反町薬師尊
楠木正成公誕生地
国指定史跡 足利氏宅跡
比叡山延暦寺
葛原岡神社
笠置山
富士山
楠木正成公誕生地
観心寺
下赤坂城跡
上赤阪城跡
内山永久寺跡
般若寺
平等院
六波羅蜜寺
黒木御所跡
安来港
美保関
黒木御所跡
上赤阪城跡
渡辺橋駅
四天王寺
吉野山
若宮大路幕府舊蹟碑
蔵王堂
蔵王堂
村上義光の墓
高野山金剛峯寺
千早城跡
名和公園
船上山
国指定史跡 足利氏宅跡
反町薬師尊
篠村八幡宮
六波羅探題跡
千早城跡
蓮華寺
生品神社 (太田市野井)
小手指ケ原古戦場
久米川古戦場
分倍河原古戦場
堀兼神社
分倍河原古戦場
十一人塚
化粧坂切通し
稲村ケ崎
東勝寺跡
腹切りやぐら
若宮大路幕府舊蹟碑
宝戒寺
京都御所
二階堂
信貴山
鎌倉宮
王子神社
首洗井戸
護良親王の墓
若宮大路幕府舊蹟碑
京都御所
建長寺
伊豆国庁址碑
足柄峠
箱根峠
京都御所
比叡山延暦寺
京都御所
京都御所
多々良浜古戦場の碑 (南北朝期 多々良浜合戦)
会下山公園
兵庫駅
古代大輪田泊の石椋
楠木正成公殉節地
楠木正成墓碑
観心寺 楠木正成首塚
比叡山延暦寺
東寺(教王護国寺)
千種忠顕卿戦死の碑
東寺(教王護国寺)
比叡山延暦寺
気比神宮 大鳥居
史跡金ヶ崎城跡
京都御所
吉野朝宮跡
史跡金ヶ崎城跡
杣山城跡
史跡金ヶ崎城跡
石丸城址
称念寺
燈明寺畷(新田塚)
称念寺
嵯峨野にある新田義貞公首塚
小田原宿にある新田義貞の首塚
群馬県にある新田義貞公首塚
後醍醐天皇 塔尾陵
天龍寺
観心寺
藤井寺
渡辺橋
吉野朝宮跡
如意輪寺
四條畷市
飯盛山
小楠公御墓所(楠木正行墓)
宝筐院
堀家住宅 賀名生皇居跡
足利尊氏邸跡
高師直墓所
薩埵峠
三嶋大社
浄妙寺
浄妙寺
等持院
長寿寺
観心寺
観心寺
太平記を巡る。
群馬太平記を巡る。
「太平記」を旅する。 様々な人々の活躍をダイナミックに描いている「太平記」の主要人物を私なりに理解する為に南北朝時代を舞台に、文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇を中心とする正中の変、元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱あたりまでの旅。
新田義貞宅跡 (反町館跡)
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楠木正成邸跡
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尊氏宅跡
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比叡山延暦寺 後醍醐天皇は正中の変の失敗にもめげず増兵を期待してしばしな比叡山を訪れている。1327年には、皇子の大塔宮護良親王を叡山延暦寺の天台座主にすえている。
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正中の変と元弘の乱 日野俊基卿処刑地 日野俊基卿は、文保2年(1318年)に即位した後醍醐天皇の親政に参加する。 鎌倉幕府討幕のための謀議に加わる。諸国を巡り反幕府勢力を募るが六波羅探題に察知され、正中元年(1324年)の正中の変で、同族の日野資朝らと逮捕されるが処罰は逃れる。 京都へ戻るが、元徳3年/元弘元年(1331年)に発覚した2度めの討幕計画である元弘の乱で再び捕らえられ、鎌倉の源氏山山頂で処刑された。
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笠置山に後醍醐天皇行在所跡がある。 1331年鎌倉幕府は大軍を率て京を向けて出発する。 5月それに呼応して後醍醐天皇は三種の神器を奉じ女官用の車にて密かに皇居を脱出し笠置へ向かわれた。 9月初め鎌倉幕府の大軍が笠置山を囲んだ。
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武蔵野からの眺め。
水分の里にある楠木邸 笠置山に居る後醍醐天皇のお使いで万里小路藤房が水分の里にある楠木正成の館を訪れている。
観心寺 楠木妻子を託す 楠木正成は、後醍醐天皇からの依頼を受けた後、妻の久子と子の正行を観心寺に預けている。
