
《世界一の画工》葛飾北斎の90年の生涯を街歩き
東京《世界一の画工》葛飾北斎の90年の生涯を街歩き
LIFEが選んだ過去1000年間の重要な100人に日本人として唯一選出された葛飾北斎は我々日本人が思っているより遥かに世界的に偉大なわけです。 モネをはじめ多くの欧州の画家が浮世絵を集めてだともいいますし影響も受けたとのこと。実際に似ている構図の絵もたくさんあり2017年末から2018年初にはその企画展が国立西洋美術館で開催されたりもしています。 代表作のGREAT WAVEを始めゆっくり鑑賞しましょう。
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葛飾北斎生誕の地のすぐ隣にSANAAの妹島和世さんの設計で建てられた美術館です。そんなに大きな建物ではないですが存在感は抜群。
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神奈川沖浪裏
いわゆるGREAT WAVE葛飾北斎の代表作で富嶽三十六景の一つです。実はこれが最初の波ではなく波の絵を最初に描いたのは33歳。これを描いたのは72歳の頃と言われてますので、この名作にいたるまで40年もかけています。 生涯「世界一の画工」を目指していたと言われる北斎。実は波はこれで終わりでなく、86歳の時に長野の小布施町の祭りの屋台の屋根裏に男浪と女浪の対の波を描いています。
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赤富士
富嶽三十六景の作品でこちらも代表作の一つ。 夏の朝日が昇るときに富士が赤くなる一瞬を捉えたと言われています。
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錦絵
錦絵を印刷すり工程が展示されているのですが、色を一色ずつ版画で色付けしていくので版画の元をこうやって掘ったのかと驚きます。これがあれば今でも刷れる?
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晩年
晩年は体の衰えから寝ながら、這い蹲りながら描いていたとも。そんな人形がかなりリアルに展示されています。 ちなみに88歳で亡くなる間際まで描き続けたとも。 よく見てると動くので注意!
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ミュージアムショップ
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実は北斎美術館の隣の公園に生誕の地の表示があります。が、しかし「本所割下水付近」というのが本当で、堀割りがあった通りのあたり、堀=割下水を埋め立てた北斎通りの付近ということだそうです。この土地はもともと弘前藩津軽家の上屋敷があったところだそう。ちなみに北斎は津軽家の屏風に馬の絵を描いているそうです。
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遊具
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北斎通りを江戸東京博物館の逆に向かって歩くと見つけられます。和カフェ。
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入口
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大福やどら焼き
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メニュー
あんみつやぜんざいなどもあります。
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公園に面して北斎通り沿いにあるあられ屋さん。北斎商店を名乗りかつ名物として北斎揚げも売っています。 店の壁にもGREAT WAVE!著作権の保護期間が切れているって良いですね。
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北斎揚げ
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この通りが北斎通り。江戸の堀割りがあり、通りの中央が堀だったことから割下水という地名になっています。この通りの付近が北斎の生誕の場と言われています。江戸東京博物館が通りの先に見えます。
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正確にはわからないのですが、自ら「北斎生誕の地に建つ会社として」と名乗っている会社です。北斎通りが堀割りがあった通りなのでこの何処かが生誕の地でしょということなのかもしれません。 なんとこの本社社屋を新しく立て直したとき、北斎美術館の建築家もつとめた妹島和世さんに依頼して建てています。妹島建築フリークは注目。
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壁が透けて
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北斎文房具
この会社の製品です。
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北斎は自らの曽祖父を吉良上野介を守って討死した小林平八郎だと言っており、また自身はその後ここに居を構えた中島伊勢の養子になったとも。いずれにしても縁のある地です。
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吉良上野介
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松坂稲荷大明神
吉良上野介が祀られている稲荷
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1830-44年の間、北斎は末の娘のお栄とここにあった榛馬場(はんのきばんば)で暮らしていたそうです。1760-1849年が生涯なので70歳から85歳にあたります。とはいえ北斎は生涯でかなりの数(93回)引越しを繰り返していますのでずっとこことは限りません。
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北斎が生涯に何度か120畳の畳の上を筆を取るパフォーマンスを行ったのがこの回向院です。大相撲の起源とも言われる場所でもあります。
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辰野金吾の国技館
