江戸散歩 勝海舟ゆかりの地
東京江戸散歩 勝海舟ゆかりの地
勝海舟の江戸での生活に沿いながら江戸末期と明治初期の地図を使って歩きました。 - 本所亀沢町の勝海舟誕生の地 - 少年時代を過ごした本所入江町の屋敷跡 - そこから通った浅草新堀の島田虎之助の剣術道場跡 - 赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学んだ当時の赤坂田町屋敷跡 - 5年間の長崎海軍伝習所での訓練後に住んだ赤坂にある氷川明神北にある屋敷跡(この時期、坂本龍馬の訪問があった) - 明治以降に住んだ同じ氷川でも転坂を昇った場所にある屋敷跡 - 明治時代に使っていた洗足池にある別邸千束軒跡 - その脇に眠る勝海舟夫妻のお墓 散策を楽しみました。
本所亀沢町の勝海舟誕生の地。 父・小吉の実家である男谷家で文政6年(1823年)に生まれている。 現在の墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。 ここで7歳まで過ごした後は、本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らす。
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ここ本所入江町(現在の墨田区緑4-24)にあった屋敷は、7歳まで過ごした本所亀沢町から東に2キロほどの所にある。 その後、赤坂田町へ引越す。
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江戸時代の地図を見ると、本所入江町の屋敷跡の西側に小野家があります。 小野家は、山岡鉄舟の実家。 山岡鉄舟は天保7年(1836年)6月10日、蔵奉行だった小野朝右衛門高福の四男として生まれている。勝海舟13歳の時に産まれている。 この時から2人には繋がりがあったのだと考えられる。この2人が江戸城無血開城に向けて動いたのがここから始まっている。小野家の今は、学校になっている。
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この本所入江町の屋敷跡(岡野家屋敷)から海舟が通った浅草新堀の島田虎之助の剣術道場(現在の台東区元浅草)までの6キロほどの道を私も歩きました。 海舟は、この道場で直心影流の免許皆伝となっている。 本所割下水を通り、回向院の前を抜け、両国橋で隅田川を渡り、そこから北に向かって柳橋を通り、浅草新堀の島田虎之助の剣術道場へ向かいました。 写真は、当時の本所割下水の風景を描いた歌川広重の浮世絵。浅草から千葉方面を眺めた景色の様である。
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浮世絵が描く本所割下水の今の風景です。 浮世絵と同じ場所で撮りましたが、写真は千葉側から浅草方面を観た景色になっています。どちらの方向で撮ってもビルしか写らないので同じですね(笑)
現在、この通りを北斎通り、と呼んでいる。 この通り沿いに北斎誕生の地がある。
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北斎通りに面した北側に葛飾北斎誕生の地があります。 そこにありましたCoffe Shopでランチにサンドイッチを頂きました。ランチのセットにアンパンを追加して食べましが美味しい餡子がギッシリと詰まっていました。また食べたい。
久しぶりに回向院に立ち寄りました。 鼠小僧の墓の前に置いてある石を一生懸命削り集め持ち帰っている女性が居ました。懐かしい風景を観た気がしました。
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両国橋を渡る。当時の両国橋は、現在の位置よりも数十メートル南にあった。
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柳橋を渡る。
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この辺りの当時の地図。 江戸時代の両国橋と回向院の位置関係が今と少し異なる事がよくわかる。
勝海舟が通った浅草新堀の島田虎之助の剣術道場(現在の台東区元浅草)。 海舟は、この道場で直心影流の免許皆伝となっています。 現在、何の案内板ないので近所の方に尋ねてみましたが、島田剣術道場の事を知りませんでした。
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当時の地図を見ると島田、とある。
赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学んだ当時の弘化3年(1846年)には本所入江町の屋敷から赤坂田町屋敷に引越ししている。 写真は当時の地図。 赤坂田町は福岡藩屋敷の向かいにあるのがよくわかる。近くに引越して来た事になる。
