
そろり・・・そろりと、曽呂利新左衛門。落語家と豊臣秀吉との意外なつながりと堺奉行所
大阪そろり・・・そろりと、曽呂利新左衛門。落語家と豊臣秀吉との意外なつながりと堺奉行所
まいど! かつては南蛮貿易で栄え、黄金の時代を築いた大阪府堺市。 今でも自転車のものづくりでは全国トップシェア。 また、線香や傘、そして戦国時代には欠かすことのできへんかった鉄砲や刃物(刀)を中心とする鍛冶屋で発展。 一時は、東洋のベニスとの異名を持ち、「もののはじまり、なんでも堺」とも謳われた。 これまでの、それら功績が称えられ、そして、市内各所には、その名残を垣間見ることができる。 また、堺出身の偉人といえば、与謝野晶子、武野紹鴎、千利休などが挙げられるが、かつては豊臣秀吉と交流をを持った曽呂利新左衛門っちゅう人物をご存知でっか? 現在は空き名跡となっていますが、初代の落語家で性格は、達者。 豊臣秀吉に気に入られたとも言います。 そして、大阪出身といえば、陰陽師で知られる安倍晴明。 一説によると京都生まれとも言いますが、実は大阪市阿倍野区にも安倍晴明が生まれたとの説が根強くあり、久那にある神社では実際に産湯に使用されたとされる井戸も残ってまんねやね。 まあ、京都と大阪のどちらが有力なのかはわかりまへんけども、「大阪が好きやねん!」では、大阪を有力説として他プランでご紹介しています。
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飲食店や雑貨店などを中心に立ち並んでいる。 商店街の正面には、堺市のシンボルの一つとされる旧堺灯台のデザインが飾られている。 商店街の途中には、開口神社が鎮座しており、参道としても親しまれている。 また、商店街を北へ抜けると、堺戎神社が鎮座する。
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堺へようこそ
堺では与謝野晶子氏や竹野紹鴎氏、千利休氏など歴史的な人物の出身地として知られ、商店街では堺にゆかりのある名所や人物の顔出しパネルが設置され、記念撮影を楽しむことができる。
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「堺・泉州の熱い思いと美味しいものを伝えるお店」がコンセプト。 大阪府堺市以南に位置する「泉州」を中心とした特産物などを主に取り扱っている。 みずなす漬物、たまねぎ、和菓子、豆富、ジャム、ドレッシング、たれ、工芸品、手ぬぐい、タオルなど。
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通称、大寺さん。 堺南組(大小路・竪川以南)の氏神社。 祭神は、塩土老翁神(住吉大社の住吉三神を一つにして神徳を現した神「住吉の奥の院」とも)、素盞嗚神、生国魂神。 神功皇后による三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀り、創建。 古代、この地では開口村と呼ばれていた。 かつて神宮寺に存在した念仏寺に由来、「大寺」と呼ばれた。 阿波の武将三好元長が政務を執った顕本寺が当時、この付近にあったとか。
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金面龍
1338年、海会寺が開口神社付近にあり、名僧乾峯和尚が徳を慕って教えを乞いに訪れた龍の金面龍王に、ありがたい戒を授けた。 龍はお礼にと干ばつに困る人々の為に「地面に鵜の羽を敷き白露が浮かぶところに井戸を開けば清水が・・・」と教えた。 掘ってみると水が湧きだし、枯れることなく泉南第一の名泉と伝えた。 海会寺は南宗寺境内に移転。 金龍の名は金面龍に由来。 アサヒビールの創業者の鳥井駒吉も参拝に訪れた。
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大阪府立三国丘高等学校発祥之地
大阪府立三国丘高等学校は現在、大阪府堺市堺区にある公立高等学校。 1895年、大阪府立三国丘高等学校の前身にあたる大阪府第二尋常中学校(大阪府立堺中学校)は開口神社内にあった旧堺市役所庁舎を仮校舎として創立。 1896年、移転。 校訓は「自主自律」の精神を掲げ、校則や生活指導は生徒自身の自覚に委ねられ、クラブ活動では、近畿大会・インターハイ等で上位の成績を修めている。
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大阪府立三国丘高等学校発祥之地
大阪府教育委員会より、人材育成研究開発重点校(通称、エル・ハイスクール)に指定。 1994年、校舎本館が竣工、螺旋階段や丸窓などは堺市景観賞を受賞。 敷地内には堺中1期生の久野節設計「旧三丘会館」は登録有形文化財に登録。
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大阪府立泉陽高等学校発祥之地
大阪府立泉陽高等学校は現在、大阪府堺市堺区にある公立高等学校。 1874年、大阪府立泉陽高等学校の前身にあたる女紅場が開設。 1888年、堺区立堺女学校に改称。 1889年、市制施行に伴い、堺市立堺女学校に改編。 1900年、高等女学校に改編、堺市立堺高等女学校に改編。 1903年、移転。 1911年、朝日新聞関西講演会により夏目漱石が「中身と形式」と題した講演を行う。