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解説
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力塚
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解説
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明暦の大火
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鼠小僧の墓
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石削り
削って財布に入れると良いそうです。
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1845年86歳の時にこの辺りに住んでいた北斎が「須佐之男命厄神退治の図」という大板絵を奉納した神社。絵自体は関東大震災で消失しているそうで、残念。
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須佐之男命厄神退治の図
TOPPANがデジタル復元させたのがこちら。北斎86歳の時の肉筆画です。こちらに奉納されていたもの。 86歳の時にこの迫力!世界一の画工を目指していたのがわかりますね。
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1799年北斎39歳のときのこちらの開帳には、北斎が絵を描いた提灯12張と大きな絵額を奉納したそうで、参拝客がとても増えたとか。残念ながら現像せずです。
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北斎が日参したという日蓮宗の寺。妙見菩薩を信仰していたようで、こちらの柳鳩妙見を参拝していたそうです。北斎辰政という画号も北斗七星の化身の妙見菩薩が由来とのこと。
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北斎の晩年江戸では天保の改革の影響で絵を描けなくなったとも言われており、1842年83歳のときから老体ながら長野の小布施町の豪商高井鴻山の誘いに従い、小布施町に用意されたアトリエ碧漪軒(へきいけん)に移動して作品制作を行っています。 北斎最後の波でもある「男浪」「女浪」という対の作品が長野県小布施町の祭りの屋台(上町祭り屋台)の屋根裏に描かれています。 生涯「世界一の画工」を目指し、「百十歳にして一点一画生けるがごとくなるだろう」と語っていた北斎は83歳で長野に行ってまでして絵を描き、名作GREAT WAVEを超える二つの波を86歳で描いているわけです。必見ですね。
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北斎館
小布施町の北斎ミュージアムです。
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男浪
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女浪
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東町祭り屋台
85歳で描いたのがこちらの東町祭り屋台の龍図と鳳凰図です。二つの男浪、女浪を描いた上町祭り屋台と並んで展示されています。 この後86歳で上町祭り屋台に二つの男浪、女浪を描きます。
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小布施町にあり寺院で本堂大広間の天井に北斎が鳳凰図を仕上げています。世界一の画工の生涯最後の大作がこちらにあるとも言えます。
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鳳凰図
なんと88歳で本堂大広間の天井に鳳凰図を肉筆で描いています。85歳で描いた東町祭り屋台の鳳凰図をバージョンアップしたわけです。88歳ですよ。死の近づくこの時期にまさに「百十歳にして一点一画生けるがごとくなるだろう」を地で行っていますね。 さすが世界一の画工、この1000年で世界が選ぶ世界に影響を与えた偉人100人です。
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浅草寺の子院であるこちらの境内の仮宅で亡くなられたそうです。 最後の様子は、 翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く 天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す と弟子により記されています。 「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」という内容ですが、まさに世界一の画工への半端ない執着が感じられます。
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北斎の墓がある寺。小布施町から墨田に戻って1年で亡くなっています。 最後の様子は、 翁 死に臨み大息し 天我をして十年の命を長らわしめば といい 暫くして更に言いて曰く 天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得(う)べし と言吃りて死す と弟子により記されています。 「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」という内容ですが、まさに世界一の画工への半端ない執着が感じられます。
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北斎の墓
お墓は墨田区ではなく台東区にあります。 「画狂老人卍墓」という最後の頃のペンネームが彫られています。
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辞世の句
人魂で 行く気散(きさん)じや 夏野原 人魂になって夏の原っぱにでも気晴らしに出かけようかという軽快な内容。写真の銅像もそのようなものを表したもののようにも感じられます。
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近くにあり勝海舟生誕の地。歴史好きならついでに行くべきか。
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