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幕末から明治維新にかけて躍動した萩のまち

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    観光

幕末から明治維新にかけて躍動した萩のまち

まいどまいど! 今回は江戸時代から明治維新にかけての「激動」時代を駆け抜けた志士たちが生まれ育ったまち、山口県萩市を観光しまひょ。 過去2018年は、明治維新の1868年から150年。 この年は日本各地で様々なイベントが開催され、萩市でも観光にえらい力を入れてはりました。 何よりも萩市は高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)らを輩出、そして、何よりも私塾の松下村塾の塾を経営していた吉田松陰の過ごした町。 特に、長州藩の藩校である明倫館では、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並ぶ、日本三大学府の一つと称されたほど。 などなど、学校の教科書をはじめ、1度や2度は聞いたことがある名前やおまへんでっしゃろか。 ほんでまた、ユネスコの世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録されたっちゅうことで、観光地としては毛利輝元の萩城をはじめ、萩城下町、萩反射炉など、新たに世界的に注目を集めてはります。 1863年、長州藩から清国を経由してヨーロッパに派遣された井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名「長州五傑・長州ファイブ」の足跡も巡りまひょ。

  • 山口県萩市で活躍するマスコットキャラクター「忠義の猫 萩にゃん」。 萩では古くから伝わる忠義の猫「猫町伝説」の蘇り。 高杉晋作に憧れて奇兵隊の姿を真似。 頭には毛利家家紋の肉球バージョン入り陣傘。 首には鈴の代わりに萩の特産品である夏ミカン。 好物は、蒸気饅頭、長州おはぎ、金太郎、萩の瀬付きあじ。 好きな言葉は忠義。

    • 猫町伝説

      猫町伝説

      1625年、当地を治めていた長州藩の藩祖・毛利輝元が死去、武将の長井元房は主君を追って殉死。 長井元房には生前、可愛がっていた猫がいた。 元房の死後、その猫は墓所から離れることがなく、四十九日を迎えた日に、舌を噛んで後を追うように死んでいた。 後日、元房の屋敷周辺で、猫の鳴き声が聞こえたため、哀れに思った寺の僧侶が供養したところ、鳴き声が止んだことから、その界隈を「猫町」と呼ぶようになった。

    • 長州五傑・長州ファイブ

      長州五傑・長州ファイブ

      1863年、清国を経由して欧州に派遣された井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)。 主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学。 駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワー、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らが協力。

    • 海外では

      海外では

      イギリス留学中、ジャーディン・マセソン創業者ジェームス・マセソンの甥のヒュー・マセソン(ジャーディン・マセソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。 ロンドン大学において長州ファイブとして顕彰碑が建立。

    • 碑文には

      碑文には

      井上馨は外交、遠藤は造幣、山尾は工学、伊藤は内閣、井上勝は鉄道という、それぞれの「父」とされている。 2006年、この5名の渡航前後の様子を描いた映画「長州ファイブ」が萩市・下関市など地元企業や市民らが中心となって製作。 山尾庸三によると、1863年に秘密留学のため秘かに乗り込んでいた英国船が横浜港から無事出港。 それは長州藩が「攘夷決行」の叡慮および幕命にしたがって馬関攘夷戦争の開始後であった。

  • 長州藩(萩藩)に所属する萩城を中心に形成された城下町。 1600年、毛利輝元は関ヶ原の戦いに敗れ、周防国・長門国2か国に減封。 1603年、藩府の候補地に防府の桑山、山口の鴻ノ峰、萩の指月山を選定。 福原広俊を江戸に上らせ、老中本多正信と折衝させ、指月が選定。 1604年、萩城の建設とともに、長州藩の拠点となった。 侍屋敷は平安古・江向・土原で増加し、古萩は町人地に変化。 1682年、平安古町の山県勘左衛門宅から出火、堀内へ延焼、蔵元役所や寺社・侍屋敷・町屋を焼失。 藩主・毛利吉就は、住吉神社の祭礼の簡素化、道路の修繕など復興に着手。