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下赤坂城跡 楠木正成 太平記にある赤坂城は、下赤坂城と上赤坂城からなっている。 楠木正成の館も含めて山の上にあり、全体で1つの砦になっていると考えると分かりやすい。北から押し寄せてくる鎌倉幕府軍は、先ず下赤坂城と衝突することになる。 楠木正成が、笠置山にこもる後醍醐天皇に呼応して築城している。1331年秋 ここで鎌倉幕府と楠木正成の戦いが始まる。なお、楠木正成軍は、北から攻めてくる幕府軍と戦っている。 遺構はなく、下赤坂棚田の展望台がそのまま下赤坂城址の本丸跡となっている。 その展望台から東の方向の近くに楠木正成誕生の地と伝わっている館がある。 現在、西には棚田が広がる。
上赤坂城跡 楠木正成 南北朝時代の元弘の乱の主要な舞台となった楠木正成の城。 太平記にある赤坂城は、下赤坂城と上赤坂城からなっている。 楠木正成が、笠置山にこもる後醍醐天皇に呼応して赤坂城と共に築城する。 太平記によると1331年秋 鎌倉幕府と楠木正成の戦いが始まる。楠木正成軍はわずか500の兵を率て赤坂城にこもる。赤坂城が落城したが、楠木正成は自害したと見せかけて脱出している。 その後、鎌倉幕府に奪われた赤坂城を再び奪回するとともに、上赤坂城の南に千早城を築く。赤坂城が落城後、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、鎌倉幕府軍を苦しめている。
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永久寺 後醍醐天皇幽閉 鎌倉幕府軍に襲われた後醍醐天皇は、笠置山を脱出し楠木正成の居る赤坂に向かったが途中捕らえられ、一時ここに送られている。
般若寺 大塔宮護良親王隠れる 笠置山での合戦を脱出し、ここに身を隠してた。 大塔宮護良親王を追う興福寺のある坊主が般若寺に隠れている大塔宮護良親王の情報を得て北条方に密告する話が太平記に書かれている。その追っ手から逃れた大塔宮護良親王の話がまた面白い。
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平等院 後醍醐天皇幽閉 捕らえられた後醍醐天皇は永久寺から1331年10月2日に宇治平等院に移され、三日後、六波羅の南の館に移され幽閉されている。
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六波羅探題 後醍醐天皇幽閉 捕らえられた後醍醐天皇は永久寺から1331年10月2日に宇治平等院に移され、三日後、六波羅の南の館に移され幽閉されている。
大塔宮護良親王 十津川村 現在の谷瀬のつり橋のたもとあたりに半年間ほどここで過ごす。
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安来 後醍醐天皇 後醍醐天皇は1332年隠岐島に流される。 安来から隠岐の島へ向かう。
美保関 後醍醐天皇 後醍醐天皇は1332年隠岐島に流される。 安来から美保関港に寄って隠岐の島へ。
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隠岐の島 後醍醐天皇 黒木御所跡 黒木御所は、後醍醐天皇が1年間幽閉された場所。 鎌倉時代に隠岐諸島には後鳥羽上皇と後醍醐天皇がこの地に島流しとなっている。 後鳥羽上皇:承久3年(1221年)5月14日、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、承久の乱を起こしたが大敗し、岐諸島の中ノ島へと流され、京へと帰りたいと念じながら、18年後に島でその生涯を閉じている。 後醍醐天皇:鎌倉幕府の討幕を企てたが失敗し隠岐諸島の西ノ島へと流刑になった。その後、島を脱出し、結果としては鎌倉幕府滅亡へを加速する結果となっている。
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上赤阪城跡 楠木正成 鎌倉幕府に奪われた城を奪回するとともに、千早城も築く。
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渡邊橋の南 楠木正成が布陣 赤坂城を取り返した後、和泉や河内を制圧し、渡邊橋の南に布陣し鎌倉幕府軍を迎え撃つ。1332年5月31日。
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天王寺 楠木正成本陣 楠木正成陣営。 太平記によると、1332年7月20日幕軍宇都宮軍が天王寺を攻めた時には、楠木軍はすでに脱出していた。天王寺に入った宇都宮軍は、包囲され補給を立たれ退却する。そこにまた楠木軍が入城する。
吉野山 大塔宮護良親王挙兵 大塔宮護良親王が楠木正成に呼応して吉野山で挙兵した。
