
京都で散策する長州藩の足跡
京都京都で散策する長州藩の足跡
まいどまいど! 京都では今も薩摩藩や長州藩などの歴史が語り継がれ、中京区を走る京都市交通局の京都市役所前付近では京都市役所があり京都の中心部である一方、目の前にそびえたつホテルには桂小五郎(木戸孝允)、長州藩屋敷址などの石碑が立ち並び、歴史ファンを魅了する。 またその跡地はかつて常磐ホテルであったといい、ホテルオークラの前身にあたるとか。 京都市街地を南北に流れる高瀬川は道行く観光客に癒しを与え、景色の一部の中に溶け込んではりまんな。 ただし、この高瀬川も実は人の手によって開削され、今もその偉業が語り継がれてまんねん。 名を角倉了以。 当時は京都の豪商として知られ、高瀬川以外にも富士川、天竜川、庄内川など、開削に携わった人物でんな。 そんな角倉氏の邸宅の一部であった別宅が残り、レストランとして営業してまんねん。 その近くには京都を代表する企業・島津製作所の本社ビルもおまっせ。 本社ビルの一部では創業当時のままの姿を保存している社屋がおまして、見学することもできまんねん。 京都の下町もおもろい。 皆さんもぶらぶら歩ていてみまへんか。
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1833年、長門国萩城下呉服町(山口県萩市)生まれ。 日本の武士(長州藩士)、政治家で後の木戸孝允。 長州藩出身でかつて当地に長州藩屋敷址があった。 幕末、尊王攘夷派(長州正義派)で明治維新の指導者として活躍し、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ維新の三傑の一人。 留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者であった。 維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を発表。
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文明開化、版籍奉還、廃藩置県
文明開化を推進する一方、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。 海外視察も行い、憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求、また新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進。
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1888年、兵庫県神戸市の実業家であった前田又吉が京都の川端二条で旅館「京都常盤」を創業。 1890年、長州藩邸・勧業場の跡地に現在の洋風木造建築の「常盤ホテル」を開業。 1894年、常盤ホテルは井上喜太郎によって買収され、「京都ホテル」として営業。 1928年、鉄筋コンクリート構造・7階建てとして完成。 1991年、高さ約60mのビル「京都ホテルおいけ本館」を建設。 2002年、京都ホテルはホテルオークラとの業務提携を決定し、オークラホテルズ&リゾーツに加盟。 前田又吉は長州藩出身の初代兵庫県知事(官選)・内閣総理大臣・初代枢密院議長・初代貴族院議長などを歴任した伊藤博文と親交があったとか。
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常磐ホテル
「常盤ホテル」の時に使用されていた。
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江戸時代、周防と長門を拠点とした外様大名で、藩主は毛利家。 藩庁は長門国阿武郡萩の萩城、周防国吉敷郡山口の山口城に置いた。 また、当地に長州藩屋敷を建設した。 江戸時代、尊王攘夷運動の拠点となるも、1864年の禁門の変で焼失。 1868年の鳥羽伏見戦の後、征東に赴く長州兵の調練場となった。
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1877年、明治天皇の関西行幸が行われた。 行幸は西南戦争が勃発したため長期化し、勧業場を視察。 勧業場とは、遷都後の産業振興をはかるため、京都府が1871年に京都近代化政策の一環として長州藩邸跡に設置した産業振興の中枢機関で、商工業に関する事務・特産品の陳列等を行った。 欧米各国の先進技術を導入した各種の生産施設が設けられ、実験的役割を果した。 1881年、廃止。
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江戸時代、高瀬川は豪商角倉了以と素庵によって開削。 高瀬川という名称の由来は日本各地で使用された川舟の一つである高瀬舟から。
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高瀬川
開削後、高瀬川には高瀬舟などが頻繁に行き交い、舟入は荷物の積み下ろしと船の方向転換に使用された。 一之舟入のみが現存し、二之舟入、三之舟入、五之舟入、六之舟入、七之舟入、八之舟入、九之舟入の各舟入は消滅。
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高瀬舟
一之船入付近では高瀬舟が再現されている。
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佐久間象山は信濃国松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家として活躍した。 1864年、佐久間象山は当地で肥後の攘夷志士・川上彦斎に襲撃され、没した。 大村益次郎(村田良庵)は長州藩の医師、西洋学者、兵学者、維新の十傑の一人として活躍した。 1869年、大村益次郎は当地で刺客に襲撃され、大阪で没した。
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かつてこの場所に稲荷大明神が鎮座していた。 角一龍王 白姫辨財天は招福火除の弁財天として信仰を集めていたが、1989年に遷座した。
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幕末期、長州藩の医師、西洋学者、兵学者、維新の十傑の一人として活躍した大村益次郎(村田良庵)。 1825年、周防国(山口県山口市)生まれ。 防府で梅田幽斎に医学や蘭学を学び、広瀬淡窓の私塾「咸宜園」に入門、漢籍、算術、習字など学ぶ。 1846年、大坂で緒方洪庵の私塾「適塾」で学ぶ。 1850年、帰郷し、四辻で村医として開業。 江戸では幕府の講武所教授等を歴任。 長州藩に仕え、軍制改革を指導し、農民や町人の兵式訓練の必要性を説いた。 長州征伐や戊辰戦争においても指揮を行い、新政府では兵部大輔として近代兵制の樹立に尽力。 1869年、関西の軍事施設視察時、反対派浪士に襲撃され大阪で没した。