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大阪府立泉陽高等学校発祥之地
1912年、大阪府立堺高等女学校に改称。 1922年、当時の同窓会愛泉会により堺愛泉女学校(香ヶ丘リベルテ高等学校)が設立。 1946年、 大阪アルミニウム株式会社(日本軽金属)青年学校が仮校舎。 1948年、 学制改革により大阪府立泉陽高等学校に改称。 大阪府立堺中学校(大阪府立三国丘高等学校)と交流を深めた。 大阪府教育委員会より人材育成研究開発重点校(通称、エル・ハイスクール)に指定。
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堺の幼稚園教育発祥の地
1899年、第一幼稚園の前身にあたる私立堺幼稚園が開設。 後に「堺市立堺第一幼稚園」、「堺市立第一幼稚園」と改称、移転。
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大阪市阿倍野区に生まれた陰陽師・安倍晴明。 安倍晴明の産湯に使用されたという井戸は現在も残る。 また古くから、占いをすると必ず当たると評判であったこの地に、和泉市から安倍晴明が訪れた。 このとき、ここに占い書きを埋めた「辻占いの地」との説がある。
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堺の中心部を流れる内川・土居川は、舟の運航や排水路として利用されてきた。 1500年代、堺が日本最大の海外貿易港として栄えていた。 戦国時代、日本各地で戦がおこったため、街を守るために、濠をつくり、外から敵が入らないようにした。 これを環濠都市「堺郷」と呼び、大阪では、平野郷に匹敵する規模を持つ。 このときに作られた濠が土居川の始まりである。 その後、豊臣秀吉によって濠は埋め立てられられた。 徳川家康によって町を復興し、再度、濠を開削。 川に「土居」という土の堤防を築いた、これが土居川の名前の由来と言われている。
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曽呂利 新左衛門とは、落語家の名跡。 2代続いたが、現在は空き名跡。 初代曽呂利 新左衛門は、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた。 本名は杉森彦右衛門、坂内宗拾と名乗った。 落語家の始祖とも言われ、元々、堺で刀の鞘を作っていた、 その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという。 茶道を武野紹鴎に学び、香道や和歌を学び、豊臣秀次の茶会に出席したと言う。 秀吉が、猿に顔が似ている事を嘆くと、「猿の方が殿下を慕って似せたのです」と言って笑わせたとか。 二代目曽呂利 新左衛門に猪里重次郎が襲名した。 「偽」に洒落て「ニセ」と読ませるため、あえて二世曽呂利新左衛門と名乗ったとか。
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1625年、沢庵和尚が創建。 枯山水様式の庭園は、大徳寺の方丈庭園(京都市北区)と類似している。 庭全体を平らとする平庭式の枯山水様式の庭園。 土塀寄りに石組を配置し手前に広い白砂空間をとっているのは、江戸時代初期の枯山水に共通する様式であると言う。 「沢庵和尚像」「釈迦二声聞像」は重要文化財に、庭園は、府の名勝に指定されている。
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通称、「堺天神」、「天神さん」と呼ばれ、親しまれている。 祭神は、菅原道真、天穂日命、野見宿祢。 997年、天神社として菅原大神を奉祀する。 堺戎神社や薬祖神社、稲荷神社は、摂社である。
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大小路とは、摂津国と和泉国の国境となっていた道路。 1400年代、大小路より北側が摂津国住吉郡堺北荘、南側が和泉国大鳥郡堺南荘となっていた。 そのため、国境の町「堺」を象徴する道路となった。
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明治時代から昭和時代にかけて活躍した俳人。 本名は徳太郎。 幼少期、利発で温順、神童の名が高かったとか。 父と死別後、祖父と母の3人で暮らしていた。 堺市熊野尋常小学校卒業後、堺高等学校に入学し、茶道と俳諧を習う(雅号は雪窓庵梅史)。 「文庫」に新体詩を、「新星」に短歌を投稿。 1911年、地元の新聞社に就職、記者を担当し、「堺日報」を創刊。 1916年、紙上に「白鳥俳壇」という俳句欄を設け、その選句にあたる。 1917年、高浜虚子を迎えて歓迎句会を開き、関西ホトトギス派の結集の機運を作る。 以後、「同人」や「山茶花」に参加、雑誌「ホトトギス」同人となる。
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「堺音頭」「新堺音頭」
