坂越で江戸時代の趣を感じながら
兵庫坂越で江戸時代の趣を感じながら
まいどまいど! 昔の雰囲気が今に残るまち坂越。 場所は兵庫県赤穂市にあり、昔から海の町として栄えてきた。 坂越の町には、建築は江戸時代と伝わる趣のある雰囲気の木造建築が軒を連ねているため、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような体験ができまんねん。 また古くから酒造郷として知られ、中心部には酒蔵。 今では、博物館としても整備されているため、見学することもできまんねん。 付近の坂越まちなみ館では、坂越の歴史や文化が展示され、坂越のことを詳しく知ることができるだけでなく、博物館の建物はもともと、銀行として使用されたため、全国的にも珍しい金庫の扉も見ることができまんねん。 その他、瀬戸内海に浮かぶ生島は神秘的な島の一つとして知られ、普段は人が立ち入ることができまへん。 生島には、大避神社のお旅所があり、一年にいっぺんだけ、本州の大避神社から、神様をお神輿に乗せて往復するため、立ち入りが許されているとか。 そんなおもしろいまち坂越は兵庫県赤穂市。 今度の休日、連休にはぜひ!
かつて、坂越沖を航行する船舶に海洋気象を知らせたという「とうろん台」。 もともと灯籠台だったことから「とうろん台」と呼ばれるようになったとか。 当時、神戸海洋気象台から坂越郵便局に入電する気象情報に基づいて、「玉」と呼んだ布製の吹き抜きを柱に掲揚。 天候や風向きを知らせ、夜間はランプを吊したとか。
小倉御前
室町時代、宮家「小倉宮」が存在した。 南朝の系統に属し、始祖は後亀山天皇の子。 室町時代の皇位継承や室町幕府の政権闘争に翻弄され、また自らも政権奪取を試みたが、翻弄された末に断絶した。
江戸時代、建築。 赤穂藩主の茶屋、坂越村の会所として使用されていた。 2階の藩主専用の部屋は「観海楼」。 現在は博物館となっている。
1601年、創業。 豪商「奥藤家」の酒蔵。 現在、酒造と廻船の博物館・郷土資料館となっている。 江戸時代の酒造道具や廻船に関する道具・資料が展示されている。 地酒「忠臣蔵」の利き酒もできる。
大正時代、奥藤銀行坂越支店として建設された木造の建屋。 館内1階では坂越の名所・旧跡、特産品に関する資料が展示されている。 また、古いアメリカ製の大金庫が置かれている。 2階は竹野地仕上げの屋根裏を展示保存している。 都市景観大賞に選定され、景観形成地区に指定された坂越地区のメインストリート「大道」のほぼ中央に位置する。
500年代、秦氏は朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団。 秦河勝は秦氏の族長的人物として聖徳太子の元で活躍した。 広隆寺を建立、聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)を安置した。 広隆寺付近に大酒神社が鎮座、神仏分離政策に伴って遷座したとか。 河勝は、蘇我入鹿の迫害を避けて坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた。 地元の民によって、神社が建立。 当社には、河勝が弓月国から持ち帰ったという、天使ケルビム(智天使)の像とされる胡王面があり、現存する日本最古の雅楽の面として伝えられる。
船岡園
桜の名所としても知られる。 また、坂越浦城址跡、御番所跡としても知られている。 山名持豊によって築城。 龍野城主の赤松下野守村秀の通城となり、江戸時代には赤穂藩の御番所が置かれていた。 坂越小学校があった。 ここからは瀬戸内海を望み、絶景。
山崎善吾
海岸整備や工場誘致をすすめた旧坂越村長。
神社正面の海上に浮かぶ生島は、国の天然記念物に指定。 秦河勝の墓があり神域となっているため、普段の人の立ち入りは禁じられている。 瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られる。
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海洋深層水を加工した飲料水や食品などを製造・販売する企業。 江戸時代、赤穂は製塩の本場として知られ、天然塩を製造する赤穂東浜塩業組合が存在。 1947年、赤穂東浜塩業組合が天然塩と海水に含まれる成分を応用した食品、医薬品、肥料などを開発する「化成品部門」を設立。 1971年、塩を効率的に生産できる「イオン交換樹脂脂製塩法」を開発し、塩田を利用した製造が廃止、同組合が解散。 その化成部門が独立・法人化され、同社が発足。 1973年、「赤穂の天塩」を発売。 1995年、海洋深層水の研究・開発に着手。 1999年、「天海の水」などの海洋深層水の商品化を実現。
「海の深層水天海の水」「赤穂の天塩」
2003年、深層水事業所が日本の深層水飲料メーカーとして初のHACCP認証を取得。 2009年、「世界料理サミット」で「海の深層水天海の水」「赤穂の天塩」が大会公認食品として認定。
兵庫県の赤穂市高野と相生市佐方との間にある峠で、「八重山」。 飛鳥時代、鷹が多く、赤穂郡一帯を治めていた秦河勝や後世の領主が鷹狩りをしたことから「鷹取峠」「高取峠」と呼ばれるようになった。 江戸時代、赤穂藩主の浅野氏によって官道として整備され、参勤交代で利用された。 峠には「早駕籠の像」が設置されている。 江戸時代、早水満尭と萱野重実が早駕籠で事件(忠臣蔵、赤穂事件)の第一報を赤穂城へ伝えた歴史をもとに再現。 第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰を伝え、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告。 吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局、生死が赤穂側に伝わったのは後になってから。