大阪の冬夏の陣を中心にNHK2016大河「真田丸」大阪スポット決定版
大阪大阪の冬夏の陣を中心にNHK2016大河「真田丸」大阪スポット決定版
大河ドラマ史上最高傑作との声もある「真田丸」が終わってしまって真田丸ロスな日々をすごしているみなさん。嘆いていても仕方がないので真田丸にでもいって色々思いを馳せてしまいましょう。
まずは大阪城です。大坂の陣のときは江戸以前ですので正確には「大坂」と表記されます。源二郎信繁が人質的立場で秀吉の馬周り集をしていたときからの馴染みの城。もちろん当時の天守閣は大坂夏の陣で燃えていますし残っていないだけでなく、外堀や内堀も冬の陣⇒夏の陣の間に埋められてしまったので現在のものはすべて徳川時代の再建されたものです。しかし、現在豊臣時代の石垣が発掘作業中ですのでもうしばらくすると公開されるそうです。
極楽橋
大坂の陣の関連で言えば、夏の陣の最後、淀君と秀頼が自刃した山里曲輪へ行くには大阪城ホール側からはいるのが近いのですが、そのとき通るのがこの橋です。これももちろん徳川再建。
淀君、秀頼公自刃の地
山里曲輪の一角にある自刃の地です。本丸からこちらに逃れて来て最期を迎えたわけですね。合掌。
山里曲輪
山里曲輪の名物と言えば石垣工事の石置き場です。
担当大名の印
中央の石にあるように担当大名の印が刻まれている石垣があります。これは前田家家臣の刻印でした。
西の丸
右奥が本丸へのアプローチとなる多聞櫓です。
多聞櫓
ここを通って城郭の中に入って行きます。
蛸石
有名な「蛸石」。左の方にタコが寝ているようなシミがあるからそう呼ばれ大阪城ではいちばんの表面積の石です。この石も、大坂の陣のあと徳川秀忠が全国の大名に号令して建てさせたものです。秀忠は藤堂高虎に堀も石垣も豊臣の2倍で造るようと命令したそうで、それを実現するために元の石垣は全部地中に埋めて更地にしたそうで、石も全国から取り寄せられた巨石が多く使われているそうです。まさに「強者どもが夢の跡」ですな。
外堀
ライトアップされた迫力ある外堀ですが、いわゆる冬の陣のあとに埋められたものとは違います。当時の大阪城の規模はもっと巨大でした。今のものは徳川が江戸時代に入って作ったもので
クールジャパンショー
クールジャパンのショーが西の丸公園でやっていて真田のショーになっていました。目玉は炎上する大阪城天守閣のプロジェクションマッピング。大阪城の天守閣が燃えるの観れるなんて!期間限定でしたがよい演出です。
結構前から真田丸の跡と言われていた心眼寺です。実際最近発見された地図等によって確実であることがわかっています。 真田丸ってのは大坂城の南側防御で作られたので、実際には市街地に作られたものです。今回の大河ドラマ「真田丸」もそうですが野原のような戦闘シーンはややおかしいということになります。ですので実際の真田丸も高台の寺の建物などを利用して造られていたりしまます。この心眼寺もその一部ってわけですね。
出丸城址
出丸城址の碑があります。この心眼寺の裏が真田丸の東端とする説が有力です。
東郭説
三光神社までを東郭とする説もあります。地形的には高台になっている一体なので東郭説もありかなと思いますが浅野家に伝えられる地図によれば東郭はないことなりますね。
広島藩浅野家の地図
そもそも冬の陣の和睦のあと、家康に完膚なきまでに壊されてしまった真田丸ですのでその実態はよくわかっていませんでした。最近広島藩浅野家の地図が見つかって真田丸の形状などがわかってきました。それによれば出城内にお寺が立ち並んでおりそれがこの心眼寺であることが確実になってきました。
今の地図に当ててみると
なるほどですね。東郭はなさそうですね。
真田丸の本体が一番大きくあったとされる学校です。もはや校舎に真田の壁画まで掲げています。なかなか偏差値高い優秀な学校らしいです。
真田丸南側の激戦の地
この辺りが数十メートルの空壕に面していた辺りになります。坂を登ったところになるので高台になっています。レーダー調査で空壕の跡も発見されているのでまさに激戦地で前田の兵が鉄砲で撃たれていたのでしょうね。
顕彰碑
真田丸の顕彰碑が作られています。学校の横の坂の辺りですぐ目の前に真田丸の東側と伝えられる心眼寺があります。
坂
真田丸を横切っている形になる坂道です。後ろが南側。
真田丸跡地として一番それっぽい佇まいを示しているのがこの三光神社です。真田丸跡を名乗る中では真田幸村公の銅像はこちらにしかありません。しかし、心眼寺と明誠学園が確実であるのに対して、こちらは東郭であった説はあるものの最近発見された地図からしても真田丸の一部であったとは言えなさそうな空気になっております。