1333年1月幕府30万進発 足利尊氏は病気を理由に参加していない。 六波羅の軍勢などを含めて80万となり、吉野、赤坂、千早を同時に攻撃している。新田義貞は、千早城の戦いで鎌倉幕府軍に加わっていた。
吉野山蔵王堂の前庭 大塔宮護良親王 大塔宮護良親王は最後の酒宴を蔵王堂の前で開く。
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村上義光公忠死之所 大塔宮護良親王 村上義光が大塔宮護良親王の身代わりになりここ仁王門のあたりで死す。 大塔宮護良親王は、ここから高野山に脱出する。
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村上義光の墓
大塔宮護良親王が高野山へ逃げる。 大塔宮護良親王は吉野山で鎌倉幕府軍に破れた後、高野山に逃げた。 その後、千早城で戦っている楠木正成に呼応してゲリラ戦を繰り返している。
千早城跡 楠木正成 太平記によると楠木正成は1000の兵と共に籠城し戦う。100日以上の長い間籠城をしている。 楠木正成の頑強な抵抗が導火線となり各地の郷士が立ち上がっている。 新田義貞も鎌倉幕府側に参加していたが戦線を離脱し国に戻っている。 そして、同じ頃、後醍醐天皇が隠岐の島を脱出している。 また、この篭城の間に足利尊氏が鎌倉幕府を裏切り六波羅探題を攻撃し、奪い去る。 そのため、千早城を囲んでいた鎌倉幕府軍が囲いをとき散りじりになる。
名和公園
船上山行宮 後醍醐天皇 後醍醐天皇は、在島一年で隠岐の島を脱出し名和湊に逃れた後、伯耆国の名和長年が奉じて船上山に立て篭もった。海側から大山の東手前に見える船上山を眺める。
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足利氏宅跡 病気のため邸にいた足利尊氏へ鎌倉から援軍の依頼が届く。 その後、尊氏は新田義貞邸を訪れ倒幕の気持ちを打ち明けている。 その後、1333年3月27日三千の兵を率て京に向かっている。
新田義貞邸 太平記によれば、足利尊氏は、新田邸を訪れ上洛し倒幕の旗揚げをするとの話を打ち明ける。 自分は六波羅探題を攻めるので新田義貞には鎌倉を攻めて欲しいとの提案をしている。その際、鎌倉に人質になっている尊氏の息子千寿王を預かって欲しいとの話をしている。 新田義貞と足利尊氏がここで密約をしていた、とある。
篠村八幡宮 足利高氏旗揚げ 1333年4月29日鎌倉幕府に対しての足利高氏旗揚げの地。 ここで六波羅を打ち北条幕府を倒すことを宣言している。
足利尊氏が六波羅探題攻撃 1333年5月7日足利尊氏は、老ノ坂を越えて京に入り六波羅探題を落とす。 写真は、六波羅密寺内にある六波羅探題を示す碑。
千早城 鎌倉幕府軍が引き上げる 千早城を包囲していた鎌倉幕府軍が引き上げる。
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北条仲時432名自刃 中山道 番場宿 蓮華寺 足利尊氏に六波羅探題を襲われ敗れた北条仲時は、番場宿まで逃れ北条仲時ら432名がこの寺の本堂前の中庭で自刃している(1333年5月9日)。
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新田義貞決起 生品明神社 1333年5月8日卯の刻(午前6時頃)に新田義貞はじめ新田一族が新田荘にある生品明神社に参集して決起する逸話が描かれている。
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小手指古戦場跡 新田義貞 1333年5月8日、新田義貞は生品神社で挙兵したのち、11日朝に入間川を渡って小手指原に達し、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門を副将とする幕府軍と衝突した。 戦闘は30回を越える激戦となった。 兵数は鎌倉幕府軍の方が勝っていたが、同様に鎌倉幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。 日没までに新田軍は300、幕府軍は500ほどの戦死者を出し、両軍共に疲弊し、新田義貞は入間川まで幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。
久米川古戦場跡 新田義貞 新田義貞は入間川まで、幕府軍は久米川まで一旦撤退して軍勢を立て直した。 翌日朝(5月12日)、義貞の軍勢が久米川に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けたことで再度戦闘が発生した(久米川の戦い )。
