋」が伊勢松坂出身の商人・三井高利によって東京・日本橋に創業。 1904年、合名会社三井呉服店から株式会社三越呉服店へ改称。 1914年、日本橋本店のルネッサンス様式の新館が落成。 「スエズ運河以東最大の建築」と称され、アール・デコ調の内装と合わせ建築史上に残る傑作とも。 1935年、日本橋本店が竣工。 キャッチフレーズ「飾る日も 飾らない日も 三越と」「This is Japan」。
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日本初・世界初
江戸時代、日本初の店前現銀売りや現銀掛値無し、小裂何程にても売ります(切り売り)を行った。 最近では日本初のファッションショー、日本初の自動車(配達用)、デパートのバーゲンセール、第一回無形文化財日本伝統工芸展を開催。 従来、値切られることを考慮して値段を実際の売値よりも高く提示して値段を上げ下げする慣習であったが、世界初の正札販売「正札付き現銀掛値なし」として定価販売。
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ディズニーランド!?
屋上に、アメリカのディズニーランドを模した屋上遊園地「こどもの夢の国!楽しいディズニーランド」を期間限定で開園。 東宝は日本初の西洋式の劇場として帝国劇場を開設、来場客に配付した広告のキャッチ・フレーズには「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」が有名。
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かつては大坂にも
1691年、大坂・高麗橋一丁目に越後屋大阪店と両替店を開設するも、1873年の大塩平八郎の乱で大坂店が全焼し、大阪の高麗橋三丁目に移転、1894年、高麗橋二丁目に移転。
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ライオン像
ライオン像はシンボル的存在で1914年に設置。 ロンドンのトラファルガー広場ホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデル。 英国の彫刻家メリフィールド、バルトンが鋳造した青銅製。
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旧財閥三井家の伝来品の収蔵展示を目的に設立された私立美術館。 1985年、東京都中野区上高田「三井文庫別館」(三井文庫本館は史料館)として開館。 2005年、旧三井鉱山があった東京都中央区日本橋室町の三井本館に移転「三井記念美術館」と改称。 旧財閥三井家が所蔵していた社会経済史料の保存のため、1965年に財団法人三井文庫が設立され、1985年に「三井文庫別館」が開設。 円山応挙「雪松図」、刀剣類、藤原定家の日記「熊野御幸記」、金剛右京家伝来の能面類、日本最古の年紀「船氏王後墓誌」、 陶磁器、志野茶碗「卯花墻」などを収蔵。
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設計はトローブリッジ・アンド・リヴィングストン(英語版)社(米国)、ワイスコッフ・アンド・ピックワース社。 1929年、地上7階、地下2階として竣工。 三井本館は三井財閥の本拠であり、現在は三井不動産が保有し、三越の前身にあたる越後屋の跡地。 團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場にもなった。 1902年、旧三井本館が竣工するも1923年の関東大震災で被災。 1945年から2年間、連合国軍最高司令官総司令部が一部を接収。
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八重洲地下街にあるカレーライス専門店。 メニューはカツカレーや、チキンカツカレー、麻婆豆腐カレーなど。 店内はカウンター席があり、テイクアウトも可能。 14時から19時まではタイムサービスとしてチキンカレー・コロッケカレー・チーズカレーが300円に。 チキンカレー
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2020年、東京駅八重洲中央口前に「おいしい食の未来」を体験・楽しめる野外フードコート「Beeat!!八重洲」が開業。 食品関連企業・団体や生産業、地域の飲食店、料理人らが中心となった期間限定イベントの一つ。 テーマは「未来の食」。 オープンスペースで、新食材を使ったヘルシーなテイクアウト、規格外の野菜や植物工場生産の野菜、環境に配慮した容器の採用。
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東京駅八重洲口広場地下と広場に隣接する道路の地下に広がる地下商店街。 通称、ヤエチカ。 売場面積では東京都内最大、日本国内では大阪市のクリスタ長堀に次いで2番目。 1958年、東京地下駐車場として設立。 1965年、地下街開業。 1992年、八重洲地下街に改称。
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尾台榕堂は将軍・徳川家茂の侍医も務めた幕末の名漢方医・ 1799年、信濃魚沼郡(現在の新潟県十日町市)出身。 16歳の頃、江戸に出て医師の尾台浅嶽に漢方を学んで師家を継ぎ、浅田宗伯と共に「江戸の二大名医」として称えられた。 大坂城で倒れた家茂を診察して評判を呼び、明治天皇の侍医も務めた。 診療を待つ患者を相手に診療所前には茶屋が出来たとも。 「浅田飴」の創業者・堀内伊三郎は浅田家の書生で水飴の処方を譲り受け、浅田飴を創業したとも。