抜け穴
そんな文脈からみるとこの大阪城への抜け穴の入り口なんてのもいかにも胡散臭く見えてきてしまいますね。実際こちらは大阪城までどころか抜け穴にもなっていないそうです。
鳥居
神社自体は高台の端に位置するので真田丸?と思いそうな地形にはなっていますね。
真田の名前がつけられ真田丸の一部と噂されていた公園です。でも近侍の調査では真田丸からは外れてたようです。ただ真田丸の向かいくらいなので、前田の兵らがたくさん撃たれた場所かもしれません。
天王寺スポーツセンターと真田山プール
公園は天王寺スポーツセンターと真田山プールがあるスポーツ施設が中心です。
谷九にある24時間営業のうどん屋さんで名店です。筋うどんかカレーうどんかのチョイスがオススメ。お店的には天ぷらうどんも推しみたい。
カレーうどん
こちらはカレーうどん。
天ぷらうどん
なかなか具沢山です。
鶏うどん
これもなかなかのお味。
谷九
店名に谷九入れちゃってますね。
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冬の陣では家康が本陣をおき夏の陣では幸村が本陣を置いたとされる茶臼山です。天王寺駅前から続く上町筋を歩いて行くと左手に入り口があってすぐに茶臼山が見つかります。
古墳あと
こちらも御勝山と同じく前方後円墳です。戦国時代には細川晴元の家臣山中又三郎が古墳の後円部に大塚城を築城したりしています。
掲示
山頂にはノボリや掲示があります。「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評される真田幸村の紹介などがありました。ちなみに、最初にこのようい評したのは島津忠恒。その手紙で”真田日本一の兵、古(いにしへ)よりの物語にもこれなき由”と書いたそうです。島津忠恒自体は大坂の陣に徳川からの協力要請を断って参加しなかった立場だったので徳川に逆らう真田を応援する気持ちがあったのかもしれません。
南門に毛利勝永の隊が布陣した場所だそうです。夏の陣最後の戦いの四天王寺岡山の戦いですね。毛利勝永が我慢できずにここから本多忠朝の隊に撃ちかけて最終日が始まってしまったわけです。幸村としてはもっと引きつけておびき寄せて打撃を加えたかったようですが。しかし、毛利勝永自身は猛烈な勢いで本多忠朝を討ち果たし一時は押しまくったというわけですからおかしな判断というわけでもなかったのかもしれません。 ちなみに本多忠朝は幸村の兄信之の嫁小松姫の兄弟ですので真田幸村とは義理の兄弟ですね。
南門
立派な南門です。
2022年まで厳修
聖徳太子1400年御聖忌だそうです。
なかなか大きなお寺で茶臼山→安居神社(幸村の死地)の間にあります。当然激戦地の一つです。大坂の陣にも参加し、本多忠勝の次男の本多忠朝の墓があるお寺です。
表門
西洋風の仁王像が目立ちます。
裏門
茶臼山からの動線はこちらが便利です。こちらから入って正門の方に出て幸村の死地、安居神社へ向かいましょう。
裏門からの全景
裏門からの全景はこんな感じです。
本多出雲守忠朝の墓
冬の陣で酒飲んでる所を襲撃されて大敗。家康に激怒され背水の陣で臨んだ夏の陣では先鋒を買って出ます。しかし、猛烈な勢いで突っ込んできた毛利勝永に討たれてしまいます。死の間際、酒で失敗した人を助けるといって死んでいったことから、全国のアルコール中毒の人が禁酒を祈りにくるそうです。
真田幸村の死地となった安居神社です。大河ドラマ「真田丸」では幸村に歳を聞かれ、「55歳で身体中が痛い」と答えた佐助に介錯され死ぬ直前で番組が終了。実際に亡くなったかわからない設定になっていましたね。あの場所です。
実際のところ
疲労から近くの安居神社で休憩していたところを敵兵の西尾宗次に見つかり、槍で突かれて戦死しています。享年49。 松平忠直の鉄砲隊にいた西尾が見つけると「手柄にせよ」と自ら首を差し出したという説もあったり、実は死なずに秀頼を守り真田大助とともに鹿児島まで逃げ延びたという説まであります。 影武者が多かったのと真田信尹が首実検をして本人と回答しなかったことからこういう伝承も生まれたのかもしれませんね。
さなだ松
真田信繁が最後にたどり着き松の下で敵兵に討たれた、いや討たせたと伝えられていますが、当時の松はもうないので後に植えられた松です。
一心寺側
安居神社は茶臼山、一心寺と続く流れに位置するのですがその一心寺側の門です。
本殿
境内の本殿です。
本殿正面に繋がる参道
反対側には上町台地からの谷に降りるようになっています。
伝・真田幸村の墓
なんと鹿児島の南には幸村の墓まで残っているそうです。