野村泊月の推薦により「九年母」の選者を引き継ぐも辞任して「いづみ」を創刊主宰。 句集に「梅史句集」(素人社書屋)。 1940年、全句集「梅史句集」私家版が刊行され、虚子は「梅史もまた作家であった」と序文を寄せた。 その他、「堺音頭」「新堺音頭」を作詞。
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主に大阪府堺市内に事業所を置く企業・団体で運営されている商工会議所。 堺の独自ブランド「堺技衆」を制定。 認証企業の連携による新商品開発の推進、認証中心から新商品開発へ向けた事業を行う。 大阪府堺市北区長曽根町に移転。
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1614年と1615年に勃発した大坂の陣の戦火により町は焼失後、区画再編「元和の町割」により復興。 東西幹線の大小路(摂泉国境)で南北に分けて、さらに本郷と端郷に分けた。 北本郷・北端郷・南本郷・南端郷という4区分で、「四辻」と称した。 1693年、本郷と端郷の区分を廃し、北組102町、南組76町の南北二組制となった。 四辻では、南北両本郷とも浜筋・本町・付町・百姓町の4組、北端郷が中浜筋・山口筋・東筋の3組、南端郷が本町・付町の2組、計13の組合を形成したが、南北二組制では南北両組とも浜筋・中浜筋・大道筋・山口筋・東筋・農人町筋の6組、計12の組合に再編。
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惣会所と町会所
惣会所では惣年寄が月番で勤務、その下で惣代と職事が雇われて実務にあたった。 また各町には町会所が置かれ年寄、月行事が勤務、町代が雇われて実務にあたる自治体制が敷かれた。 町政を執り行う機関として、堺奉行もあったが1696年に一時廃止。 1702年、堺奉行が復活。
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江戸時代、江戸幕府が江戸以外の幕府直轄領(天領)内の重要な場所に置いた遠国奉行の一つで、堺及び和泉・河内両国の天領を統治した。 前身は中世に設けられた堺政所である。 堺奉行は老中支配の元に置かれ、城中では芙蓉の間席で奈良奉行の次席。 役務は、堺に出入する船舶とその荷物の点検、防備及び和泉の政務であった。 基本的に堺奉行で処理を行うが、緊急を要する場合は、大坂町奉行へ任せたと言う。
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1512年、京都総本山妙満寺の第17世智覚院日誠の開創。 当時、照光寺と称した。 1536年、比叡山僧兵による京都法華寺院焼き討ちの法乱に際し、本山が避難して来たことにより寺号を妙満寺と改称。 その後、約6年間、管主が居住し門流500ヶ寺の本山として機能した。
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1930年代、発表された国民歌謡の一つ。 「ラララ 赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から街へ」などの歌詞で知られる。 この歌を作詞した喜志邦三氏は、熊野小学校出身である。
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堺に天王寺屋と名乗る豪商がいた。 津田宗及は、武野紹鴎の弟子であった父から茶の湯のたしなみを受ける。 今井宗久、千宗易(利休)は、同じ年頃であったことから、3人で茶会を開いていたという。 織田信長が堺に矢銭2万貫を支払うように命じ、堺がそれに応じた。 このとき、津田宗及は、織田信長の使者約100名を自邸に招いた。 この功績が認められ、津田宗及は明智光秀と親交を深める。 今井宗久、千利休とともに、織田信長の茶頭であった津田宗及(天王寺屋)が、父宗達の菩提を弔うために創建した寺院が、大通庵であった。 父宗達の号である「大通」をとって、大通庵とした。
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日本において重要な輸入品は中国産の生糸(白糸)であった。 生糸の輸入に関して外国商人が値段決定の主導権を有して利益を独占、これを抑えることを目的として糸割符制度が行われ、「糸割符仲間」が組織された。 1604年、江戸幕府は京都の豪商である御用商人茶屋四郎次郎を主導者として、江戸・大坂・堺・京都・長崎の5ヶ所の商人に生糸の買い付け、配分を行う独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えた。 特に、鎖国実施などによる貿易制度の変化により、糸割賦会所、市法会所、割符会所と改称を経て、1698年に長崎県では長崎会所が設立され、後の長崎税関となった。
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清(中国)、オランダとの貿易
清(中国)、オランダとの貿易における利益を独占、利益の一部は江戸幕府へ運上金として納め、町民へ地下配分銀として配分。
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