パワースポット!〇〇の神様に会いに行こう!
京都パワースポット!〇〇の神様に会いに行こう!
まいどまいど! 日本の歴史でいいますと、奈良県の平城京や京都の平安京が有名でんねんけど、日本最古の本格的な首都が造営された場所は大阪市中央区に位置する難波宮でんねん。 現在は史跡公園として整備されてはりまんな。 首都機能は、大阪から奈良、そして、京都の長岡京、平安京へと遷都されましてんやけど、かつて、天皇家のお住まいでおました京都御所、現在は敷地内を自由に散策することができまっせー。 ほんでまた、日本の上方落語の発祥地っちゅうて知られておます大阪の生国魂神社と同様に注目を集めてはりますのが北野天満宮。 せやけど、どっちが最初なのかはわかりまへんねんけど、現在も漫才や落語などお笑いの舞台に立つ芸人の間でのパワースポットとして人気を集めてはりまんな。 パワースポットっちゅうたら、蹴鞠をはじめとする球技、つまり、サッカーやバスケットボール、バレーボール、ボーリングなどスポーツの神様としての信仰を集める白峯神宮も鎮座してはります。 ほんでまた、応仁の乱勃発時や源氏物語ゆかりの地など、京都市上京区は歴史的にも文化的にも深い町。 そんな深い町・上京区を散策してみまひょ! ほな、まいどおおきに!
祭神は、崇徳天皇・淳仁天皇。 白峯神宮は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地に創建。 崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した。 その後、天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた白峯陵(香川県坂出市)の前に、上皇を白峯大権現として祀る御影堂が建立。 孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後、間もなく崩御した。 明治天皇は、現在地に社殿を造営し、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建した。 藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流された淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊を淡路から迎えて合祀した。
境内の雰囲気
精大明神は蹴鞠の守護神で、サッカーやバスケットボール、バレーボール、ボーリングなど球技全般、スポーツの守護神として信仰を集めている。
ボールを奉納
これまでにサッカーやバレーボールの日本代表チームやスポーツ関係者が参拝に訪れ、サッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などからボールを奉納している。 スポーツにちなんだお守りが有名で、叶う輪という縁起物がある。 ワールド カップが開催される際には、応援絵馬が備えられる。
蹴鞠の碑
日々、サッカーやバレーボール、バスケットボールなど部活動・スポーツに励む選手が訪れ、本殿前や碑周辺で記念撮影を楽しむ光景も。
戦勝祈願に
スポーツの世界は厳しく、誰もが1位を目指したいという思いで日々、練習に励んでいる。 憧れの選手のサイン色紙やボールが見つかるかも!?
プロの世界からも
ここではアマチュアだけでなくプロフェッショナルからの信仰を集め、境内にはプロのチームからの奉納も。
奉納蹴鞠
毎年4月14日と7月7日、白峯神宮の蹴鞠保存会によって、春季例大祭・淳仁天皇祭、精大明神例祭、七夕祭に奉納蹴鞠が行われている。
禅宗寺院で、宗旨は臨済宗系の単立。 無学祖元(鎌倉円覚寺開山)の弟子で尼僧・無外如大が京都の五辻大宮に開いた尼五山筆頭景愛寺の6代寺持であった。 室町時代、伊勢の二見浦にて漁網に掛かった聖観世音菩薩を景愛寺子院の建福尼寺に安置。 足利義満の時代、隣地には小川御所があったとされ、母や実弟の別宅であったが、応仁の乱の折、戦禍から御殿は焼失。 後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が入寺して以降、代々の皇女が入寺する尼門跡寺院となった。 これまで数多くの人形が贈られ、孝明天皇ご遺愛の人形などを保存して供養をしていることから人形寺とも呼ばれ、人形の供養と京人形の人形塚が建立。
応仁の乱勃発地付近
付近は畠山政長と畠山義就、家督と管領職をめぐる畠山家の内紛から戦火が拡大していった御霊合戦と応仁の乱の勃発地として知られ、鎮座する御霊神社ではその解説も。
