
★東の浅草、西の新開地
兵庫★東の浅草、西の新開地
まいどまいど! 現在の兵庫県を代表する繁華街といえば、神戸の三宮。 ここには、JR神戸線の三ノ宮駅をはじめ、阪急線、阪神線、地下鉄線、そして、ポートライナーなどがひしめく一大ターミナル。 そんな三宮の駅前には商店街をはじめ、ぎょうさんの商業施設、横浜や長崎と並ぶ中華街の南京町の他、モダンで昔ながらの異文化な雰囲気が漂う北野など、見どころが満載でんねん。 そんな繁華街の三宮から少し離れた場所に位置する新開地という場所。 ここにはかつて市役所があり、神戸の中心地としてにぎわってはったんやとか。 また、新開地には昔、ぎょうさんの劇場があり、「東の浅草、西の新開地」とも謳われていたんやとか。 市役所の移転後は商店街の衰退に伴い、松竹座などが閉鎖され、観光客が激減してしもたようですが、最近、再び注目を集めるようになりまして、大阪の上方落語寄席の繁盛亭に並ぶ喜楽館が開業し、新たな賑わいの場所として観光客が集まるようになりました。 また、平清盛ゆかりの地としても知られ、新開地周辺には平清盛ゆかりの名所がぎょうさんおまっせ。 今回はそんな新開地を含む神戸市兵庫区を散策していきまひょ!
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1901年、河川「湊川」の付け替え工事に伴い、湊川の流路を整備してできたのが始まり。 戦前、商店街には演芸場や映画館、飲食店を中心とした店舗が連なり、神戸最大の繁華街・オフィス街としての賑わいを見せ、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれていた。 隣接していた遊郭の一つ、福原は平安時代、平清盛によって福原京が造営され、日本の首都となった。 明治時代、明治政府によって遊郭の設置が認められ、遊郭が設置された。 遊郭の廃止後、風俗店などが密集する風俗街となった。 1957年、市役所が三宮に移転して商店街は衰退。 1968年、地下鉄の神戸高速鉄道の新開地駅が開業。 神戸電気鉄道(神戸電鉄)の始発駅となった。
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神戸一の繁華街から現在
「ええとこ」と謳われた聚楽館をはじめ、映画館や神戸松竹劇場、演芸場の神戸松竹座などが次々と閉鎖され、パチンコ店が増加した。 従来の「神戸一の繁華街」から「行くのがはばかられる場所」へと変貌し、客足が低迷した。 1995年、阪神・淡路大震災が発生し、甚大な被害を受けた。 この頃から、アーケードが撤去され、復興に伴って、新規建設が増加し、再び注目を集めるようになった。
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聚楽横丁
神戸を代表する繁華街の一つに数えられる新開地商店街の路地。 路地の通りには1から6までを数え、飲食店や居酒屋などが軒を連ねている。
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神戸松竹座跡
1929年、洋画興行を行う劇場として開館。 地上3階、地下1階建。 松竹座は大阪道頓堀の他、京都、神戸、名古屋、東京にも開設。 松竹楽劇部のアトラクション、松竹楽劇部によるレビューが興行。 1959年、演芸場に転換。 漫才、落語、諸芸などを興行。 道頓堀角座と同様、軽演劇「松竹とんぼり座」の公演も行っていた。 1976年、閉館。 キャッチフレーズは、「神戸名物」「演芸の松竹座」「お笑いの松竹座」。
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兵庫県神戸市にある大衆演芸場の一つ。 1946年、実演劇場として開館した。 芝居や歌謡ショーなどが上映されている。
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祭神は、応神天皇。 神功皇后が三韓征伐の途中、摂津国岡野村に立ち寄った。 霊石を求めて応神天皇のご誕生の延期を祈ると通じた。 後に、その霊石を迎えて神社を建立。
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かつて、当地は、西国街道「兵庫津」における東の出入り口であった。 湊口惣門があり、番所が置かれた。 また、人通りが多く、迷子も多かったとか。 辻に「迷子のしるべ石」と名づけられた石標があり、この石標には、迷子を知らせる張り紙が張られていたとか。
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2014年、当時の上方落語協会会長が「神戸あたりにも上方落語の定席を」と発案。 新開地では新開地寄席や兵庫区民寄席などが人気であったことから実現。 2018年、新開地まちづくりNPOをはじめ、上方落語協会、兵庫県、神戸市の4者が、神戸のまちの活性化と伝統芸能の振興を目的に開館。 喜楽館の由来は、大阪市北区の天満天神繁昌亭は「和」のイメージを、新開地では気軽に楽しめて神戸らしい「洋」のイメージを、聚楽館には「館」が使用されていたことから。 現在、上方落語の定席、東西落語、講談、浪曲などの演芸の他、音楽、ダンスなどが楽しめる。
