
弁慶と牛若丸が出会った清水・五条
京都弁慶と牛若丸が出会った清水・五条
まいどまいど! 和菓子・どら焼きの生みの親としても知られる武蔵坊弁慶。 どら焼きは、国民的人気漫画・アニメ「ドラえもん(藤子・F・不二雄の代表作)」の主人公でネコ型ロボット・ドラえもんの大好物としても知られ、根強い人気を誇ってまんな。 そもそも、弁慶が振舞ったとされる元祖・どら焼きは、小麦粉を水で溶いて薄く伸ばしたものを熱した銅鑼に引き、丸く焼いた生地であんこを包んだものであるといい、かつての弁慶(幼名・鬼若)は相当の甘いもの好きやったのかもしれまへんな。 そんな弁慶と牛若丸が出会ったのは平安時代の頃。 一説によると、弁慶は当初、比叡山に住んでいたが、かなりの乱暴で播磨の書写山圓教寺の堂を炎上させてしまう。 「京で千本の太刀を奪う」とする計画を立て、日々、道行く人を襲っては太刀を奪っていた。 やがて999本となり、五条大橋で笛を吹きながら歩く牛若丸(源義経)と出会う。 弁慶は太刀を奪おうとすると義経は身軽に欄干を飛び交い、返り討ちに遭う。 弁慶は降参し、家来となったという伝説も。 そんな伝説の舞台ともなった五条大橋。 そんな歴史に浪漫を感じつつ、まちをぶらりと歩いてみることにしまひょ。
京都府京都市を流れる一級河川鴨川に架設された橋。 五条通(国道1号と国道8号)の一部。 古くから、平安京の京域内にあたる洛中から鴨川東岸への便として架橋。 当時は木橋で、鴨川中州を介して二つの橋に分かれていた。 1590年、方広寺大仏殿(東山大仏)の造営に当たり、豊臣秀吉の命により三条大橋とともに増田長盛を奉行として石柱の橋に改修。 当初、平安京の五条大路の東(松原橋)付近に架かっていたが、御土居築造に伴って撤去、郊外へ続く街道筋に当たっていた六条坊門通に架橋、以後、五条橋と称した。 通りの名も五条橋通(大仏橋、大仏橋通とも)、五条通と呼ばれ(五条松原通と呼ばれた旧五条通も松原通と呼ばれた)。
五条大橋
秀吉はこの橋を東国に至る渋谷街道、伏見街道への入り口とし、秀吉の開創した東山大仏(方広寺)も。 江戸時代、鴨川河原に高瀬川が開削、橋脚が石造に変わり、高欄に青銅の擬宝珠が左右に十六本付けられた。 秀吉はこの橋を東国に至る渋谷街道、伏見街道への入り口とし、秀吉の開創した東山大仏(方広寺)も。 江戸時代、鴨川河原に高瀬川が開削、橋脚が石造に変わり、高欄に青銅の擬宝珠が左右に十六本付けられた。
弁慶と牛若丸
現在、五条通拡幅工事にともない、1959年に架け替えられた。 橋の高欄は石造、擬宝珠はもとの形のものが十六個左右に装飾。 尋常唱歌「牛若丸」によると、五条大橋は弁慶と牛若丸が出会った場所とされる。 橋の西側にはその状景を模した京人形(御所人形)風の2体の石像が設置。 橋の高欄の上には擬宝珠が飾られ、1645年当時のものも。
京都市下京区と東山区に架かる五条大橋の西北側には、かつて御影堂扇があった。 平安時代、扇は当地で初めて作られた。 一ノ谷の合戦で平敦盛没後、妻は室本寺祐寛上人によって得度、蓮華院尼と名乗り、寺僧と共に扇を作ったとか。
1927年、鉄筋コンクリート造5階建として竣工。 正面玄関や階段はアール・デコ風。 一階外壁の石張や柱形頂部にはアカンサスなどの様式を採用。
1998年、閉校となった元番組小学校の一つである開智小学校の校舎を利用して開館。 施設内では京都の学校教育の元番組小学校を中心とした常設展の他、企画展を開催。 国家による学校制度(学制)が1872年に創設されるその先駆けとなった。 1869年、当時の住民自治組織「番組(町組)」を単位として京都の町衆たちの手によって64の小学校が創設。 かつて京都の上京と下京には「町組」という住民自治の組織があったが、明治維新の頃に「番組」という地域的なまとまりを持つ組織に再編。 1870年、各番組小学校において「稽古はじめ」式が催され、授業が開始。 授業科目は「句読」「暗誦」「習字」「算術」の4科。
番組小学校から
京都府が作成した式次第によると、孔子と菅原道真の2学神像が祀られた。 1879年、京都では「区」として再編、郡区町村編制法により上京区・下京区が置かれ、「組」と改称。 1941年、国民学校令により学区による小学校の運営が廃止。 正門、石塀、玄関(旧成徳小学校講堂玄関車寄を移築)が国・登録有形文化財。