    • 文武奨励に取り組んだ

      文武奨励に取り組んだ

      1685年、時鐘を家来中負担で設置。 1710年、侍屋敷地であった地域が町人に売却されて萩の町は形成された。 1843年、13代藩主の毛利敬親は藩校明倫館の改革に着手、文武奨励に取り組んだ。

    • 松下村塾など

      松下村塾など

      医学教育や種痘の普及、博習堂の設置等洋学の推進、恵美須ヶ鼻造船所での丙辰丸の建造や兵制改革等強兵策も断行。 公武合体論や尊王攘夷を拠り所にして京都で政局を主導、藩士吉田松陰の私塾松下村塾は多くの人材を輩出。 1863年、敬親は藩士に対し、采地帰住令を発し、日帰りの湯治と称して、山口後河原の屋敷に移って永住、藩庁を山口に移した。 明治維新後、上級武家地は旧士族授産のための夏みかん畑に転用。

    • 世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

      世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」

      「九州・山口の近代化産業遺産群―非西洋世界における近代化の先駆け」の構成資産として、萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、松下村塾、重要伝統的建造物群保存地区に指定された萩城下町が登録。 世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録。

  • 江戸時代、長州藩に属した尊王攘夷派の中心人物。 幼名は秀三郎。 本名は通武。 通称は玄瑞、実甫、誠、義助。 1840年、萩藩医・久坂良迪、富子の三男として生まれた。 幼少期、高杉晋作も通う私塾の吉松塾で四書の素読を受けた。 藩の医学所・好生館に入学後、藩校・明倫館に入学。 母、兄、父を相次いで亡くしたため、藩医久坂家の当主となった。 医者として頭を剃り、名を玄瑞と改称。 藩の医学所「好生館」の居寮生となった。 1856年、中村道太郎の助言により、九州各地の著名な文人を訪ねるなど遊学。 熊本に住む松陰の親友・宮部鼎蔵の助言により、吉田松陰に手紙を送った。 暫く文通が続き、松下村塾に入塾。

    • 松下村塾

      松下村塾

      松陰は久坂を「防長第一流の人物」と評価、高杉晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。 松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」と称された。 また、吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)と結婚。 江戸と京都に遊学、安政の大獄によって松陰が刑死。 玄瑞は、長州藩尊攘運動で、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋らと共に一灯銭申合を創設。

    • 久坂玄瑞進撃像

      久坂玄瑞進撃像

      長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、同志と共に上京し、長井の弾劾を訴え、藩論の転換に尽力。 高杉晋作らと攘夷血盟を行い、御楯組を結成、品川御殿山の英国公使館焼き討ちを実行。 京都翠紅館にて各藩士と会合、京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策。 山口県下関市にて光明寺党を結成、首領に中山忠光を迎えて外国艦船砲撃を実行。

    • 久坂玄瑞進撃像

      久坂玄瑞進撃像

      入京し、尊攘激派と大和行幸の計画などを画策。 八月十八日の政変によって長州勢が朝廷より一掃後も、京都詰の政務座役として在京し、長州藩の失地回復を図った。 1864年、池田屋事件の報が国許に伝わると藩内で京都進発の論議が活発化。 来島又兵衛や真木和泉らが諸隊を率いて東上。 真木和泉らと共に堺町御門で戦ったが自刃。 久坂玄瑞の思想と行動力は、坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛らに大きな影響を与えた。

  • 1254年、山口市円政寺町で創建。 大内氏の祈願所であったが、大内氏の滅亡後、毛利輝元が長州藩を治めていた萩城の築城とともに城下の塩屋町(現在の多越神社の地)へ移転、毛利氏の祈願所となった。 1870年、神仏分離令により法光院と合併、現在地に移転。 伊藤博文はこの寺に住み、親戚の住職の下で勉学に励んだ。 境内の金毘羅社は古くから鎮座し、神仏分離令の発令時に廃社を免れ、神仏習合の寺院となった。 境内には、十二支の彫刻が施された社殿があり、朱色の大きな「天狗の面」がある。 高杉晋作や桂小五郎、伊藤博文らは幼少期、それぞれの家人に連れられてこの天狗の面を見、物恐れしないようにと躾けられたとか。