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新鮮な魚介料理、海鮮料理をはじめ、焼きそばやだし巻き、鍋が楽しめるといい、地元客や観光客でにぎわっている。
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お通し
まずは、お通し。
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イワシのフライ
イワシのフライやクジラステーキなどを味わいつつ、今回は半券を使用して、ビール一本のサービスをいただいた。
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クジラステーキ
イワシのフライやクジラステーキなどを味わいつつ、今回は半券を使用して、ビール一本のサービスをいただいた。
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1901年、兵庫県神戸市内を流れていた湊川の付け替え工事に伴い、旧湊川の流路を整備してできたのが始まり。 1911年、都市公園として開園し、公園から南側の旧河川敷は掘削して新開地商店街となっている。 1928年、公園の地下に神戸有馬電気鉄道(神戸電鉄)湊川駅が設置。 1924年、展望塔の神戸タワーが建設。 1968年、展望塔の神戸タワーが解体され、跡地には、神戸タワーを記念した高さ8mのカリヨン時計塔などが建立。
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カリヨン時計塔
1924年、展望塔の神戸タワーが建設。 別名、湊川公園タワー、新開地タワー。 高さ約100m。 当時、東洋最大の高さを持ち、浅草の凌雲閣、大阪の通天閣と並ぶ、日本の三大望楼の一つ。 1968年、展望塔の神戸タワーが解体。 現在、神戸タワーを記念した高さ8mのカリヨン時計塔が建立。
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楠木正成像
1935年に建立された。
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別名、「神戸の台所」と呼ばれている。 神戸新鮮市場(マルシン)、東山商店街、ハートフル湊川、ミナイチ、パークタウン、中の筋商店街、湊川センタープラザ、湊川プラザにより構成。
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1901年、河川トンネルの一つとして竣工。 湊川の流路を変更して洪水を予防するため、会下山を貫通して掘削された。 2000年、新湊川トンネルが竣工・通水した。 現在、近代化遺産として保存されている。
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祭神は、応神天皇。
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福原遷都八百年記念之碑
1180年頃、和田京(神戸市長田区付近)としての遷都は計画のみに終った。 以後、平清盛の主導による福原京の造営が進められた。 また、日本の首都の通称である。 平氏は、大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)を拠点として、人工島の経が島(経ヶ島)を築いて港を見下ろす山麓に都を置くことを計画。 平清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行。 後に福原京の建造物群は源義仲によって全焼した。
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平頼盛山荘址
平清盛の弟にあたる池大納言頼盛の山荘があった。 福原遷都の際、安徳天皇も立ち寄ったころから、「史跡安徳天皇行在所址」および「福原遷都八百年記念之碑」の石碑が建立。
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2022年、コミュニティ型複合施設「ネイチャースタジオ」として開業。 敷地内には小規模水族館「みなとやま水族館」、「ハーブショップ」、「フードホール」、ビール醸造所「ブルワリー」などが開設。 当地は湊山小学校であったが2015年に廃校となり、校舎の理科室や図書室などを小規模水族館に、校庭を駐車場に、体育館をフードコートなどに改装。
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フードホール
2022年、小規模水族館の「みなとやま水族館」の2階に開業。 当地は湊山小学校であったが2015年に廃校となり、体育館がフードホールに改装。
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フードホール
天井が高く、照明もそのまま。 テーブルは理科室で使われていた机が改修されたもの。
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瓦せんべいやカステラなどを製造販売している専門店。 テイクアウトのみ。 大正時代、神戸でバット、グローブ、ボール、帽子をモチーフにした「野球カステラ」が誕生。
