
人形町からくりと甘酒横丁
東京人形町からくりと甘酒横丁
まいどまいど! 東京駅から少し歩いた場所に位置する人形町と甘酒横丁。 ちょっと美味しそうな名前にひかれて訪れた場所は名所が集中しておました。 人形町商店街に設置された、からくり櫓。 からくり櫓は「江戸落語からくり櫓」と「町火消しからくり櫓」の2台が設置され、時間になるとからくりが展開されるんやね。 あやつり人形に使用されるバネは現在も鯨ヒゲが使用される。 人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲによるもの。 昭和時代、人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店が軒を連ね、にぎわいをみせていたことから、正式に人形町という地名になったとか。 甘酒横丁は商店街・通りの名称で、歌舞伎・演劇で知られる明治座側の通りの愛称は「明治座通り」。 浜町緑道との交差点付近には勧進帳の弁慶像が所在。 人形町界隈にはかつて中村座や市村座が所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つともいわれた。 商店街には主に飲食店が建ち並び、東京都内では唯一の葛籠の製造販売店が所在。 地名の由来は明治時代、通りの入口付近に甘酒屋「尾張屋」があったことに由来するとか。 また西郷隆盛ゆかりの地も。
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人形町商店街に設置された、からくり櫓。 からくり櫓は「江戸落語からくり櫓」と「町火消しからくり櫓」の2台が設置。 毎日11時から19時までの間、1時間の間隔でからくりが展開される。
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甘酒横丁とは商店街・通りの名称。 歌舞伎・演劇で知られる明治座側の通りの愛称は「明治座通り」。 浜町緑道との交差点付近には勧進帳の弁慶像が所在。 人形町界隈にはかつて中村座や市村座が所在し、江戸歌舞伎発祥の地の一つともいわれた。 商店街には主に飲食店が建ち並び、東京都内では唯一の葛籠の製造販売店が所在。 地名の由来は明治時代、通りの入口付近に甘酒屋「尾張屋」があったことに由来。
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あやつり人形に使用されるバネは現在も鯨ヒゲが使用される。 人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲによるもの。 1633年、人形町一帯は江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集中し、江戸町民の芝居見物が盛んであった。 昭和時代、人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店が軒を連ね、にぎわいをみせていたことから、正式に人形町という地名になった。
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1612年、日本の政権において銀地金の売買、貨幣の鋳造を担った銀座が駿府から移転し、江戸・京橋銀座が設立。 江戸銀座において上納銀の滞納など不正行為が発覚し、銀改役の大黒長左衛門八代目常房は家職放免の上、永蟄居を命じられた。 大黒作右衛門十代目常明が京都銀座から江戸へ招致され、京都および江戸両座の銀改役を兼任。 銀座粛正の後、座人は縮小、蛎殻町(現在の日本橋人形町)に移転。 南鐐二朱銀鋳造が再開。 京都および京橋で行われていた貨幣鋳造は蛎殻町銀座に集約、幕府による統制が強化され、御用達町人による請負事業から事実上幕府の直轄事業となった。
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蛎殻銀座
また京都、大坂の銀座は貨幣吹替えの際の旧銀の回収、引替、銀地金の買上および銀貨の包封などの役割に。
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明治時代、明治維新の元勲西郷隆盛の屋敷があった。 長屋の屋敷には約15名の書生が住み、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたとも。 維新後、西郷隆盛は出身の鹿児島にいたが、1871年に新政府から請われて上京し、参議に就任。 1871年、岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣。 筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現。 1873年、朝鮮との国交問題が緊迫し、征韓論(武力出兵を主張)が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉、問題の解決にあたった。
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西郷隆盛屋敷跡
閣議で西郷の使節派遣が決定するも大久保らが反対し、中止。 西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野。 下野後、西郷は当地の屋敷を引払い、鹿児島に帰郷。 鹿児島では、士族子弟の教育を目的に私学校をつくり、農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていた。 1877年、西南戦争が勃発し、自害。
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姫路の殿様酒井氏
かつてこの付近には江戸時代、姫路の殿様酒井氏の屋敷があった。 また、明治維新の三傑の一人、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、居を構えた。
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福岡県久留米市に鎮座する久留米水天宮の分社。 祭神は、天御中主神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)。 社殿は白木造りで、コンクリートの土台の上に構築されている。 社殿の正面には地上6階建てのビルが建設され、境内は2階。 江戸時代より安産・子授けの神「おすいてんぐさま」として信仰を集め、古くから妊婦や新婚夫婦らが参拝に訪れる。 久留米の水天宮は久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬。 1818年、9代藩主有馬頼徳が江戸・三田の久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請。 当初、藩邸内にあったため一般人の参拝は少なかったという。
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情け有馬の水天宮
一般公開後、人気となり、「情け有馬の水天宮」という地口も生まれたほどであったとか。 有馬家の当時の会計記録には「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上項目があり、その金額は年間2000両、財政難であえぐ久留米藩にとっては貴重な副収入であったとも。 1871年、有馬家屋敷が移転し、赤坂に遷座するも、現在地に移転。
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