    • 石灯籠

      石灯籠

      1815年、母の産後、病気快癒を祈願した兄弟2人は、金毘羅社を訪れ、百度参りを重ねて風雪に阻まれて亡くなった。 1858年、萩の町人らに寄進され、山口県下最大の高さ約5.07mの石灯籠。 龍は透かし彫りで立体的に彫り込まれた。

  • 名は邦彦、号は月橋、字は周弼。 1803年、周防国大島郡和田村の村医青木玄棟の長男として生まれた。 三田尻の名医能美友庵・洞庵父子に学び、江戸に出て蘭方医坪井信道などに学んだ。 18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事。 同門には後に塾の適塾を設立する緒方洪庵がいた。 弟の青木研蔵とともに長崎に行き、シーボルトに師事。 長州藩医、周防医学所の教授蘭学掛となった。 医学校の好生館設立に尽力、御側医に昇進。 1848、13代藩主・毛利敬親の信任を得て侍医となる。 研藏とともに種痘法に注目、コレラ治療に貢献。 村田清風らとの交流も深い。

  • 別名、桂 小五郎。 長州藩士、政治家として活躍。 1833年、山口県萩市で藩医・和田昌景の長男として生まれた。 他方で悪童としても知られ、萩城下の松本川を往来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶという悪戯に熱中していた。 ある時、水面から顔を出して船縁に手をかけたところ、業を煮やしていた船頭に櫂で頭を叩かれてしまう。 岸に上がり額から血を流しながらも笑顔であったとか。 藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となった。 長州藩の剣術師範家の一つ、内藤作兵衛(柳生新陰流)の道場に入門。

    • 藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物

      藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物

      元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、剣術修行に励み、神道無念流の剣客・斎藤新太郎の江戸へ向かった。 三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、新太郎の指南を受ける。 練兵館塾頭を務める傍ら、ペリーの再度の来航に刺激され、ペリー艦隊を見聞する。 藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の中心人物。

    • 維新の三傑の一人

      維新の三傑の一人

      留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者を歴任。 長州藩士として討幕に努め、薩長同盟を推進。 明治維新に貢献、西郷隆盛、大久保利通に並ぶ維新の三傑の一人。 維新政府では総裁局顧問専任、参議を務め、文明開化を推進する一方で五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県を実現、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。 岩倉使節団は米国やヨーロッパ諸国への派遣にも同行。

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  • 萩城の城下町の一角で佇む昔ながらの町家をリフォームしてリニューアルオープンさせた雑貨カフェ。 店内では、大漁旗を扱う萩市内の染物屋「岩川旗店」の雑貨、「大屋窯」の白磁などのご当地雑貨などの小物、コンフィチュール、クッキー、マーマレードの萩マルマレットが並ぶ。

    • 萩カレーセット

      萩カレーセット

      店内にはカフェがあり、軽食が楽しめる他、萩カレーセットを楽しむことができる。

    • こだわり

      こだわり

      セットでは、レンコンの入ったカレーと夏みかんジュースが登場するなど地産地消にこだわりも。

  • 藩の御用達を勤めた豪商・菊屋家の住宅。 江戸時代、建設。 幕府巡見使の宿として本陣となった。 菊屋家は大内氏時代、武士であったが毛利輝元公萩城築城の際に萩に入り、町づくりに尽力。 主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場などが国指定重要文化財に指定。

  • 萩市内の歴史や文化、産業、自然などに関する様々な資料を展示、保管している総合博物館。 前身は萩市郷土博物館。 萩市は長州藩の城下町であったため、多くの歴史資料・建造物が現存。 キャッチコピーは「江戸時代の地図がそのまま使えるまち」。 1946年、科学館として創設。 2004年、萩博物館となって開館。 外観は、萩市特有の武家屋敷風。 旧大野毛利家屋敷(萩城三の丸の物見櫓)は、萩城三の丸の隅矢倉(物見櫓)を復元。

