飛鳥彩瑠璃の丘 天極堂テラス周辺のおすすめスポット情報が掲載されているページです。
龍蓋寺(岡寺)
4月中旬〜5月初旬 石楠花しゃくなげ 3000株
石舞台古墳
何故、石舞台と呼ばれているか? それは、昔、狐が女に化けてこの上で舞ったという伝説から石舞台と呼ばれたそうです。
安居院(飛鳥寺)
宗派は真言宗豊山派。 蘇我氏の氏寺である法興寺の後身。 本尊は釈迦如来、通称、飛鳥大仏。 開基(創立者)は蘇我馬子。 山号は鳥形山。 寺号は安居院。 法号は法興寺、元興寺。 588年、百済から日本へ僧と技術者(寺工、鑢盤博士、瓦博士、画工)が派遣。 飛鳥の真神原の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉の邸宅を壊して法興寺の造営を開始。 700年頃、蘇我氏の氏寺として造営、伽藍を備えた日本最初の本格的な仏教寺院。 蘇我馬子は排仏派の物部守屋と対立し、蘇我馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念。 発掘調査の結果、当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認。
橘寺
天台宗の寺院。 正式名称は仏頭山上宮皇院菩提寺。 本尊は聖徳太子・如意輪観音。 創建時期など詳細は不明。 寺名の由来は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来。 橘寺の付近は聖徳太子が生まれた場所とされ、当寺は聖徳太子建立七大寺の1つとも。 太子は父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まり。 発掘調査の結果、当初の建物は東を正面に中門、塔、金堂、講堂が東西に一直線に並ぶ四天王寺式または山田寺式の伽藍配置。 8世紀、堂宇66が立ち並び、皇族・貴族の庇護を受けて栄えた橘寺であった。 1148年、五重塔が雷で焼失し、1190年頃に三重塔として再建。
亀石
亀石 平安時代にはもうすでにここにあって『亀石』と呼ばれていましたようです。 学生時代、初めてお目にかかったときは、野原に転がった様にあった記憶がありますが、今は、家々に囲まれて窮屈そうでした。
飛鳥坐神社
散歩の途中で参拝させて頂きました。 今は撤去されているが男性と女性のシンボルが所狭しと祀られていたとの事。陰陽石の宝庫であった様だ。古代の性器崇拝の風習がった様だ。古代をそのしのぶ風習の名乗りが全く観られないのが残念であった。 古代の神々の風習なくして国うみ神話を語ることはできないな。
カフェことだま
明日香村にあるカフェ🍓 明日香村の素材を使用したこだわりのランチはとっても人気なので予約必須です🥺❣️ カフェメニューのパフェやパッピンスも美味しそうでした👌🏻
酒船石
観光 Webによると、 丘の上の『酒船石』と下にある『亀形石造物』との関係はまだ明らかではないようです。 『日本書紀』の斉明天皇二年(556年)の条に記されている「宮の東の山に石をかさねて垣とす。石の山丘」に符合する遺跡ではないかと思われているようです。 『亀形石造物』は平安時代まで250年間使用された形跡があり、何か祭祀が行われたものと推測され、水の流れとしては、石を積んで造られた湧水施設から、小判形、亀形を通って北に伸びる溝に排出するようになっているとのこと。 今は両方合わせて『酒船石遺跡と呼んでいるそうです。
甘樫丘
朝の散歩で甘樫丘から眺める。畝傍山、耳成山、そして天香山を眺める。 蘇我氏と東漢氏の根拠地であった飛鳥の地で蘇我蝦夷とその息子入鹿の屋敷があった場所。そして蘇我氏の軍事的な役割を果たした東漢氏が守りを固めた大規模な軍事基地でもあった様だ。
L’Auberge de Plaisance Sakurai オーベルジュ・ド・ぷれざんす 桜井
素晴らしい! このホテルの若い料理長の腕は確かです。 味に加え色々と工夫があり美味しかった。 お勧めです❗️ 2泊しました。
川原寺