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1833年、長門国萩城下呉服町(山口県萩市)生まれ。 日本の武士(長州藩士)、政治家で後の木戸孝允。 幕末、尊王攘夷派(長州正義派)で明治維新の指導者として活躍し、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ維新の三傑の一人。 留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者。 維新後、総裁局顧問専任となり、「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を発表。 文明開化を推進する一方、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。
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桂小五郎と幾松
海外視察も行い、憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求、また新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進。 その一方、花街三本木の芸妓・幾松と恋仲となり、新選組に追われながら苦難の時代を過ごし、幾松の機転で助かったとも。 桂小五郎と幾松は結婚して当地に住み、幾松は松子と名乗っていた。
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1872年、京都府立医科大学附属病院の前身にあたる療病院が創設。 蘭学医の明石博高らが中心となって資金を募った。 木屋町二条に仮病院を開設し、ドイツ人医師らによる診療を開始。 青蓮院に移転し、診療と医学教育を開始。 仮病院から本院に発展し,河原町広小路に開院。 1903年,京都府立医学校が京都府立専門学校(京都府立医科大学)に改編された際、附属病院となった。
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江戸時代に活躍した豪商・角倉了以。 1554年、近江国愛知郡吉田村(滋賀県犬上郡豊郷町)生まれ。 室町幕府お抱えの医者として務め、医業で得た財を元に土倉を営んだ。 「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られたという。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を開始。 江戸時代、京都の山城の大堰川、高瀬川は私財を投じて開削。 その他、富士川、天竜川、庄内川などの開削を行い、琵琶湖疏水の設計者・田辺朔郎と共に「水運の父」と呼ばれた。
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京の三長者
角倉家の本姓は吉田氏といい、佐々木氏の分家。 日本酒の酒蔵である岡村本家を経営する岡村家は角倉家の一族であるとか。 角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」といわれた。
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1875年、初代島津源蔵氏により島津製作所を設立。 初代島津源蔵氏は京都府京都市生まれ。 1895年、日露戦争の日本海海戦で三六式無線電信機にも使用された蓄電池の製造を開始。 1975年、創業100周年を記念して島津創業記念資料館を開設。 医療用X線装置、分光写真器、電子顕微鏡、ガスクロマトグラフ、生体磁気計測装置など数多くの日本初、直接変換方式フラットパネル検出器を搭載したX線診断装置などの世界初を生み出した。
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1975年、精密機器、計測器、医療機器、航空機器を製造する島津製作所は創業100周年を記念して企業博物館として開館。 施設内では、創業者で初代島津源蔵氏に関する資料の展示や住居・研究所として使用していた建物を保存・公開している。 その他、ソフトレーザーによる質量分析技術の開発により学士で唯一のノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏に関連する資料も展示・公開している。 1888年に南棟、1894年に北棟が建設され、国の登録有形文化財に指定。
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江戸時代に活躍した豪商・角倉了以。 1554年、近江国愛知郡吉田村(滋賀県犬上郡豊郷町)生まれ。 室町幕府お抱えの医者として務め、医業で得た財を元に土倉を営んだ。 「角倉」は運営していた土倉の名前の一つから取られたという。 朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を開始。 江戸時代、京都の山城の大堰川、高瀬川は私財を投じて開削。 その他、富士川、天竜川、庄内川などの開削を行い、琵琶湖疏水の設計者・田辺朔郎と共に「水運の父」と呼ばれた。 角倉家の本姓は吉田氏といい、佐々木氏の分家。 日本酒の酒蔵である岡村本家を経営する岡村家は角倉家の一族であるとか。
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レストラン
角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」といわれた。 1611年、角倉了以は邸宅付近に別邸を建設し、作庭。 以後、明治時代には元勲 山縣有朋の別邸「第二無鄰庵」。 第三代日本銀行総裁川田小一郎の別邸。 安倍市太郎氏が所有。 大岩邸となり、現在はレストランが営業。
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山号は終南山。 院号は真光明院。 宗派は知恩院派浄土宗。 本尊は阿弥陀如来像。 善導寺型燈籠、石造仏が有名。 筑後国・善導寺の憎・然誉清善(源蓮社清善)が、六角堂南付近に草庵を建てたことに始まる。 長谷川重兵衛の寄進により遷座するも江戸時代の天明の大火により焼失。 1817年、再建。 江戸時代の画家・鶴沢探山、鶴沢探鯨、江戸時代の俳人・西村定雅らの菩提寺。
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山号は日照山。 宗派は浄土宗西山深草派。 本山は誓願寺。 1591年、豊臣秀吉の母、大政所が帰依する長翁玉春上人によって開基。 1983年、現在地に遷座。 縁切りで有名な菊野大明神が祀られている。 十一面観音菩薩石像は高さ約10mで一刀彫りの石像としては日本一の高さを誇る。 また当地は、長州藩を倒幕させ、明治維新の頃に活躍した「久坂玄瑞 吉田稔麿 等寓居跡」、土佐藩出身で長州藩とも縁の深かった「此南 池田屋事件 望月亀弥太終焉伝承地」、「此南西 吉田稔麿所縁 塩屋兵助宅跡伝承地」。
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