分倍河原古戦場跡 新田義貞 久米川の合戦から退却した幕府軍は再び分倍河原に布陣し、新田軍と決戦を開始ようとした。 先日の敗北により士気が下がっていた幕府軍であったが、そこに北条泰家を大将とする新手の軍勢10万騎が加わり、士気が高まった。 一方で義貞は、幕府軍に増援が加わったことを知らずにいた。 5月15日未明、義貞は突撃を敢行し、幕府軍と激突する(分倍河原の戦い)。 だが、増援を得て持ち直した幕府軍に迎撃され、堀兼まで敗走した。この敗走の際、武蔵国分寺が焼失したといわれる。
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堀兼へ敗走 新田義貞 堀兼に敗走した新田義貞は、退却も検討していた。しかし、堀兼に敗走した日の晩、三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。 翌16日早朝、新田義貞は分倍河原に押し寄せ、幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。 この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。
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分倍河原古戦場 新田義貞 三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。 翌5月16日早朝、新田義貞は分倍河原に押し寄せ、幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。 この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。 この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。
鎌倉十一人塚 新田義貞 鎌倉を攻め込むことのできるのは、鎌倉七口と呼ばれる切通。 戦いは1333年5月18日から始まった。 新田義貞は本隊を仮粧坂切通しに、極楽寺切通からの攻撃を大舘宗氏に命じた。 鎌倉幕府は、極楽寺切通に大仏貞直が防備を担当した。大舘宗氏は極楽寺切通を突破したが、稲瀬川付近で宗氏以下11人が討死している。
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仮粧坂切通しの戦い 新田義貞本隊
鎌倉稲村ヶ崎 新田義貞 鎌倉幕府軍は鎌倉に籠もり7つの切通しを固める。 新田軍は要害の地鎌倉を攻めあぐんだが、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。 倒幕運動最後の合戦(東勝寺合戦)が行われた。
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鎌倉東勝寺合戦跡 新田義貞 最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、5月22日に北条高時らは自害、鎌倉幕府は滅亡した。 5月8日の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。 そして、元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛している。 新田義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになる。
北条高時自害 鎌倉腹切りやぐら 最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、5月22日に北条高時ら700名は自害、鎌倉幕府は滅亡した。 5月8日の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。 そして、元弘3年(1333年)6月、義貞は鎌倉を去り、上洛している。 新田義貞が鎌倉を去った事で、鎌倉は事実上足利が統治することになる。
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若宮大路幕府舊蹟碑 1236年頃、辻子幕府からこの地に幕府が写っている。 それ以後ここで新田義貞に滅ぼされるまで国政が行われている。
北条執権邸旧跡碑 北条一族の死後、その霊を弔う為に後醍醐天皇が北条執権邸の敷地跡に宝戒寺を建立している。