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日本とオランダの関係はウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンらの来航によって始まる。 1609年、平戸にオランダ商館が設立(後に長崎に移転)。 鎖国時代の日本の欧州に対する唯一の窓口になった。 八重洲とは地名の一つで1600年、帆船リーフデ号の乗組員として日本に漂着したオランダ人航海者ヤン・ヨーステンに由来。 徳川家康によって国際情勢顧問や通訳、朱印船貿易家として活動、徳川家康から与えられた屋敷の周辺を「やよす河岸」等と呼び、地名「八重洲」の起こりとも。 八重洲河岸は築城資材を積んだ船など江戸城建設の起点に。
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江戸 東京 八重洲 歴史
馬場先濠外側の河岸は「八代洲(八重洲)河岸」とも。 江戸城外濠には呉服橋と鍛冶橋が架橋。 呉服橋は呉服橋交差点、鍛冶橋は鍛冶橋交差点に名を残し、外濠の内側は江戸城外郭(丸の内)。 外濠の外側は「城辺河岸」(河川舟運の物流拠点・市場)であり、商工業者の集住地。 材木関係の職人が集住した(上・北・南)槇町、檜物町、桶町、(元・南)大工町、あるいは職業に基づく南鍛冶町や北紺屋町などの旧町名も由来。
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江戸 東京 八重洲 歴史
呉服橋門は、門外に幕府呉服司後藤縫殿助の屋敷があり、江戸時代後期には北町奉行所が呉服橋門内に置かれた。 1660年、八代洲河岸には定火消屋敷(幕府直轄の消防組織)の一つが設置。 浮世絵師の歌川広重は定火消同心安藤家の嫡男として八代洲河岸の定火消屋敷で誕生、火消同心職を務めた。 1884年、八重洲橋が架橋。 橋の名は、日本橋区・京橋区(現在の中央区)から麹町区八重洲町に通じることから。
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江戸 東京 八重洲 歴史
1890年、八重洲や丸の内一帯の広大な土地は三菱の岩崎弥之助に払い下げ(いわゆる「三菱ケ原」「三菱村」)。 三菱一号館が建設され、赤レンガ造のオフィスビルが並ぶようになり、「一丁倫敦」と呼ばれる。 1904年、外濠沿いの道路に東京電気鉄道(通称「外濠線」)の路面電車が開通。 新橋駅北口から、数寄屋橋・鍛治屋橋・呉服橋を経て、北は御茶ノ水に至る。
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江戸 東京 八重洲 歴史
明治時代から昭和時代にかけては千代田区丸の内二丁目の一部が「八重洲町」と呼ばれていた。 東京駅八重洲口付近の外濠川に架かっていた橋「八重洲橋」から東京駅東口が「八重洲口」、駅前の幹線道路が「八重洲通り」と呼ばれるようになった。 1914年、東京駅が開業、八重洲橋は撤去。 1954年、日本橋呉服橋、槇町が改称し、町名「八重洲」が誕生。
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大阪府大阪市中央区に本社を置く老舗百貨店。 1831年、京都で飯田新七が古着・木綿商を開業、義父の飯田儀兵衛の出身地・近江国高島郡(滋賀県高島市)から髙島屋と名付けた。 明治時代、貿易業に参入。 1890年、日本橋本石町「たかしまや東京出張所」設置。 1919年、髙島屋呉服店として大阪・長堀橋に開店。 1932年、南海ビルディングが大阪・難波に竣工。 1933年、東京・日本橋に日本橋店を開店。 2012年、店舗の正式名称を東京店から日本橋店に改称。
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近江商人大村彦太郎によって日本橋の南側に呉服店・白木屋が創業。 日本橋北側の越後屋と並ぶ人気の店舗であったとか。 1711年、2代目彦太郎は日本橋周辺の水不足を解消するため、店内に井戸を掘削。 難工事であったが、一体の観音像が出現した途端、不思議と清水が湧き出たと言う。 やがて評判となり、「白木名水」と呼ばれるようになった。 越前松平家は「白木名水」で病が治ったとして、1868年頃まで毎朝、水を汲み取っていたとか。 1999年、白木屋は東急百貨店日本橋店として営業するも閉店し、白木名水も消失。 観音像は浅草寺に安置。
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2005年、早稲田大学は「漱石名作の舞台の碑」を建立。 夏目漱石の作品には日本橋の地が数多く登場、早稲田大学では「この地に碑を」と働きかけて実現。
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江戸時代、当地を中心とする東京は水運業が盛んで付近には多くの河川と運河があり、物資の集積地となった。 1876年、江戸橋の畔に位置する土蔵倉庫には郵便汽船三菱会社の荷捌所が開設。 レンガ造りの「七つ蔵」に建て替えられ、1930年には三菱倉庫江戸橋倉庫ビルが建設。 東京都選定歴史的建造物に指定。 2014年、江戸橋倉庫ビルは18階建ての「日本橋ダイヤビルディング」に建て替え。 ただし、低層部は「江戸橋倉庫ビル」の外観が保存、地震対策として「中間階免震構造」となった。 1階は三菱倉庫と江戸橋の歴史が展示された公開スペースとなっている。
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日本橋江戸橋のうつりかわり
公開スペースでは「日本橋江戸橋のうつりかわり」をテーマとして、江戸から現代までの発展の軌跡を紹介。 分野は「江戸から続く繁盛地」「近代化と消費・流通の隆盛」「倉庫業の始まり」「関東大震災からの復興と新生江戸橋」「さらなる都市化と21世紀」として構成。