江戸時代、攘夷派の志士として活躍した。 1829年、近江国栗太郡古高村(滋賀県守山市)生まれ。 別名、枡屋喜右衛門、湯浅喜右衛門。 父は大津代官所の手代・古高周蔵、母は公家の広橋家家来の娘・松本すみ。 山科毘沙門堂門跡に仕え、尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入り。 筑前福岡藩黒田家御用達・枡屋を継ぎ、古道具、馬具を扱いながら宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐ。 1864年、新選組に踏み込まれて捕縛される。 武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見。 壬生屯所前川邸の蔵で局長・近藤勇、副長・土方歳三から取調べを受けた。
政変後
政変後、京を追われた長州人らが強風の日を選んで御所に火を放ち、佐幕派公卿の中川宮を幽閉して京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするもの。 計画を実行する志士が上洛して潜伏、同志の集会があることを聞き、池田屋事件が起きた。
店内は立ち飲み専用カウンター席とテーブル席がある。 メニューは枝豆、冷奴、たこわさ、海鮮丼、ポテトフライ、コロッケなど。
おさしみやおでんなど
おさしみやおでんなどを味わうことができる。
おさしみやおでんなど
おさしみやおでんなどを味わうことができる。
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京都府木津川市に本社を置く製茶会社で宇治茶を生産・販売する。 初代当主の名に因んだブランド「伊右衛門」は、全国的に有名。 お好みの味や香りのお茶を自由につくることのできる宇治茶の工房や茶・和菓子を味わうことのできる甘味処、宇治茶とフランス料理が味わえるレストラン、茶道具などを販売するフロアがある。 茶・和菓子を味わうことのできる甘味処で本格的な宇治茶を味わうことにした。 店内にはカウンター席とテーブル席がある。
アイスグリンティー・フロート
メニューは抹茶クリームパフェ、デザートの盛り合わせ、抹茶アイスのあんみつ、大納言のぜんざい、自家製アイスクリーム三種盛り、アイスグリーンティなど。 アイスグリンティー・フロートとした。
1733年、丹波国南桑田郡(京都府亀岡市曽我部町)生まれ。 狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家、石田幽汀の門人。 「円山派」の祖で、現在の京都画壇の原形とも。 「銭舜挙(中国宋末・元初の画家)に応ずる」ことから「応挙」と名乗り、写生を重視した絵師であったが、一説によると「足のない幽霊」を描き始めた画家とも。
覗き眼鏡
京都・玩具商「尾張屋中島勘兵衛」に勤め、オランダ渡来の眼鏡絵を参考に京都各所の四条河原遊涼図・石山寺図・賀茂競馬図・円山座敷図・三十三間堂図などの風景を西洋画の遠近法を応用して描き、箱「覗き眼鏡」を通して見ると立体的に見える眼鏡絵を制作。 45度傾けた鏡に映した絵はレンズを通して眺めることにより、遠近が感じることができるという。
1688年、肥前国佐賀郡(佐賀県)の外様藩の大名・鍋島家は35万石余を与えられ、藩邸を建設。 鍋島家は戦国大名・龍造寺の家臣であったが、龍造寺隆信の戦死後、鍋島直茂が領地を継承して成立。 藩の成立後、龍造寺分家との間で対立(鍋島騒動)が勃発。 現在も「佐賀化け猫騒動」として語り継がれている。 1701年、烏丸通四条下る西側へ移転。
佐賀化け猫騒動
「佐賀化け猫騒動」とは、肥前国佐賀藩藩主・鍋島光茂は臣下の龍造寺又七郎と碁をしていたが、光茂が機嫌を損ねたために斬殺され、又七郎の母も飼っていた猫に悲しみの胸中を語ったあとに自害。 母の血を嘗めた猫が化け猫となって城内に入り込み、毎晩のように光茂を苦しめたが、光茂の忠臣・小森半左衛門が猫を退治、鍋島家を救うという伝説。
江戸時代、俳人、画家として活躍した。 1716年、大阪府大阪市都島区生まれ。 名は信章。 通称、寅。 号は蕪村、宰鳥、夜半亭(二世)、春星、謝寅(しゃいん)。 江戸では早野巴人(夜半亭宋阿)に師事し、俳諧を学ぶ。 茨城県結城市の砂岡雁宕の元で、松尾芭蕉の行脚生活に憧れ、その足跡を辿る。 京都に居を構え、結婚、娘が生まれた。 京都を出て讃岐では多くの作品を手掛け、再び京都に戻る。 1784年、終焉の地となった。
1743年、杉本家は屋号「奈良屋」として、呉服商を創業。 1764年、現在地に移転し、京呉服を仕入れて関東地方で販売(他国店持京商人)。 1870年、元治の大火後、当主は第六代新左衛門為賢、棟梁は菱屋利三郎と近江屋五良右衛門らが再建。 京町家に多い京格子、出格子、大戸、犬矢来、土塗りのむしこ窓などが特徴。 重要文化財に指定。 庭は「京町家の庭」として国の名勝に指定。
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