    • 田中義一

      田中義一

      陸軍軍人、政治家(陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣、拓務大臣)として活躍した田中義一の像が建立。 1864年、山口県萩市生まれ。 父は藩主の御六尺(駕籠かき)を務める軽輩者の下級武士であったとか。 萩の乱に参加。 日清戦争に従軍、その後、ロシアに留学して、連隊に入隊し、内部からロシア軍を調査した。 日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。

  • 江戸時代に長州藩士として活躍した高杉晋作の誕生地。 本名は春風。 通称は晋作、東一、和助。 字は暢夫。 号は楠樹、東行、東行狂生、西海一狂生、東洋一狂生とも。 変名は谷 潜蔵、谷 梅之助、備後屋助一郎、三谷和助、祝部太郎、宍戸刑馬、西浦松助、谷 潜蔵。 現在、一部が一般公開され、産湯に使用された井戸や自作の句碑などが建立。 1839年、萩藩大組士で高杉小忠太の長男として生まれた。

    • 高杉晋作

      高杉晋作

      藩校明倫館や吉田松陰が主宰した松下村塾にて学業に励み、久坂玄瑞と並ぶ「松門の双璧」、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに松下村塾四天王と称された。 四国連合艦隊の下関砲撃事件では講和にあたった。 九州に亡命後、挙兵して藩政を握り、藩論を討幕に統一、第二次長州征伐では全藩を指揮するなどして活躍。 外国に支配されていた清国(上海)を訪れた際に危機感を抱き、帰国後、日本初の軍事組織である奇兵隊を結成。

  • 2010年、晋作広場に建立。 高杉晋作は20歳の頃、明倫館や松下村塾に通っていたといい、その当時の姿を再現。 像は、高さは約1.8m、台座を含めると約3m。 両刀を差した羽織、袴の立ち姿。 また、広場には晋作が好きであったという梅の木も植樹。

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  • 1718年、5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育を目的として萩城三の丸(堀内)に建設された長州藩の藩校。 水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並ぶ日本三大学府の一つ。 1849年、毛利敬親の藩政改革に伴い、現在地に移転。 聖廟の宣聖殿を中心に小学舎、手習所など学問習得のための建物が配置。 漢学中心の初等・高等の教育を行う。 その他、槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、水練池、練兵場が設置。 吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)らが教壇に上がっていた。 1863年、藩庁の山口移転により1815年に上田鳳陽が開設していた私塾山口講堂(山口講習堂)を山口明倫館と改称、藩校に改め萩・山口の両明倫館が並立。

    • 明倫館

      明倫館

      1867年、廃館。 敷地内には、1935年に建設された旧明倫小学校本館がある。 小学校の木造校舎は2014年まで使用され、萩市の観光拠点施設「萩・明倫学舎」となっている。 亀山校地・キャンパスは、その後、受け継がれた。

    • 明倫館

      明倫館

      1973年、経済学部が山口大学本部のある吉田(平川)キャンパスへ移転・統合された後は、パークロード建設のため藩校以来の堀も埋められたが、その後一部は復元され、跡地には山口県立美術館、鳳陽館、「鳳陽寮歌石碑」が建立されている。 大村益次郎は、幕長戦争を前に明倫館兵学寮教授として、山田顕義等普門寺塾(別名三兵塾)生に対し、士官養成のための近代兵学教練を行った。

  • 別名、指月城。 1600年、毛利輝元は関ヶ原の戦いにおいて西軍の総大将に就任後、敗戦により周防国・長門国の2ヶ国に減封。 1603年、輝元は幼少の秀就に代わって後見役となり、萩・山口・三田尻(防府市)の3ヵ所を城地の候補とし、幕府に裁可を求めた。 1604年、毛利輝元は指月山の山麓に広島城に代わる新たな居城として築城。 本丸の御殿は長州藩(萩藩)の拠点となり、藩主居館と政庁を兼務。 1605年、萩城二の丸東門の普請に必要な五郎太石(石垣の裏や隙間を埋める小石や砂利)が盗難に遭い、毛利家重臣の熊谷元直らが処罰された五郎太石事件が発生。