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1871年、駅逓司(現在の総務省、日本郵政、及び日本電信電話の源流の一つにあたる機関)と郵便役所(東京中央郵便局の前身)が設置され、近代郵便制度が開始。 1874年、駅逓寮庁舎(旧魚類御用屋敷)の大規模改築に着手し、木造瓦葺き漆喰仕上げ2階建ての擬洋風建築として完成。 1888年、駅逓寮庁舎が火災で焼失。 1917年、現行施設である日本橋郵便局の開局。 当地には石碑「郵便発祥の地」と、「日本近代郵便の父」として知られる前島密の像が設置。
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前島密
前島密とは日本の官僚、政治家。 1835年、新潟県上越市生まれ。 日本の近代郵便制度の創設者の一人。 「郵便制度の父」とも。 今日の「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め、1円切手の肖像にもなった。
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日本取引所グループの子会社で、日本最大の証券取引所。 通称、東証。 日本取引所グループのうち、企業株式を中心とする有価証券が売買される現物市場を受け持つ、金融商品取引法上の金融商品取引所。 1949年、日本で初めてとなる公的な証券取引機関である東京株式取引所が前身。 証券業者(後の証券会社、現在の金融商品取引業者)を会員とする東京証券取引所として設立。 2001年、組織変更し、東京証券取引所となった。 株式市場には上場基準の異なる市場第一部(東証一部)及び市場第二部(東証二部)並びに新興企業向けのマザーズ・JASDAQがある。
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東京証券取引所
東証市場において成立した有価証券の清算機関として、グループ会社・兄弟会社である日本証券クリアリング機構を指定。 収益拡大と日本の資本市場発展という目的から、国内外企業の新規株式公開誘致に取り組み、地方のIPO候補企業を発掘するため、北海道から九州まで全国の地方銀行とも連携。
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1873年、渋沢栄一によって日本初の銀行「第一国立銀行」が開業。 同時に日本初の株式会社が発足。 民間資本による民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。 初代本店の建物の設計者は二代目清水喜助。 日本初となる銀行の建築を清水組(清水建設)の二代清水喜助が設計施工を手掛けた。 1896年、国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、一般銀行に改組し、第一銀行に改称。 1943年、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併、帝国銀行となる。 1948年、再度、分割して第一銀行として再建。 1971年、日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となり、現在のみずほ銀行となる。
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江戸時代、鎧の渡しとして渡し場があった。 1872年、鎧橋が架橋、渡しは衰退。 平安時代、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪に遭い、鎧を海中に投げ入れて竜神に祈りを捧げ、無事に渡ることができた。 以来、ここを鎧が淵と呼んだ。 一説には平将門が兜と鎧を納めたところとも。
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1887年、日本で初めてとなる火力発電所が東京電燈会社(東京電力)によって建設。 これは、工部大学校の講堂において、日本で初めての電灯が点灯してから9年後にあたる。 日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局など周辺地域の電燈の供給を開始。 これが日本における配電線による最初の電燈供給であり、その発電設備は直立汽缶と30馬力の横置汽機を据付け、25キロワット、エジソン式 直流発電機1台を運転。 配電方式は電圧 210ボルト直流三線式。
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当地にはかつて恵心僧都源信が編んだ草庵が位置していた。 1466年、疫病が流行し、この草庵には稲穂を持った老人が訪れ、連泊した。 庵主は恵心僧都の夢を見て、「この老人を稲荷神として崇めれば、疫病は退散する」というお告げを聞いた。 翌朝、老人の姿はなかった。 稲荷神を祀る神社を建立すると、疫病も収束したという。 領主の太田道灌もこの話を聞き、土地を寄進し、折に触れて参詣した。 明治時代、神仏分離により、別当寺「萬福寿寺」(廃寺)から分離。 1873年、近代社格制度における「村社」となった。 1923年、関東大震災により被災。 1929年、明治神宮造営の工匠長・内藤駒三郎宮大工一門によって再建。
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「昇り龍」「降り龍」
「昇り龍」「降り龍」などの彫刻が施された。
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