
大阪の北新地・堂島で遊びつくせ!
大阪大阪の北新地・堂島で遊びつくせ!
まいどまいど! 西日本最大の高級飲食店街といえば、大阪市北区曽根崎新地。 通称、北新地と呼ばれ、親しまれてまんねやけど、何よりも大御所・芸能人御用達のお店が並んでまんねん。 ええ店、紹介したるさかい、わてについといで~♪ さて、北新地以外にも堂島には、ロールケーキで有名な堂島ロールがあり、雑誌、インターネットなどで紹介され、常に行列が絶えへん人気のお店もありまんねん。 美味しいと評判やさかい、いっぺん、あんさんも食べてみはったら、どないでっか~? そして、堂島には大阪証券取引所の全身にあたる堂島米会所(通称、堂島米市場)があり、大阪の恩人として知られる五代友厚氏のゆかりの地でもありまんねやで! 周辺には五代はんの功績を称える顕彰碑が建立されておます。 かつての時代を偲ばせまんなぁ。 ほんで、北新地・堂島界隈はそれだけやおまへん。 昔々、北新地には大川(旧淀川)から分流して流れる曾根崎川があり、通称、蜆川。 堂島蜆が多く取れていたことから、そう名付けられたんやとか。 そして、北新地は、国産ビール発祥の地でもありまんねん。 くいだおれ・のみだおれのまち・北新地・堂島へお越しやす!
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大阪市北区にある高級飲食店街。 別名、新地とも呼ばれている。 料亭などの飲食店が集中している。 東西方向には通りが貫通しており、北から「永楽町通」「新地本通」「堂島上通」「堂島船大工通」が主な通り。 江戸時代、堂島川より北の地域は何も無い場所であったとされる。 そして、新しい場所として開拓されたことから、「新地」と呼ばれるようになったという。
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新地本通り
堂島地区は、別名、北新地とも呼ばれ、高級飲食店街としてにぎわっている。 料亭を中心とした料飲店が集中している地域として知られる。 明治時代初期、新地本通と堂島上通の間を曽根崎川が流れていたため、道が東西に貫いている。 当時、堂島は、曽根崎川と堂島川に挟まれた島であったと言う。
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西日本旅客鉄道東西線の停車駅の一つ北新地駅付近にある像。 大阪広告協会創立50周年を記念して設置されたモニュメント。 キタノザウルスは恋人と待ち合わせをしていたが現れず、そのまま眠ってしまったという娘恐竜。 背中の米俵は堂島にかつて存在した米市場による。 現在、待ち合わせ場所のシンボル的存在となっている。
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「ちょっと変わった居酒屋へ遊びに行ってみいひん?」 「え?そんなお店、あるの?わても行ってみたい!」 という、素晴らしい好奇心(笑)とともに足を運んだのは、大阪市北区の北新地にある個室の居酒屋「個室家座香屋6年4組北新地分校」。
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ランドセル
入り口にはランドセル。 使い古されたようなランドセルが飾られ、個室へと案内された。
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黒板など
昔ながらの扉を開けると、木造のテーブルが。 着席すると、黒板があり、昔の小学校の思い出が少しずつよみがえる。 音楽の時間はこうやった。 体育の先生は、こんな人やった。 いろんな小学校時代の思い出をお友達、ご家族と話しながら、楽しい時間を過ごす。
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あげパン
メニューは、給食に登場する「あげパン」「ソフト麺ミートソース」などが登場。 ああ、こんな味やったわ~と味わいつつ、 先生のげんこつ軟骨の唐揚げ、球技大会のチーズボール、集合写真6年串組、部活帰りのコロッケ、ハンジュクタマゴノシーザーズサラダ(注射器添え)、おっぱいアイス、オモロソーダ、理科のお勉強(ジュース)、初恋の思ひ出など様々。
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注射器!?
