
反町薬師尊
楠木正成公誕生地
国指定史跡 足利氏宅跡
比叡山延暦寺
葛原岡神社
笠置山
富士山
楠木正成公誕生地
観心寺
下赤坂城跡
上赤阪城跡
内山永久寺跡
般若寺
平等院
六波羅蜜寺
黒木御所跡
安来港
美保関
黒木御所跡
上赤阪城跡
渡辺橋駅
四天王寺
吉野山
若宮大路幕府舊蹟碑
蔵王堂
蔵王堂
村上義光の墓
高野山金剛峯寺
千早城跡
名和公園
船上山
国指定史跡 足利氏宅跡
反町薬師尊
篠村八幡宮
六波羅探題跡
千早城跡
蓮華寺
生品神社 (太田市野井)
小手指ケ原古戦場
久米川古戦場
分倍河原古戦場
堀兼神社
分倍河原古戦場
十一人塚
化粧坂切通し
稲村ケ崎
東勝寺跡
腹切りやぐら
若宮大路幕府舊蹟碑
宝戒寺
京都御所
二階堂
信貴山
鎌倉宮
王子神社
首洗井戸
護良親王の墓
若宮大路幕府舊蹟碑
京都御所
建長寺
伊豆国庁址碑
足柄峠
箱根峠
京都御所
比叡山延暦寺
京都御所
京都御所
多々良浜古戦場の碑 (南北朝期 多々良浜合戦)
会下山公園
兵庫駅
古代大輪田泊の石椋
楠木正成公殉節地
楠木正成墓碑
観心寺 楠木正成首塚
比叡山延暦寺
東寺(教王護国寺)
千種忠顕卿戦死の碑
東寺(教王護国寺)
比叡山延暦寺
気比神宮 大鳥居
史跡金ヶ崎城跡
京都御所
吉野朝宮跡
史跡金ヶ崎城跡
杣山城跡
史跡金ヶ崎城跡
石丸城址
称念寺
燈明寺畷(新田塚)
称念寺
嵯峨野にある新田義貞公首塚
小田原宿にある新田義貞の首塚
群馬県にある新田義貞公首塚
後醍醐天皇 塔尾陵
天龍寺
観心寺
藤井寺
渡辺橋
吉野朝宮跡
如意輪寺
四條畷市
飯盛山
小楠公御墓所(楠木正行墓)
宝筐院
堀家住宅 賀名生皇居跡
足利尊氏邸跡
高師直墓所
薩埵峠
三嶋大社
浄妙寺
浄妙寺
等持院
長寿寺
観心寺
観心寺
太平記を巡る。
群馬太平記を巡る。
「太平記」を旅する。 様々な人々の活躍をダイナミックに描いている「太平記」の主要人物を私なりに理解する為に南北朝時代を舞台に、文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇を中心とする正中の変、元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱あたりまでの旅。
新田義貞宅跡 (反町館跡)
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楠木正成邸跡
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尊氏宅跡
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比叡山延暦寺 後醍醐天皇は正中の変の失敗にもめげず増兵を期待してしばしな比叡山を訪れている。1327年には、皇子の大塔宮護良親王を叡山延暦寺の天台座主にすえている。
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正中の変と元弘の乱 日野俊基卿処刑地 日野俊基卿は、文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加する。 鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で、同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。 京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した2度めの討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、鎌倉の源氏山山頂で処刑された。
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笠置山に後醍醐天皇行在所跡がある。 1331年鎌倉幕府は大軍を率て京を向けて出発する。 5月それに呼応して後醍醐天皇は三種の神器を奉じ女官用の車にて密かに皇居を脱出し笠置へ向かわれた。 9月初め鎌倉幕府の大軍が笠置山を囲んだ。
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武蔵野からの眺め。
水分の里にある楠木邸 笠置山に居る後醍醐天皇のお使いで万里小路藤房が水分の里にある楠木正成の館を訪れている。
観心寺 楠木妻子を託す 楠木正成は、後醍醐天皇からの依頼を受けた後、妻の久子と子の正行を観心寺に預けている。
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下赤坂城跡 楠木正成 太平記にある赤坂城は、下赤坂城と上赤坂城からなっている。 楠木正成の館も含めて山の上にあり、全体で1つの砦になっていると考えると分かりやすい。北から押し寄せてくる鎌倉幕府軍は、先ず下赤坂城と衝突することになる。 楠木正成が、笠置山にこもる後醍醐天皇に呼応して築城している。1331年秋 ここで鎌倉幕府と楠木正成の戦いが始まる。なお、楠木正成軍は、北から攻めてくる幕府軍と戦っている。 遺構はなく、下赤坂棚田の展望台がそのまま下赤坂城址の本丸跡となっている。 その展望台から東の方向の近くに楠木正成誕生の地と伝わっている館がある。 現在、西には棚田が広がる。
上赤坂城跡 楠木正成 南北朝時代の元弘の乱の主要な舞台となった楠木正成の城。 太平記にある赤坂城は、下赤坂城と上赤坂城からなっている。 楠木正成が、笠置山にこもる後醍醐天皇に呼応して赤坂城と共に築城する。 太平記によると1331年秋 鎌倉幕府と楠木正成の戦いが始まる。楠木正成軍はわずか500の兵を率て赤坂城にこもる。赤坂城が落城したが、楠木正成は自害したと見せかけて脱出している。 その後、鎌倉幕府に奪われた赤坂城を再び奪回するとともに、上赤坂城の南に千早城を築く。赤坂城が落城後、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、鎌倉幕府軍を苦しめている。
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永久寺 後醍醐天皇幽閉 鎌倉幕府軍に襲われた後醍醐天皇は、笠置山を脱出し楠木正成の居る赤坂に向かったが途中捕らえられ、一時ここに送られている。
般若寺 大塔宮護良親王隠れる 笠置山での合戦を脱出し、ここに身を隠してた。 大塔宮護良親王を追う興福寺のある坊主が般若寺に隠れている大塔宮護良親王の情報を得て北条方に密告する話が太平記に書かれている。その追っ手から逃れた大塔宮護良親王の話がまた面白い。
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平等院 後醍醐天皇幽閉 捕らえられた後醍醐天皇は永久寺から1331年10月2日に宇治平等院に移され、三日後、六波羅の南の館に移され幽閉されている。