京都御所 後醍醐天皇 元弘3年(1333年)5月23日船上山を下って京へ向かった。 途中、鎌倉幕府が新田義貞により落ちた報告を後醍醐天皇が受ける。 6月4日、楠木正成がお迎えに行き先陣をつとめて御所に入る。 元弘4年1334年1月29日年号を建武と改められた。
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鎌倉二階堂 千寿王 新田義貞と一緒に鎌倉に入った足利尊氏の息子である千寿王がここに鎌倉の総大将として存在してしまったことにより新田義貞との立場が危うくなる。
奈良 信貴山 大塔宮護良親王 足利尊氏の動きを懸念して大塔宮護良親王は信貴山に陣を張る。その後、天皇から征夷大将軍に任じられ上洛している。
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鎌倉二階堂 堂ケ谷 大塔宮護良親王 足利尊氏に謀られた大塔宮護良親王は、建武1年1334年9月22日清涼殿で捕えられ鎌倉のこの地の牢屋に入れられ足利の監視下に置かれた。 そして、北条時行に鎌倉が攻められた混乱に乗じて足利尊氏の家来にここで殺害されている。
『太平記』では、淵辺義博は土牢の中で護良親王を組み伏せ、格闘の末にようやく首を取った淵辺が首を持ち外に出て月あかりで見ると、首は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえたままの凄惨な形相であった。淵辺はあまりの恐ろしさに、首を竹藪に投げすてたという。 首がどうなったかについては太平記は語っていない。 王子神社には、殺害された親王の御首を、側女が密かに持ち出しその御首を地下に葬ったと伝えられる。その上に建てられたのが王子神社と言われている。 また、首を洗い清め奉じたとされる、護良親王の首洗い井戸が王子神社の近くにある。
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『太平記』では、淵辺義博は土牢の中で護良親王を組み伏せ、格闘の末にようやく首を取った淵辺が首を持ち外に出て月あかりで見ると、首は両眼を見開き、歯には刀の先をくわえたままの凄惨な形相であった。淵辺はあまりの恐ろしさに、首を竹藪に投げすてたという。 首がどうなったかについては太平記は語っていない。 王子神社には、殺害された親王の御首を、側女が密かに持ち出しその御首を地下に葬ったと伝えられる。その上に建てられたのが王子神社と言われている。 また、首を洗い清め奉じたとされる、護良親王の首洗い井戸が王子神社の近くにある。
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鎌倉 大塔宮護良親王墓 足利尊氏に謀られた大塔宮護良親王は、建武1年1334年9月22日清涼殿で捕えられ鎌倉に送られ足利の監視下に置かれた。 そして、北条時行に鎌倉が攻められた混乱に乗じて足利尊氏の家来に現在の鎌倉宮がある地で殺害されている。
足利尊氏征夷大将軍を勝手に名乗る 北条時行が鎌倉を制圧して20日後足利軍により滅ぼされる(建武2年1335年8月19日)。 旧将軍館跡に新邸を造営し征夷大将軍を名乗った。
新田義貞 征夷大将軍任命される 後醍醐天皇は、大塔宮護良親王が足利氏一族により殺害されたことを知る。 鎌倉の足利尊氏打倒に向けて新田義貞が征夷大将軍に任ぜられる。建武2年1335年11月19日。
鎌倉建長寺 足利尊氏 尊氏は、賊軍となる事を嫌いここで出家している。
伊豆国府 新田義貞 新田義貞軍はここに進軍する。 1335年12月10日上将軍尊良親王率いる軍は足柄峠に向けて、新田義貞率いる軍は箱根峠へ向かう。佐々木軍らの裏切りにより新田軍が破れる。
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足柄峠合戦 1335年12月10日上将軍尊良親王率いる軍は足柄峠に向けて進軍する。
箱根峠合戦 1335年12月10日新田義貞率いる軍は箱根峠へ向けて進軍する。
新田義貞が後醍醐天皇に敗戦を報じる 京を攻めてくる足利尊氏軍を賊として打つように後醍醐天皇から依頼される。
比叡山へ後醍醐天皇退く 比叡山に退く。
足利尊氏 20日ほど京占拠 正月11日に京占拠。 さらに新田義貞らに攻められて1月30日兵庫方面へ退去。
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京都御所 後醍醐天皇 東坂本から戻った後醍醐天皇は2月29日年号を改元とされた。