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今の福岡藩屋敷跡です。 赤坂二丁目交番前交差点から丘に向けて見上げている。左に行くと溜池。現在は、NTTドコモ本社がある。 昔、何度か打ち合わせに行った事を思い出す。 そして、溜池の北側に面した丘の上にあった越後村上藩跡あたりに現在の内閣総理大臣官邸がある。
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赤坂二丁目交番前交差点から福岡藩屋敷とは反対側に当時の赤坂田町がある。 しかし、勝海舟の屋敷がどこにあったかは分かりませんでした。次に時間がある時探してみたい。 昔、この辺りでよく呑んだ事を思い出す。
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歌川広重の浮世絵に描かれた赤坂界隈の風景。 福岡藩屋敷から当時の日吉山王大権現社、現在の日枝神社を眺めた景色。右下に溜池がある。丁度、赤坂田町が絵の左側奥に当たるために、風景の外になるが、当時の赤坂界隈の雰囲気を感じる事ができる。
5年間の長崎海軍伝習所での訓練後に住んだ赤坂にある本氷川明神の北側にある勝海舟の屋敷跡。ここに1859年から住んでいる。 坂本龍馬が脱藩後(1862年)8月に江戸に来て小千葉道場で厄介になっていた頃の12月5日、龍馬は間崎哲馬と饅頭屋の近藤長次郎とともに数日前に松平春嶽からお願いして頂いた勝海舟への紹介状を持って龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となったのが、ここにあった海舟の屋敷である。 松平春嶽側の日記から坂本龍馬などによる勝海舟と横井小楠を紹介して欲しいとの依頼が、この数日前にあった事が分かっている。 日記によるとその日の早朝に彼らが尋ねて来ている。
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当時の地図に勝麟太郎、とあります。従って、この地図は1859年以降の江戸末期の地図である。
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永井 尚志、小栗上野介、そして勝海舟などが深く関わっていた。
佐久間象山様式砲術塾跡には電源開発株式会社の本社が建っている。勝海舟は妹を佐久間象山の嫁にしている。築地にあった海軍操練所からこの地に何度も足を運んだろうと思われる。
西軍を率いてきた西郷隆盛が陣地にした場所。この地に勝海舟は顔を出しているが西郷との会談は行っていない。
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この地は海舟の記憶によって指定された場所であるが、西郷隆盛は、この場所ではなくて今の品川駅から高輪プリンスホテルに向かった途中にあった薩摩藩屋敷の建物であると言っていたとの話もある。
明治以降に海舟が住んだ赤坂氷川の屋敷は、上記屋敷から転坂を上り、右に折れたところにある。 昔、私が訪れた時には氷川小学校がありましたが、現在はその小学校も無くなっていました。小学校の門の当たりに海舟の屋敷であった事を記した碑が建っていました。 転坂を中心に数百メートル四方の中に海舟が移り住んだ三軒の屋敷がある。
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明治時代、勝海舟は千束軒と呼んでいた別邸を持っていた。 赤坂から中原街道を西に下った洗足池にある。 今は、東京大田区の洗足池公園になっています。 千束軒は太平洋戦争で焼失し、今は、大田区立大森第六中学校が建っている、この別邸千束軒に西郷隆盛が訪れ、日本の将来を語り合った、との話しがある。
明治32年(1899年)1月19日に勝海舟は、風呂上がりにブランデーを飲んで倒れ意識不明となり死去している。 最期の言葉は「これでおしまい」だった、との話しが伝わっている。 その海舟のお墓は、奥さんと一緒に、この別邸千束軒跡の横にある。 なお、奥さんは、死後、海舟の隣のお墓を嫌い、長男が眠る青山墓地に葬られていた。何十年か後、ほとぼりが冷めたとの判断で、奥さんのお墓を現在の海舟の隣に移したとの話がある。なにかあったんでしょうかね。
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写真は広重の浮世絵に描かれた千足池 今の「洗足池」を当時は千足池と呼んでい。 中原街道側から北に向かって描いる。
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お墓は、洗足池に面してあります。今も昔も変わらぬ風景です。