大阪城の南側で台地を南北に分断した空壕の跡といわれています。この空堀は外堀の一部になっており弱いといわれた大阪城の南側に位置しており真田丸へと繋がるラインを形成しています。
案内板
公園といっても高低差を利用した路地のただのどんつきです。ブラタモリでタモリさんもやってきました。
からぼり商店街
そもそもからぼり商店街自体が高低差をダイレクトにもった珍しい商店街です。
右を向けば
右を向けば高低差です。
左を向けば
左を向けば高低差で、この公園に。
路地のどんつき
公園というよりは路地のどんつきでしょ。
空堀のまちなみの歴史
掲示板にはまちなみの歴史の表記もあります。
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大阪城三の丸に位置したところに建立された神社で、大坂の陣の主役豊臣秀頼ゆかりの神社です。
豊臣秀頼
珍しい豊臣秀頼公の銅像があります。巨体と言われた秀頼公そのままの巨体銅像。
秀頼公ゆかり
秀頼公はひ弱なイメージで淀君や大河ドラマでは乳母の大蔵卿に操られるイメージもありましたが、なんと6尺5寸の大男であったと伝えられています。
秀頼公奉納の鳥居
阪神大震災で基礎を損傷した秀頼公奉納の鳥居か脚部と別れてあります。
400年の鎮守神
建立以来400年の鎮守神と言われていた秀頼公奉納の鳥居の歴史が記載されています。
秀頼公胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)
淀殿と秀頼を結ぶ胞衣(卵膜や胎盤など)を祀る大明神
胞衣塚大明神の説明がき
胞衣は、母の体から共に生まれ出だしたものなので特に神聖なものとして扱われたそうです。秀頼公の「分身」なのでしょう。
三の丸、利休宅跡
大阪城三の丸に位置したこの神社は当時の千利休の邸宅があったと伝えられ、宅内の井戸の水をお茶に使ったとのことから碑があります。
中之島公園には豊国神社があったころ第6代大阪府知事西村捨三が豊臣家に忠義を尽くしたとしてこの碑を建てたそうです。豊国神社が大阪城内に移転したがこの碑はこちらに残ったとのことです。
木村長門守重成
真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登らの浪人5人衆と比し、豊臣の旗本の中で唯一活躍した木村長門守。 冬の陣では後藤又兵衛とともに今福で戦います。夏の陣では、長宗我部盛親とともに八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣し、藤堂高虎の軍を破ったりもしています。最後は疲弊していたところ「真田丸」に続く大河ドラマの井伊直虎の子孫、井伊直孝の軍と戦い激闘の末に討たれます。
白石隼也
首実検でその首級が家康に届けられると、頭髪に香が焚きこめてあったので、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っているくらいのイケメンっぷりなのですが、真田丸の役者さんもイケメン。
冬の陣で上杉が本陣を置いたのがこの神社です。大河ドラマ「真田丸」では「真田丸を落とせ。」と家康に命令された上杉ですが、あとで言うように実際に真田丸は攻めてません。 冬の陣での実際の上杉は、今福鴫野の戦い(冬の陣の最激戦地の一つ)で、持ち場の鴫野についてはしっかり奪い取ります(この神社の目の前の学校に激戦地の碑が建っています)。その後今福で木村重成、後藤又兵衛に攻撃された佐竹の危機を救いに行き木村・後藤を追い払うという活躍を見せてもいますので冬の陣ではなかなかの武功をあげたことになります。
神社
大河「真田丸」では、可愛がっていた幸村=源二郎の活躍を遠くみて、「「あっぱれな戦いぶりよ。日本一の兵(つわもの)、真田左衛門佐!」と絶叫していたシーンが佳境にありましたが、この神社が舞台ということになります。果たして真田丸が見えたかは疑問ですし「日本一の兵」と言ったのも本当は島津です。
本陣の跡の表示
このころはよく寺などが戦の時に利用されていましたが、ここもまたそうです。
陣地の場所
赤い四角の場所に景勝とあります。大和川を渡り佐竹軍を助け木村重成、後藤又兵衛を引き下がらせています。
大坂冬の陣最大の激戦地となった鴫野今福の戦いのうち鴫野古戦場跡です。上杉の本陣とされた八劒神社のすぐ向かいにあります。こちらは当初から上杉優勢で攻め込んだ砦のような場所で豊臣から奪うのですが、その後大野治長や豊臣の旗本が攻め込んできて数的不利になるのですが、数倍の敵相手に上杉が凌ぎ切ったという古戦場になります。
城東小学校の敷地?