九州多々良浜古戦場 足利尊氏 京都で敗れた足利尊氏が、宗像大宮司らの援軍を得て、建武3年(1336年)多々良川右岸に陣を取り九州勢と戦い尊氏が勝利をおさめた。この勝利を記念して足利尊氏は宗像大宮司に鎧を差し上げている。その鎧が宗像大社神宝館に展示されている。その鎧がこの戦で足利尊氏が使っていたと思うと愉快である。写真撮影が不可のためここにアップできないのが残念である。http://www.munakata-taisha.or.jp/html/shinpoukan.html その後、足利尊氏はその余勢そままに京を攻め上がり楠木正成、新田義貞らを破り室町幕府を築いている。
湊川合戦 楠木正成の布陣 1336年5月25日 700騎が会下山に布陣する。
湊川合戦 新田義貞軍の布陣 1336年5月25日 新田軍数万が湊川の東側に展開する。
湊川合戦 新田義貞軍の布陣 1336年5月25日 新田軍数万が湊川の東側に展開する。
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湊川合戦 楠木正成公殉節地 新田義貞が足利尊氏から背後を突かれるのを恐れて東に軍を引かせる。それに合わせて湊川の西に布陣していた数万の足利軍が兵庫の町になだれ込む。 僅か700騎ほどの楠木軍が会下山から数万の足利軍側面を衝くが、敗退。 1336年5月25日楠木正成と一族16騎、郎党60人余りが共に自刀している。
楠木正成公の墓
観心寺 楠木正成首塚 1336年5月25日に自刀した正成の首は晒し首の後観心寺にいる遺族の元に送られている。
後醍醐天皇が比叡山へ動座 足利軍から逃げるために。
京都東寺 足利尊氏本陣 足利尊氏が1336年5月28日東寺に本陣を構える。
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比叡山 千種忠顕卿戦死 1336年6月5日戦士。 東寺に本陣を構える足利軍と比叡山にこもる後醍醐天皇側の軍との戦いが半年ほど続く。
足利軍と新田軍の東寺での戦い 1336年6月30日新田軍が東寺を囲んで戦いが始まる。
足利からの和睦の申し出 1336年10月、足利尊氏が持明院統と大覚寺統が交互に皇位を継ぐことを約束する。 後醍醐天皇から新田義貞へ恒良と尊良を擁し北陸へ赴いて欲しいと依頼される。 敦賀の気比神社の大宮司気比弥三郎大夫などを頼ることを伝える。 10月10日後醍醐天皇は下山する。
気比神宮 新田義貞 新田義貞らは恒良と尊良親王奉じて1336年10月13日到着する。
金ヶ崎城 新田義貞 山城を築く。
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花山院 後醍醐天皇幽閉 足利尊氏の和議申し込みに謀られた後醍醐天皇は花山院に幽閉される。その後、女装して脱出し吉野へ逃れている。
吉野朝宮跡 後醍醐天皇 花山院を逃れた後醍醐天皇は吉野に籠もられた。 これが南朝の始まりになる。1336年暮。 以後、50年あまりの間南北両朝が存在することになる。 (2018年7月)
金ヶ崎城 足利軍包囲
杣山城跡 新田義貞 新田義貞と五人の家臣は包囲された金ヶ崎城を夜に抜け出し、杣山城に向かったが、敵に包囲されているために近寄れなかった。 その後、手薄になったのち入城している。金ヶ崎城の雒城の知らせをここで受けている。
金ヶ崎城落城 二人の親王 楠木正成の助けなく、全員討死すると共に尊良親王は自刀している。 恒良親王は小舟で脱出している。 その後、恒良親王は足利軍に発見され京に幽閉され一年後毒殺されている。15才であった。
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石丸城跡 新田義貞 新田義貞は、北陸地方の統一に向けて動いていた。それらの知らせは吉野の後醍醐天皇にも知らされ、1338年春、帝から綸旨が新田義貞に届いている。
称念寺 新田義貞 新田義貞らが度々、本寺の住持の白道上人より法門を聴聞していたとのこと。
燈明寺畷新田義貞戦没伝説地 延元3年1338年7月2日新田義貞38才。
称念寺 新田義貞墓 首は京で獄門になっている。
〒616-8387 京都府京都市右京区嵯峨亀山町10−4 新田義貞公首塚 新田義貞公首塚 新田義貞公の首が獄門となった後、何方かが盗みここに葬ったとの言い伝えがある。
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新田義貞の首塚 新田義貞の首塚は、越前藤島で討ち取られ首は京都でさらし首にされている。それを家臣が盗み出し埋葬したと言う話があり。この地の他に京都の嵯峨野にも首塚がある。