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六波羅探題 後醍醐天皇幽閉 捕らえられた後醍醐天皇は永久寺から1331年10月2日に宇治平等院に移され、三日後、六波羅の南の館に移され幽閉されている。
大塔宮護良親王 十津川村 現在の谷瀬のつり橋のたもとあたりに半年間ほどここで過ごす。
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安来 後醍醐天皇 後醍醐天皇は1332年隠岐島に流される。 安来から隠岐の島へ向かう。
美保関 後醍醐天皇 後醍醐天皇は1332年隠岐島に流される。 安来から美保関港に寄って隠岐の島へ。
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隠岐の島 後醍醐天皇 黒木御所跡 黒木御所は、後醍醐天皇が1年間幽閉された場所。 鎌倉時代に隠岐諸島には後鳥羽上皇と後醍醐天皇がこの地に島流しとなっている。 後鳥羽上皇:承久3年(1221年)5月14日、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが大敗し、岐諸島の中ノ島へと流され、京へと帰りたいと念じながら、18年後に島でその生涯を閉じている。 後醍醐天皇:鎌倉幕府の討幕を企てたが失敗し隠岐諸島の西ノ島へと流刑になった。その後、島を脱出し、結果としては鎌倉幕府滅亡へを加速する結果となっている。
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上赤阪城跡 楠木正成 鎌倉幕府に奪われた城を奪回するとともに、千早城も築く。
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渡邊橋の南 楠木正成が布陣 赤坂城を取り返した後、和泉や河内を制圧し、渡邊橋の南に布陣し鎌倉幕府軍を迎え撃つ。1332年5月31日。
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天王寺 楠木正成本陣 楠木正成陣営。 太平記によると、1332年7月20日幕軍宇都宮軍が天王寺を攻めた時には、楠木軍はすでに脱出していた。天王寺に入った宇都宮軍は、包囲され補給を立たれ退却する。そこにまた楠木軍が入城する。
吉野山 大塔宮護良親王挙兵 大塔宮護良親王が楠木正成に呼応して吉野山で挙兵した。
1333年1月幕府30万進発 足利尊氏は病気を理由に参加していない。 六波羅の軍勢などを含めて80万となり、吉野、赤坂、千早を同時に攻撃している。新田義貞は、千早城の戦いで鎌倉幕府軍に加わっていた。
吉野山蔵王堂の前庭 大塔宮護良親王 大塔宮護良親王は最後の酒宴を蔵王堂の前で開く。
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村上義光公忠死之所 大塔宮護良親王 村上義光が大塔宮護良親王の身代わりになりここ仁王門のあたりで死す。 大塔宮護良親王は、ここから高野山に脱出する。
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村上義光の墓
大塔宮護良親王が高野山へ逃げる。 大塔宮護良親王は吉野山で鎌倉幕府軍に破れた後、高野山に逃げた。 その後、千早城で戦っている楠木正成に呼応してゲリラ戦を繰り返している。
千早城跡 楠木正成 太平記によると楠木正成は1000の兵と共に籠城し戦う。100日以上の長い間籠城をしている。 楠木正成の頑強な抵抗が導火線となり各地の郷士が立ち上がっている。 新田義貞も鎌倉幕府側に参加していたが戦線を離脱し国に戻っている。 そして、同じ頃、後醍醐天皇が隠岐の島を脱出している。 また、この篭城の間に足利尊氏が鎌倉幕府を裏切り六波羅探題を攻撃し、奪い去る。 そのため、千早城を囲んでいた鎌倉幕府軍が囲いをとき散りじりになる。
名和公園
船上山行宮 後醍醐天皇 後醍醐天皇は、在島一年で隠岐の島を脱出し名和湊に逃れた後、伯耆国の名和長年が奉じて船上山に立て篭もった。海側から大山の東手前に見える船上山を眺める。
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足利氏宅跡 病気のため邸にいた足利尊氏へ鎌倉から援軍の依頼が届く。 その後、尊氏は新田義貞邸を訪れ倒幕の気持ちを打ち明けている。 その後、1333年3月27日三千の兵を率て京に向かっている。
新田義貞邸 太平記によれば、足利尊氏は、新田邸を訪れ上洛し倒幕の旗揚げをするとの話を打ち明ける。 自分は六波羅探題を攻めるので新田義貞には鎌倉を攻めて欲しいとの提案をしている。その際、鎌倉に人質になっている尊氏の息子千寿王を預かって欲しいとの話をしている。 新田義貞と足利尊氏がここで密約をしていた、とある。
篠村八幡宮 足利高氏旗揚げ 1333年4月29日鎌倉幕府に対しての足利高氏旗揚げの地。 ここで六波羅を打ち北条幕府を倒すことを宣言している。
足利尊氏が六波羅探題攻撃 1333年5月7日足利尊氏は、老ノ坂を越えて京に入り六波羅探題を落とす。 写真は、六波羅密寺内にある六波羅探題を示す碑。
千早城 鎌倉幕府軍が引き上げる 千早城を包囲していた鎌倉幕府軍が引き上げる。
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北条仲時432名自刃 中山道 番場宿 蓮華寺 足利尊氏に六波羅探題を襲われ敗れた北条仲時は、番場宿まで逃れ北条仲時ら432名がこの寺の本堂前の中庭で自刃している(1333年5月9日)。
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新田義貞決起 生品明神社 1333年5月8日卯の刻(午前6時頃)に新田義貞はじめ新田一族が新田荘にある生品明神社に参集して決起する逸話が描かれている。
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小手指古戦場跡 新田義貞 1333年5月8日、新田義貞は生品神社で挙兵したのち、11日朝に入間川を渡って小手指原に達し、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と衝突した。 戦闘は30回を越える激戦となった。 兵数は鎌倉幕府軍の方が勝っていたが、同様に鎌倉幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。 日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、新田義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。