非常に見えにくい柵に囲まれている古戦場の碑です。
解説
解説版もありました。
大阪冬の陣の徳川秀忠の陣跡。戦後岡山から御勝山に変更されました。もともとは大小橋(オオバセノミコト)の墓と言われています。位置関係的には真田丸を東側から伺う感じですね。
前方後円墳
もともとはこの古墳が後円となり隣の公園を併せて前方後円墳だったようですので道路が分断しています。大阪冬の陣で将軍徳川秀忠が本陣をおいたことから古墳が破壊されたと記載されています。
前方後円墳全景
古墳の全景を歩道橋から。
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豊臣臣下の武将としては大坂の陣で最も活躍した武将の銅像がその死地に建てられています。
木村長門守重成
母の宮内卿局(右京大夫局との説も)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたある意味幼馴染的存在。大坂の陣では浪人組ではなく豊臣の臣下の武将としては最も活躍し、冬の陣では今福砦攻防戦で後藤又兵衛と共闘し、夏の陣では八尾・若江方面を長宗我部とともに担当。藤堂高虎の軍を崩す活躍をしています。その後兵の疲労を踏まえず、さらに突撃したことから井伊軍との激戦の末に戦死したと伝えられます。
木村長門守夫人負烈碑
後ろには夫人の碑も。夫人青柳は大蔵卿局の姪で、八尾・若江の戦い前後に重成と別れの盃を交わしたそうです。妊娠していた青柳は、近江の親族によって匿われ男児を出産後に出家したのですが、重成の一周忌を終えると20歳で自害したという激烈なエピソードがあります。 重成の首級には、家康に届けられた際、頭髪に香が焚きこめてありその覚悟を感嘆させたという逸話が残ってもいて、すごい夫婦を印象付けていますね。
境内に木村重成公霊牌所があるお寺です。霊牌所の中には肖像画などが飾られていたりするそうです。戦死した若江にあります。
大坂夏の陣の最終日の前日の早朝、道明寺の戦いの舞台となり小松山から打って出た、かの後藤又兵衛が戦死したと伝えられる玉手山の供養塔です。これ自体は玉手山公園にあります。ちなみに小松山は、玉手山公園の北東にある小さな山(やすらぎの園がある辺り)でここから打って出て玉手山の辺りで討ち死にしたわけですね。
道明寺の戦い
後藤又兵衛の立案で大和方面から進軍してくる徳川軍を、河内平野に広く展開される前に狭い国分村で迎え撃とうとしたのですが、先鋒を担当した後藤又兵衛が到着した時にはすでに徳川が国分村に到達していたことでこの作戦は失敗に終わります。霧のため後続が遅れ一人先んじていた又兵衛は要地である小松山に登り一人徳川軍を迎え撃つことになります。河内平野に展開されるまえに決死で食い止め後続を待つという判断をしたわけです。
又兵衛桜
戦死した又兵衛を偲んでしだれ桜が植えられています。
歴史舘
玉手山公園にある非常に寂れた歴史舘ですが、道明寺の戦いの資料などが並んでいるそうです。
後藤又兵衛が国分村にすでに徳川が進軍していることを知って決死の覚悟で陣を立てたのがこの小さな小松山という小山です。石川をわたってくる前の最後の食い止めの要所足りうるこの地を決死の又兵衛は最後の陣地としたわけです。 ここから打って出て最後は玉手山のふもとで戦死します。真田ら後続の到着に一縷の期待をしながらも戦死の覚悟で打って出た又兵衛の気概を感じてください。
小山
本当に小さな小山です。
朝から後藤又兵衛が孤立して戦死した後、石川を渡ってきた徳川軍が出会ったのが後続の第一陣の薄田兼相です。その際の戦闘が誉田の戦いでその舞台となったのが薄田兼相が陣を構えた誉田八幡宮です。結局真田と毛利が到着していなかったことから孤軍の薄田も戦死することになります。
誉田林古戦場の碑
古戦場の碑もあります。子孫が建てた兼相の戦死の地に墓を建てたそうなのですがわかりにくい場所にあるようです。
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大阪夏の陣の最終日つまり幸村が戦死する前日の戦いは夏の陣の最大の激戦の一つで、道明寺、誉田の戦いといわれています。朝から後藤又兵衛が孤立して戦死したのが道明寺の戦い、後続の第一陣の薄田兼相が到着して戦闘になったのが誉田の戦いです。いずれも真田・毛利が到着する前なので迎えた伊達軍の前に壊滅し、事態は真田・毛利が到着して膠着します。しかし同時に行われていた長宗我部・木村が担当した八尾・若江方面での木村の戦死による長宗我部の撤退を聞き、真田も翌日の戦いに備え大阪城に戻ることにします。その途中真田の軍旗と刀剣を奉納し戦勝祈願したと伝えられるのがこの志紀長吉神社でした。
最後の戦勝祈願
明日は自分も死ぬが徳川家康の首だけは取ってやると考えたのでしょうかね。