    • 萩城

      萩城

      1608年、落成。 1613年、幕閣と協議し、幕府は長州藩の表高として公認。 1863年、藩主・毛利敬親は藩庁を山口城(山口市)に移転。 1874年、廃城令により破却。 現在、指月公園として整備、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(国の重要文化財)が現存。 指月山は、阿武川下流の松本川と橋本川に囲まれた三角州の北西端に位置、標高は143m。 岩相は花崗岩で、萩城の石垣にも使用。

    • 萩城址

      萩城址

      1971年、シイノキ・タブノキ・クロガネモチ・カゴノキ・イスノキ・クスノキが混生する暖地性原生林として国の天然記念物に指定。 中国地方では少ないサザンカ・オガタマノキ・カカツガユ・ミカドアゲハが自生。 戦国時代、津和野城主・吉見氏が出城を構え、吉見正頼の隠棲所となった。 日本100名城(75番)に選定。 ユネスコの世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録。

    • 毛利輝元像

      毛利輝元像

      1553年、広島県生まれ。 幼名は幸鶴丸。 1565年、父・隆元、祖父・毛利元就が実権を握っていたが、13代将軍・足利義輝より「輝」の偏諱を受けて元服、輝元と名乗って当主となった。 月山富田城の戦いで初陣を飾る。 15代将軍・足利義昭からの推挙を得て、朝廷から右馬頭に叙任され、室町幕府の相伴衆ともなった。 敵対勢力の尼子勝久や大友宗麟、大内輝弘らに勝利、九州や中国地方に勢力を拡大。

    • 毛利輝元像

      毛利輝元像

      1576年、織田信長に追われた将軍・足利義昭が紀伊国の畠山領を経て毛利家領内の備後国に動座のため、保護。信長とは友好関係にあったが、石山本願寺の挙兵(野田城・福島城の戦い)後、本願寺に味方して兵糧・弾薬の援助を行い、織田氏と対立。 羽柴秀吉による三木城での三木合戦、鳥取城が宮部継潤らによる兵糧攻め、備中高松城(備中高松城の戦い)、別所長治、吉川経家が自害。

    • 毛利輝元像

      毛利輝元像

      輝元は、元春・隆景らと軍勢を率いて秀吉と対峙、京都の本能寺の変が発生、毛利氏と和睦。 城主清水宗治らは切腹、織豊政権との和平路線へと転換。 羽柴秀吉と柴田勝家が対立したが中立を保った。 交通の要衝である太田川の三角州(五箇村)に、秀吉の聚楽第を模した広島城に入城。 秀吉の朝鮮出兵にも主力軍として兵を派遣、豊臣政権五大老の一人に任命。

    • 毛利輝元像

      毛利輝元像

      1600年、徳川家康と石田三成による対立が勃発、西軍の総大将となったが敗北。 輝元は幻庵宗瑞と称し、毛利秀就が初代の長州藩主となった。 1604年、長門国に萩城の築城を開始し、居城とした。 大坂の陣において、内藤元盛を「佐野道可」と称させて大坂城に送り込むが、和議が豊臣・徳川の間で結ばれた。 夏の陣では秀元隊が本隊より先駆けて豊臣軍相手に戦ったが、内藤元盛は自害。

  • 古萩から現代萩焼までの作品を展示している資料館。 萩藩御用窯時代の萩焼など、江戸時代の松本窯や三ノ瀬窯の作品が展示されている。 萩焼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵により萩藩主の毛利輝元が朝鮮の陶工であった李勺光、李敬の兄弟を連れ帰り、李敬を始祖として始まった。 江戸時代、萩藩の御用窯となった。 現在、坂窯、三輪窯のものが多く、初代から三代までのものを古萩と称した。

  • 毛利家一門の一つである厚狭毛利家の武家屋敷。 厚狭毛利家は、毛利元就の5男元秋を祖とし、8男元康が継承。 関ヶ原の戦い後、毛利氏は萩に移封され、厚狭(山口県山陽小野田市)が与えられた。 萩屋敷は広大な敷地を誇っていたが、主屋などは明治維新後に解体され、1856年に建てられた長屋のみが現存する。 梁間5m、桁行51.5mの入母屋造り本瓦葺きの建物。