広徳山慈受院門跡は、源氏物語ゆかりの地 薄雲御所と源氏物語として注目を集める臨済宗単立の門跡尼院。 京都府京都市上京区寺之内通堀川東入百々町540 将軍足利義持室慈受院浄賢竹庭(日野栄子)によって開基。 角田文衛博士の調査により、源氏物語に登場する薄雲御所ゆかりの寺院として知られるようになった。
茶道具や茶道に関する美術工芸品の展示や茶道の体験ができる美術館。 また、裏千家の代表的な茶室「又隠」の写しがあり、茶室内が見学できる。
別名、出町妙音堂、妙音弁財天、伏見御所の弁財天。 京都市上京区・臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院・大光明寺の飛地境内。 本尊は青龍妙音弁財天画像。 歌詠、音楽、芸能上達、寿命増益、怨敵退散、財宝満足などの信仰を集める。 京洛七福神めぐり、京都七福神めぐりの一つ。 1306年、西園寺安寧子が第93代・後伏見天皇女御に輿入れし、第二伝の念持仏として本尊を持参。 本尊は北朝初代光厳天皇、第110代光明天皇、北朝第3代崇光天皇に崇敬され、伏見離宮内に祀られた。 14代伏見宮貞建親王により伏見邸が移転、遷座。 1869年、宮家が東京に移住、妙音堂は東京に遷座。 1901年、妙音天を祀って再建。
桝形通にある全長約164mのアーケード街。 食料品店や衣料品店を中心に軒を連ねる。 1991年、御影石の石畳が整備され、鯖街道の終点にあたることから、サバなどの海の生物が描かれた陶板が埋め込まれている。 2007年、レジ袋の削減などを目標とした「エコ商店街」の取り組みが行われ、第8回京都環境賞奨励賞受賞。 明治時代頃、公家や学者らが暮らし、醸造業者や砂糖問屋などが存在した。 2008年、サバのモニュメントが造られ、「わかさばちゃん」と名付けられた。 毎年5月の御霊祭では、アーケード内を3基の神輿が通り抜ける。
テレビアニメの舞台にも
2011年、出町商店街のマスコット「加茂川マコト」が登場。 伝統工芸品のデザインなどを行う有限会社スギテックによる「ことまきプロジェクト」の制作。 身長150cm、香道の趣味を持つ中学3年生の女の子。 2013年、テレビアニメ作品「たまこまーけっと」にて主な舞台となる「うさぎ山商店街」のモデルとして採用された。 このため、ファン交流ノートも設置されている「交流コーナー」がある。
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二条家邸は江戸時代、内裏(京都御所)の南に隣接していた。 1663年、霊元院へ後西院が譲位し、後西院の院御所用地が必要となり、二条家の地があてられた。 二条家は今出川通の北側に移転以来、邸宅となった。 明治時代、土地を同志社が取得し、同志社女子大学校地になっている。
同志社生活協同組合が運営する食堂。 1956年、同志社生協が創立され、日本最初の大学生協とも。 同志社尋常中学教員安部磯雄先生と学生らにより1898年、創業。 良心館食堂では麺類や丼、定食などのメニューも。
幕末、薩摩藩は公武合体派を推進する中心的な藩の一つであった。 藩主島津忠義の父久光は、1862年に上京、尊攘過激派らを鎮撫(寺田屋事件)。 1863年の政変や1864年の禁門の変では、幕府や会津藩などと連携して長州藩など尊攘勢力を一掃。 薩摩藩邸は錦小路通東洞院を本邸とし、相国寺近くの二本松にも設けられた。
京都市内で発掘された埋蔵文化財を中心に展示を行う。 1979年、開館。 館内は時代別、テーマ別などのコーナーがあり、写真などが展示。
外観
かつて、西陣織物館であり京都市登録有形文化財に指定。
地名、「舟橋」の由来の碑。 昔、堀川が氾濫したときに、舟を繋いで橋としたという伝説から舟橋と呼ばれるようになったとか。 「京町鑑」では、足利尊氏の執事、高師直の邸があり、泉殿の下に舟橋を浮かべ、それが地名の由来になったとか。 応仁の乱のとき、西軍の将、山名宗全の本陣が近くの山名町にあり、西陣の地名になったという。
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903年、菅原道真が大宰府で没後、都では落雷などの災害が相次いだ。 これが道真の祟りだとする噂が広まり、右京七条に住む多治比文子に託宣があり、近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。 947年、現在地のに朝廷によって道真を祀る社殿が造営。 987年、勅祭が行われ、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られた。 1587年、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。 境内西側に史跡「御土居」がある。
境内
諸説あるが、上方落語発祥の地として知られている。