サラダのドレッシングは注射器で。
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メスシリンダー
学校の授業、給食で使用したような食器やメスシリンダーなど、遊び心満載。 理科のお勉強は、いろんなジュースを混ぜながら、チューハイ(ノンアルコール可)に仕上げることができる。
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北新地駅付近にある歓楽街「北新地・曽根崎新地」は東京の銀座と並ぶ高級飲食店街として知られ、多くのラウンジやスナック、バー、クラブ、料亭などが密集する。 その一方で、昼間も営業しているラーメン店や寿司店、うどん・丼を中心とした和食店もあり飲食の域も幅広く、政治家や財界人、芸能人、スポーツ選手らが訪れることも。 ほとんどのラウンジやバー、クラブ、料亭は17時以降に営業を開始する。 一部では、昼間でもランチ・定食が楽しめると、話題を集めている。 普段は17時から営業の懐石料理のお店ですが、昼間にランチが1000円で楽しめるという。
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和つじ御膳
ランチメニューは「和つじ御膳」の一つだけ。 カウンター席に着席した時点でもうすでにオーダーは通っているという。 ここでは、おかわり自由のご飯をはじめ、焼き魚や天ぷら、お刺身にサラダ、汁物と、小鉢まで品数が多い。
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曽根崎川。 別名、蜆川。 かつて堂島川の分流として流れ、堂島蜆が多く獲れていたとか。 1685年、河村瑞賢によって河川改修し、堂島新地が拓かれ、曽根崎新地となった。
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曾根崎川
当時、難波小橋、堂島小橋、蜆橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋が架けられていた。 1909年、北の大火(天満焼け)に遭い、1924年、消滅。
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天ぷらを中心とした和食が味わえるお店。 店内はカウンター席のみ。
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天ぷら定食
メニュー、その季節に応じた旬の食材を使用する天ぷらコース、おまかせ料理など。 昼間はランチタイムとして、海老やこんにゃくなど、天ぷら定食を味わうことができる。
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天ぷら定食
天種10種、小鉢3品、白ご飯、味噌汁、漬物。
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大阪市北区にある北新地には明治時代まで河川「曽根崎川(蜆川)」が流れていた。 曾根崎川(蜆川)は堂島川から分流し、「曾根崎新地」と「堂島新地」の間を東西に約2.5km流れ、再び堂島川と合流した。 当時、曾根崎川には客や芸者を乗せた涼船が往来し、周辺には石崖造りの上に茶店が並んで華やかな花街の賑わいを見せていたという。 これらは江戸時代、浄瑠璃及び歌舞伎作者として活躍した近松門左衛門の作品にも取り上げられた。 1909年、大火事「北の大火(天満焼け)」が発生し、瓦礫の廃棄場所となって埋め立てられて1924年に川は消滅。
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蜆楽筋
当時の面影を残す「蜆楽筋」は蜆川に架けられていた「曾根崎橋」と永楽町とを結んでいた。 現在、「曾根崎恵美寿」が祀られ、「キタのえべっさん」という愛称で親しまれている。
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祭神は、恵美寿神。 別名、水あげ恵比須、上がり恵比須。 恵美寿神は大阪湾から蜆川を上って現在地にたどり着いた。 2016年、創建。 特徴は鯛と徳利を持ち、笑顔。 「恵美寿」から「北新地で働く女性がいつまでも美しく幸せであってほしい」という願いが込められ、水商売では素敵な人との出会い、寿退社のことを「水あげ」と呼び、「水商売から上がれる」という意味も。 「水から」を「自ら」と掛け、勝負に勝つ、縁起がいいとか。 社は虫が寄らないとされる「ひばの木」を使用、「悪い虫がつかない」=悪い縁がつかない=「良縁萬来」。 その他、商売繁盛の神様として親しまれ、十日戎などでは多くの参拝者でにぎわう。
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日本三古湯の一つに数えられる兵庫県神戸市北区の有馬温泉街で今も伝統を継ぐのは「中の坊瑞苑」。 そんな中の坊瑞苑の味を大阪市北区の「懐石北瑞苑」でも楽しむことができる。 ここでは、本格的な日本料理・懐石料理を堪能できる。 純和風の佇まいで、落居着いた雰囲気の中でいただく。
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福寿
食前酒「山桃ワイン」にはじまる。
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福寿
金目鯛葛打ち、お造り、 和牛サーロイン蒸し煮、明石蛸湯引き、鱚一夜干し、とうもろこしかき揚げ、鱧すき小鍋、焙り太刀魚松前寿し、赤出しなどと続く。
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ミラーガラス127枚を使用した直径7mの球状。 593年、聖徳太子によって創建。 1675年、聖徳太子が四天王寺を建立する際、建築用材の運搬船が暴風雨で難破した。 その時、洲の中に流れ着き、お堂「薬師堂」を建てたとの説がある。 名称「堂島」の由来は、海上を航行する船から、このお堂がよく見えたことから。 お堂内には、薬師堂如来像、地蔵菩薩像、弘法太師像など仏像4体と、ねはん図など軸二本がある。 薬師如来像は室町時代の作と鑑定されるが、詳細は不明である。 1893年、大阪太師詣りの行事では薬師堂が第一番の霊場だった。 堂島薬師堂は月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っている。
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このビルは、オープンスペースが敷地の60%と広く、草木が植えられている。 ジュンク堂やレストラン街があり、堂島地下センターに接続する。
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2000年、オフィスビル「堂島アバンザ」が竣工。 1922年、毎日新聞大阪本社の堂島社屋が建設。 1992年、毎日新聞大阪本社が西梅田に新築移転。 当時、正面玄関として使用されていたその一部をモニュメントとして復元、展示している。