橘寺と道路を挟んで北側にある礎石は、斉明天皇の川原宮あった場所に天皇が亡くなった後建てられた川原寺の跡だそうです。 天智天皇と天武天皇の母である斉明天皇の突然の死を悼む心が伝わる。天智、天武、持統、文武の時代、飛鳥四大寺の1つとして扱われた。蘇我氏鎮魂の為の飛鳥寺、国家安泰を祈る大官大寺、天智天皇と天武天皇の母親である斉明天皇の霊を祀る川原寺、そして天武天皇と持統天皇の愛の結晶である薬師如来を祀る本薬師寺。 川原寺(引福寺こうふくじ)は、藤原氏の氏寺である興福寺(こうふくじ)として、平城京の一等地に広大な広さを持って取って代われている。
推古天皇豊浦宮跡
豊浦寺跡の一角には、難波池と呼ばれる池が残っています。つまり、ここが日本書紀にある難波の堀江であり、仏教伝来で有名な金色の釈迦仏が破棄された場所、と言われている池跡があります。 舶来の仏教と古来の神々を信仰する物部氏との戦いの名高い一場面を思い起こすことができます。
奈良県立万葉文化館
万葉集を中心として1300年前の古代文化を体験できるミュージアム。万葉集モチーフの日本画の展覧や、万葉の時代にタイムスリップしその生活や文化を肌で感じたり、学んだりできる楽しいミュージアムです。 飛鳥池工房遺蹟の復元遺構や富本銭などの出土品なども見られます。ご興味のある方にはぜひ訪れていただきたいスポットです。 カフェレストランや、ミュージアムショップなどもあり一日遊べる穴場スポットです。
明日香村
明日香村へ 剣池から40年前にはなかった新興住宅地に迷い込んでしまい、豊浦寺跡への道を失ってしまいました。 反対側から歩いてきた方に道を尋ねると、さらに北側にあるバス通りを東に歩きなさいと教えられました。 住宅街を過ぎたところに明日香村の表札がありました。 これから先の土木建設は許さない、と言わんばかりに立っていました。 懐かしい風景が広がっていました。
伝飛鳥板蓋宮跡
第34代舒明天皇と第35代皇極天皇の時代の宮跡。 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を倒した、まさに大化の改新の舞台となった場所です。 そして、壬申の乱で勝った天武天が近江宮から遷都し即位した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)を建てた場所である。 天武天皇の父である舒明天皇と母である皇極天皇つまり斉明天皇の宮跡に戻っていた事になる。
蘇我入鹿首塚
写真の後ろが蘇我入鹿の邸宅があった甘樫丘。 蘇我入鹿を暗殺して談山神社へ逃げる中大兄皇子と中臣鎌足を、切断された入鹿の首が宙を舞い彼らを追いかけた、との話が残っています。 彼ら二人を見失った首は、甘樫丘にある邸宅に残る父・蝦夷を心配して自分の邸宅をめざしまたが、ここ首塚のあると場所に落下した、との言い伝えがあるそうです。 こんな言い伝えに胸をわくわくしながら、学生時代の私は、この辺をさ迷った記憶を昨日の様に覚えています。その時は、とても暑い日でした。 なお、この墓は室町時代の坊さんの墓、との言い伝えがありましたが、近年、蘇我入鹿の首塚と呼ばれる様になったのが真実の様です。
水落遺跡
水落遺跡 学生時代散策した頃は、まだ発見されていませんでした。 中大兄皇子が作った水時計(漏刻)とのこと。
飛鳥京跡
飛鳥時代、飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡遺跡。 飛鳥古京跡とも称する。 宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことに関わる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成。
古宮遺跡(伝推古天皇小墾田宮跡)
伝小墾田宮跡(おはりだのみや) なお、ここには何の痕跡もないことから他の地とされる。
顕宗天皇近飛鳥八釣宮跡
顕宗天皇近飛鳥八釣宮跡 顯宗天皇 (けんぞうてんのう) 古事記によると、 “イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、河内の國の飛鳥の宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。” 抜粋: 古事記 現代語譯古事記 稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳 現在、弘計皇子神社が祀られている。
奈良
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