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野球カステラ
カステラは小麦粉、卵、砂糖などを含めた生地を、野球道具の型で焼き上げた昔ながらの名物。 全盛期、神戸市内では多くの瓦煎餅屋が販売していたが姿を消しつつあるとか。 1968年創業。
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2022年、小規模水族館の「みなとやま水族館」として開業。 グッズショップの「アクアリウムショップ」では生きものグッズや、飼育員が日常的に使用している文具等の商品を販売。
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小規模水族館
施設内では生きものの展示室の他、グッズショップやアウトドアカフェ、ニジマス釣りが体験できるFISH PONDなどが開設。
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自然と暮らしをつくる
目的は「自然と暮らしをつくる」。
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湊山小学校
当地は湊山小学校であったが2015年に廃校となり、校舎の理科室や図書室などを小規模水族館に改装され、話題を集めている。
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2022年、コミュニティ型複合施設「ネイチャースタジオ」内に開設されたクラフトビール醸造所。 5種類のホップを使ったニュースクールIPAをはじめ、new tune、limonadeなどがある。 当地は湊山小学校であったが2015年に廃校となり、かつての給食室が醸造所となっている。
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平安時代、当地に平清盛の邸宅があった。 1168年、出家した清盛は遁世生活に入り、別荘として雪見御所を構え、日宋貿易拡大の拠点とした。
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有馬街道の入口付近には平野商店街がある。 かつて、神戸市電の始終点であったため、にぎわっていたとか。 平野商店街のスローガンは「やさしいまち平野」。 看板下には、マスコットキャラクター「きよもん」が描かれている。 「きよもん」とは、年齢不詳の男子。 出身地は、神戸市兵庫区平野。 平安時代からタイムスリップして現代にやってきた。 好物は、日本酒と神戸牛。 特技は、サンバであるとか。
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平清盛像
1118年生まれ。 伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男。 以後、平氏棟梁となった。 保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で勝利し、武士では初の太政大臣に就任。 日宋貿易によって財政基盤を開拓、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。 後白河法皇と対立、法皇を幽閉。 徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握った。
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平清盛像
清盛像は商店街の入り口付近と交差点の2か所に設置されている。
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ラーメンや肉まんなどを味わうことができる中華料理専門店。 店内はテーブル席がある。 ランチタイムには定食があり、醬油ラーメンの他、台湾ラーメン、酢豚定食、八宝菜定食などがある。
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祭神は大山咋尊、素盞雄尊。 山の守護神として知られ、滋賀県に鎮座する日吉神社の御祭神と同一。 1384年、第45代聖武天皇神亀年中の勧請。 1837年、平清盛による福原遷都に際し、五條大納言邦綱に雪御所鎮護のため再建、造営。
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祭神は、素戔嗚尊、櫛稲田姫命。 869年、京で鴨川が氾濫、疫病が蔓延した。 行疫神として名高い素戔嗚尊を姫路市に鎮座する広峯神社より北白川瓜生山の東光寺に勧請。 その時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、分霊を崇め奉ったところが祇園神社創建の由来。
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遠くに見える海を眺めながら
平清盛は当地を訪れて、遠くに見える海を眺めながら、大輪田泊の構想を練っていたとか。