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JR大阪駅構内の案内表示板には、「ドージマ地下センター」と表示される場合がある。 1966年、堂島地下センターとして開業。 主に飲食店や物販店などがある。
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1872年、実業家として知られる渋谷庄三郎氏によって工場が設立された。 ここで、日本人で初めてビールの製造・販売を行った場所として知られている。 銘柄は、「渋谷ビール」で、犬のマークがついたラベルが特徴。 年間約32~45キロリットルを製造し、主に外国人に販売していたと言う。 現在は、堂島麦酒醸造所が「北新地ビール」を醸造していると言う。
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1983年、竣工した高さ83.5m、地上21階、地下2階建。 1984年、第4回まちなみ賞の大阪府建築士会長賞を受賞。 現在では、主に事務所や店舗などに利用されている。
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江戸時代、大阪を代表する町人蔵元「淀屋辰五郎一族」の由緒ある邸跡である。 古書元正間記によれば、 家富み繁昌して屋敷前に橋を掛け淀屋橋と名付けいろは四十八蔵全ゆる宝を買い集め長者号を受く とあり総構へ百間四方二萬坪に及んでいたのだとか。 この小路を淀屋小路と云い屋敷内の南口を云ったものである。 淀屋は、初代常安の時、現在の中之島を開発しその名も常安橋として今も残る。 また、天満青物市場、堂島米市場を創設し、近代の大阪発展に寄与したと言う。 以上のような詳細が刻まれている。
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堂島川に面した場所に位置している。 周辺は、高層ビルやマンションが建っている。 憩いの場として親しまれている。
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この地は、世界初の「為替」や「先物取引」が誕生したことでも知られる。 江戸との取引が多かった。 そのため、お米などの代金決済のため、「為替」が発達した。 また天候などによって出来高の値が変動するため、予め価格を決めておくルールができた。 これにより、「先物取引」が発達した。 当時、手旗と望遠鏡によって岡山まで見えていたという。 それにより、約20分で米価の伝達を可能にした世界最高水準の金融システムとなった。 また、世界を代表する大阪証券取引所(通称、大証)は、株式関連デリバティブ市場で中心的な役割を果たしている。 一時、世界一のシカゴ証券取引所を抜いて、世界トップとなったこともある。
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ロールケーキ。 人気が高く、何度も新聞や雑誌で取り上げられている。
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中央電気倶楽部が入居する。 電気に関連する事業の進歩・発展を図ることなどを目的としている。 1914年、中央電気倶楽部の本部として建設された。 1916年、建て替えられた。 1930年、当時の東隣に新館である地上4階、地下1階を建設し、現在に至る。
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江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の販売を目的として、中之島界隈に蔵屋敷を建設した。 周辺には大川や堂島川、土佐堀川、安治川、木津川などが流れ、水運に適していたことから舟で搬入させ、管理していた。 当地は肥前国大村藩蔵屋敷が存在した。
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大阪府大阪市北区にある石碑。 2020年現在、大阪市の執行機関の施設である大阪市役所は大阪市北区中之島1丁目3-20に位置し、1986年に完成した。 1986年以前は当地に位置し、庁舎は1912年に建設された。 設計は公募。 1921年には中之島に庁舎が完成。 塔屋までの高さ約56m、当時は市内最高の高さであった。
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1835年、鹿児島県で五代友厚が生まれる。 明治時代初期、大阪の経済が低迷していた。 1865年、ヨーロッパ諸国を視察し、貿易に関心をもった。 大阪に戻り、鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 当時、国産の藍は質が悪かったので、インドからの大量輸入に頼っていたと言う。 それに対抗するため製法に研究努力を重ね、従業員300名を越す近代的製藍所を建設した。 1883年、製品は欧米各地に輸出されたが、後に閉鎖された。
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創建時期などの詳細は不明である。 当寺は、日蓮宗に属す。 赤穂浪士の矢頭長助や右衛門七父子の墓、五大力墓がある。 矢頭長助は討入り前に死亡。 子である矢頭右衛門七は討入りを果たした。 江戸への討入りのとき貧乏で路用がなく、里人から借金をして出発した。 大石良雄は後になってこのことを知り、里人に返して感謝した。 里人は討入りを伝え聞き、墓を作ったという。 1737年、五大力墓は、曽根崎新地で起きた殺傷事件の犠牲者である。 武士の恋が招いた事件は、「五大力恋緘」となった。
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かつて梅田入堀川に架かっていた橋。 1877年、曾根崎川(堂島川)から大阪駅まで水路(梅田入堀川)が引かれた。 この水路は堂島掘割、梅田入堀と呼ばれた。 明治時代、鉄道の開通とともに鉄道が運輸の主役となるも、水運も盛んであった。 船が「出入り」することから出入橋と名づけられた。 1935年、橋が架け替えられた。 阪神高速空港線(現在の池田線)建設に伴い、水路が埋め立てられ、橋としても役目を終えた。
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きんつば、わらび餅、白玉ぜんざいなどを製造販売する和菓子専門店。 店内はテーブル席のみで、テイクアウトも可能。 きんつば、ところ天、しがらき、白玉ぜんざい、あんみつ、わらび餅など。 1930年、創業。
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きんつば
きんつば
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