久米川古戦場跡 新田義貞 新田義貞は入間川まで、幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。 翌日朝(5月12日)、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した(久米川の戦い )。
分倍河原古戦場跡 新田義貞 久米川の合戦から退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始ようとした。 先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢10万騎が加わり、士気が高まった。 一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。 5月15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突する(分倍河原の戦い)。 だが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。
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堀兼へ敗走 新田義貞 堀兼に敗走した新田義貞は、退却も検討していた。しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。 翌16日早朝、新田義貞は分倍河原に押し寄せ、幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。 この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。
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分倍河原古戦場 新田義貞 三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。 翌5月16日早朝、新田義貞は分倍河原に押し寄せ、幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。 この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。 この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。
鎌倉十一人塚 新田義貞 鎌倉を攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通。 戦いは1333年5月18日から始まった。 新田義貞は本隊を仮粧坂切通しに、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏に命じた。 鎌倉幕府は、極楽寺切通に大仏貞直が防備を担当した。大舘宗氏は極楽寺切通を突破したが、稲瀬川付近で宗氏以下11人が討死している。
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仮粧坂切通しの戦い 新田義貞本隊
鎌倉稲村ヶ崎 新田義貞 鎌倉幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通しを固める。 新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。 倒幕運動最後の合戦(東勝寺合戦)が行われた。
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鎌倉東勝寺合戦跡 新田義貞 最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、5月22日に北条高時らは自害、鎌倉幕府は滅亡した。 5月8日の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。 そして、元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛している。 新田義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになる。
北条高時自害 鎌倉腹切りやぐら 最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、5月22日に北条高時ら700名は自害、鎌倉幕府は滅亡した。 5月8日の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。 そして、元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛している。 新田義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになる。
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若宮大路幕府舊蹟碑 1236年頃、辻子幕府からこの地に幕府が写っている。 それ以後ここで新田義貞に滅ぼされるまで国政が行われている。
北条執権邸旧跡碑 北条一族の死後、その霊を弔う為に後醍醐天皇が北条執権邸の敷地跡に宝戒寺を建立している。
京都御所 後醍醐天皇 元弘3年(1333年)5月23日船上山を下って京へ向かった。 途中、鎌倉幕府が新田義貞により落ちた報告を後醍醐天皇が受ける。 6月4日、楠木正成がお迎えに行き先陣をつとめて御所に入る。 元弘4年1334年1月29日年号を建武と改められた。
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鎌倉二階堂 千寿王 新田義貞と一緒に鎌倉に入った足利尊氏の息子である千寿王がここに鎌倉の総大将として存在してしまったことにより新田義貞との立場が危うくなる。
奈良 信貴山 大塔宮護良親王 足利尊氏の動きを懸念して大塔宮護良親王は信貴山に陣を張る。その後、天皇から征夷大将軍に任じられ上洛している。
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鎌倉二階堂 堂ケ谷 大塔宮護良親王 足利尊氏に謀られた大塔宮護良親王は、建武1年1334年9月22日清涼殿で捕えられ鎌倉のこの地の牢屋に入れられ足利の監視下に置かれた。 そして、北条時行に鎌倉が攻められた混乱に乗じて足利尊氏の家来にここで殺害されている。