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臨済宗の仏教寺院。 開山は盤珪禅師。 本尊は聖観世音菩薩。 1685年、もと僧正眼が営んでいた平野五宮神社の小庵で雲巌和尚によって創建。 盤珪禅師は網干(兵庫県姫路市)生まれ。 龍門寺を建立、「西に盤珪、東に白隠」と言われるほどの大徳で、全国47を数え、没後も150にも及ぶとも。 1716年、廬山妙覚和尚が入山。 13世黙伝和尚によって現在地に移転、山号は徳運山から天門山へ改めた。 1868年、神戸警備のため、長州藩兵数百名が駐在し、神戸を護衛。 1872年、大坂高津の少林寺より匡通和尚が法脈を継ぎ、現在地に伽藍を建て、妙心寺派屈指の道場となった。
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兵庫県神戸市に鎮座する生田神社の周辺に点在する生田裔神八社の1社。 近年は「港神戸守護神 厄除八社」とも呼ばれ、数字の順に巡ることを八宮巡りといい、厄除けになるとも。 祭神は天穂日命。 古来より奥平野の産土神として知られ、生田神社奉斎の時に祭主を命じられた海上五十狭茅の名家があり、1872年に湊川神社の創建で、兵庫県より湊川神社氏子に指定された時も、生田神社との深い関係を嘆願して、旧来通りとも。
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大倉山は小高い山として知られ、名称の由来は明治時代、御用商人として活躍し、一代で財閥を築いた大倉喜八郎氏が周辺の土地を別荘として買収後、神戸市に寄贈したことから。 大倉山はかつて安養寺山と称した。 大倉山の標高はかつて約55mであったが、山頂を公園や野球場に整備したため、現在では約40m。 園内には市内35県人会による「ふるさとの森」、大倉山公園野球場、神戸市立図書館、児童遊園などがある。 大倉喜八郎は1834年生まれ。 日本の武器商人、実業家。 渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。 東京経済大学の前身である大倉商業学校を創設。
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孫文は中華民国の政治家、革命家、思想家、政治運動家、初代中華民国臨時大総統、中国国民党総理。 1866年生まれ。 別名、中国革命の父、国父。 1894年、清仏戦争など政治問題に関心を抱き、ハワイで興中会を組織。 翌年、日清戦争終結後、広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫、日本に亡命。 1897年、宮崎滔天の紹介で政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。 1913年、孫文は袁世凱打倒の第2革命に敗れ、船で神戸に到着。 当時の川崎造船所社長の松方幸次郎らと面会、夜陰に紛れて川崎造船所から上陸し、諏訪山の常盤花壇別荘に身を潜めた。
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兵庫県神戸市に鎮座する生田神社の周辺に点在する生田裔神八社の1社。 近年は「港神戸守護神 厄除八社」とも呼ばれ、数字の順に巡ることを八宮巡りといい、厄除けになるとも。 生田裔神八社の六宮神社と八宮神社とが合祀され、八宮神社となった。 祭神は六宮祭神、天津彦根命、応神天皇、八宮祭神、熊野杼樟日命、素盞嗚尊。 1887年、八宮神社が現在地に移転。 1909年、楠高等小学校(湊翔楠中学校)新設により六宮神社が八宮神社に移転。 本殿北側に六宮神社、南側に八宮神社が鎮座。 境内には白髭大神を祀る白髭稲荷神社も。
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兵庫県神戸市の大倉山公園内にある石碑。 日本画家として活躍。 本名は貫一。 1883年、楠木氏一門の橋本八郎正員の後裔・橋本海関・フジ夫妻の子として神戸市で生まれた。 中国の古典文学や風物を題材にした作品や「新南画」を確立。 1903年、父から漢学を学び、竹内栖鳳の竹杖会に入った。 1913年と1914年の文展で二等賞。 1916年と1917年の文展で特選を受賞。 帝展審査員、帝室技芸員、帝国芸術院会員となる。
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兵庫県神戸市の大倉山公園内にある伊藤博文公銅像台座。 銅像は太平洋戦争中の金属供出により撤去。 伊藤博文は初代兵庫県知事、初代内閣総理大臣。 初代は1904年に湊川神社本殿横に設置されたが、日露戦争の講和条約の内容に不満を募らせた民衆に引き倒され、姿を消した。 伊藤の暗殺後、親交のあった大倉財閥創始者、大倉喜八郎が再建し、2代目として神戸市に寄付。 銅像はフロックコートを着用、自身が起草の中心となった帝国憲法草案を手に持っていた。 台座の設計は、京都大学の時計台や京都府立図書館などを手掛け、「関西建築界の父」と呼ばれた武田五一。 弟子の一人、吉武東里がデザインしたとされる国会議事堂にも通じる。
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かつて神戸には海軍操練所があり、付近には「神戸海軍操練所跡碑」が建立。 1965年、神戸の開港、発展の先駆けとなった海軍操練所を記念して、神戸の財界や港湾関係者らが旧軍艦の錨を兵庫県に寄贈。 坂本龍馬も学んだとか。