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新田義貞の首塚は、越前藤島で討ち取られ首は京都でさらし首にされている。それを家臣が盗み出し埋葬したと言う話があり。この地の他に京都の嵯峨野と小田原宿にも首塚がある。
後醍醐天皇 塔尾陵 延元4年秋 1339年8月16日崩御
天龍寺 足利尊氏 1345年足利尊氏が、禅僧夢窓国師に依頼し後醍醐天皇の冥福を祈って建立する。
観心寺 楠木正行 正成の息子である正行(まさつら)が立ち上がる。数えて22才。1347年8月26日
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藤井寺合戦 楠木正行 室町幕府軍が布陣した藤井寺を奇襲し正行が勝つ。
渡邊橋の南 楠木正行 1387年11月26日陣をとる。室町幕府軍に勝つ。
吉野朝宮跡 後村上天皇 1387年12月27日楠木正行は後村上天皇に拝謁する。
如意輪寺 楠木正行 四条畷へ攻めることを告げる。如意輪寺に一同の143人の名を記す。
四条畷合戦 楠木正行と高 師直 高 師直(こうのもろなお)の勝利
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飯盛山 楠木正行自刀 弟である正時とともに刺し違える。従う32人も自刀する。
楠木正行公御墓所
楠木正行首塚 黙庵に帰依していた楠木正行の首級が、正平3年/貞和4年(1348年)に四條畷の戦いにおいて足利方の高師直・師泰兄弟と戦って敗北した後は、黙庵によってその首級を寺の敷地内に手厚く葬られた。 その正行の敵である尊氏の後を継いだ第二将軍である足利義詮は、「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」と遺言を残したと言われ、貞治5年(1367年)、彼の死後ほどなく、正行の墓(五輪石塔)の隣の墓(宝筐印塔)に葬られた、とのこと。
賀名生皇居跡 後村上天皇 高 師直に追い詰められ吉野朝宮から動座する。
足利尊氏邸 北朝側はこの年年号を暦応と改め8月足利尊氏は征夷大将軍に任じられた。 尊氏、直義と高 師直の3人の間で確執が深まる。その結果、観応の擾乱が起きることになる。尊氏と直義が居る足利尊氏邸を高 師直軍が包囲するなどの事件が観応の擾乱の引き金になる。
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観応の擾乱 高 師直(こうのもろなお)墓 Wikipediaによると、 正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで足利直義・南朝方に敗れた足利尊氏は、高師直兄弟の出家を条件に和睦するが、高師直は摂津から京への護送中に、足利直義派の上杉能憲らによって、一族と共に、殺害されている。
観応の擾乱 薩埵峠 足利尊氏 足利 直義(あしかが ただよし)は、高 師直一族を殺害した後、尊氏の下で政務を統括していたが、南朝と北朝の調整に失敗。 その後、尊氏と軍事的に向かい合うことになる。尊氏は薩埵峠まで軍を、鎌倉に軍を展開していた直義は三島神社あたりで尊氏軍と対峙した。 この戦いに破れた直義は尊氏と和睦し、2年間続いた観応の擾乱がこれで漸く終わった。
観応の擾乱 三嶋大社 足利直義 足利 直義(あしかが ただよし)は、高 師直一族を殺害した後、尊氏の下で政務を統括していたが、南朝と北朝の調整に失敗。 その後、尊氏と軍事的に向かい合うことになる。尊氏は薩埵峠まで軍を、鎌倉に軍を展開していた直義は三島神社あたりで尊氏軍と対峙した。 この戦いに破れた直義は尊氏と和睦し、2年間続いた観応の擾乱がこれで漸く終わった。
浄妙寺 足利直義 足利尊氏との和睦後この寺に蟄居させられた。正平7年2月26日黄疸により死去。
観応の擾乱 足利直義墓 正平7年2月26日黄疸により死去。 足利尊氏の命により鎌倉で毒殺された、との話もある。 当時、尊氏も一年ほど鎌倉に滞在していた、と言われる。
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足利尊氏墓 京都の等持院 1358年4月30日死去。 正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。
足利尊氏墓 鎌倉の長寿寺 1358年4月30日死去。 正平13年/延文3年(1358年)4月30日、先の合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。
後村上天皇御旧跡(旧惣特院跡)
後村上天皇陵 正平23年3月11日(1368年3月29日) 住吉行宮(住之江殿)