  • 「ちょんまげビール」の醸造販売。 1996年、設立。 「丁髷」とは江戸時代に流行した男性の髪型の一つ。 萩市は吉田松陰や高杉晋作など明治維新のころに活躍した人物の出身地であることから、そのイメージをオリジナルビールに重ねて「チョンマゲ」と名付けましたとか。 ビールは「キレ」「飲みやすさ」を追求した下面発酵タイプのビールが製造されてきたが、チョンマゲビールは、主に「香」「コク」を求めた上面発酵タイプを醸造。

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  • 祭神は、江戸時代に活躍した吉田松陰と門人である伊藤博文、山県有朋、高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一ら松下村塾の出身者。 1890年、吉田松陰の実家・杉家の邸内には杉民治が土蔵造りの小祠を建立。 松陰の遺言により、愛用していた赤間硯と松陰の書簡を神体として祀って創建。 1907年、伊藤博文と野村靖が中心となり神社創建を請願、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築。 土蔵造りの旧社殿は松下村塾での門人を祭る末社・松門神社となっている。

    • 境内では

      境内では

      旧宅・吉田松陰歴史館、宝物殿「至誠館」などがある。 2017年、1868年から150年の節目に際し「自立学習の祖」と記した「吉田松陰先生」顕彰碑が建立。 その他、東京都世田谷区にも同様の神社が建立。

  • 江戸時代、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾。 建物は木造瓦葺き平屋建ての小舎。 当初から存在した8畳と10畳半の部分から構成。 1842年、吉田松陰の叔父・玉木文之進が私塾「松下村塾」を開設し、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れた。 吉田松陰も入門、文之進の指導は厳格であったといい、蚊を払うと殴られた。 松陰の外叔、久保五郎左衛門が継承し、塾生の教育にあたった。 1857年、藩校明倫館の塾頭を務めていた吉田松陰が同塾を継承した。 1858年、松陰が野山獄に再投獄され、塾生の多くが地元を離れた。 再度、玉木文之進が塾頭となり、場所を自宅に移した。

    • 萩の乱

      萩の乱

      1876年、明治政府に対する士族反乱において、熊本県で勃発した神風連の乱と、福岡県で勃発した秋月の乱に呼応する形で「萩の乱」が勃発。 山口県士族の前原一誠、奥平謙輔らによって起こされた反乱で、後の内閣総理大臣・田中義一も参加。 萩の乱の勃発により、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎等、高杉晋作など多くの門下生が参加して刑死、創設者の玉木文之進も責任を取った。

    • 出身者には

      出身者には

      高杉晋作、久坂玄瑞は「識の高杉、才の久坂」「松下村塾の双璧」と呼ばれた。 吉田稔麿、入江九一も加わり、「松下村塾の四天王」とも。 幕末、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵らは明治新政府で活躍。 1880年、松陰の兄・杉民治が塾を再開、1892年に閉塾。 ユネスコの世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」に登録。

  • 煙突部の遺構が現存する反射炉跡。 世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つで、日本で現存する近世の反射炉は、萩反射炉と韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)のみ。 長州藩(萩藩)は、アヘン戦争や黒船来航によって海防強化が必要と判断し、西洋式鉄製大砲の鋳造を目的とする金属溶解炉として反射炉の導入を計画。 1855年、佐賀藩は反射炉の操業を開始し、藩士山田宇右衛門らを派遣。 山田らは鉄製大砲の鋳造法習得を目指したが、製砲掛の不在などを理由に拒否。 煙突部の遺構が現存する反射炉跡。

    • 反射炉跡

      反射炉跡

      小沢忠右衛門が佐賀藩に派遣、長州藩で発明された砲架「砲架旋風台」の模型を持参して交渉。 反射炉を見学、そのスケッチを作成して持ち帰ることに成功。 村岡伊右衛門が御用掛に任命。 1856年、鉄製大砲の鋳造を開始、反射炉「雛形(=試験炉)」が操業。 遺構は反射炉の煙突部で、高さは約10.5mで上部の一部は煉瓦積み、その他、安山岩と赤土。 上部は二股に分かれているが、実際はそれぞれ独立した2本の煙突。

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